朝ドラ「エール」村野鉄男(むらの・てつお)のモデルの生涯

朝ドラ「エール」に登場する村野鉄男(キャストは中村蒼)のモデルとなった福島県出身の作詞家・野村俊夫の生涯を紹介します。

福島時代

野村俊夫(のむら・としお)は、明治37年(1904年)11月21日に福島県福島市大町で、魚屋「魚忠」を営む鈴木忠八の3男として生まれました。

野村俊夫は福島市立第一小学校を卒業後、福島商業学校へと進学したのですが、病気や家庭の事情により中退しました。

中退後、福島県の富豪・角田林兵衛の家に2年間、奉公していたのですが、密かに勉強していた事が奉公先にバレてしまい、「そんなに勉強したいのなら、家で本格的に勉強しなさい」と言われ、実家へ返されてしまいます。

その後、3年ほど家業を手伝いながら、勉強を続け、20歳の時に福島民友新聞社へ入社し、報道部の新聞記者として奔走しながら、文芸欄も担当しました。

上京後

昭和5年、幼なじみの作曲家・古関裕而が日本コロムビアの専属契約するために上京します。

野村俊夫は古関裕而に誘われて、福島民友新聞社を辞めると、昭和6年3月に姉テウを頼って上京しました。

野村俊夫は、仕事をしながら純粋詩を書くために上京したのですが、福島時代に作詞した「福島行進曲」が古関裕而のデビューレコードに採用され、フリーの作詞家として活動を開始しました。

しかし、リベラルな思想を持っていた野村俊夫は、国の意向に背くような歌詞ばかり書いていたので、ことごとく検閲で棄却され、ブラックリストの筆頭になってしまい、レコードの仕事が出来なくなってしまうのでした。

妻と2人の娘を抱えていた野村俊夫は、生活のために方針を転換し、昭和14年に戦時小唄「ほんとにほんとに御苦労ね」を作詞してヒットさせます。

そして、昭和14年の「上海夜曲」が大ヒットし、野村俊夫は日本コロムビアの専属となって、ようやく安定した生活が送れるようになりました。

さらに、昭和15年には、福島出身の古関裕而・伊藤久男と手がけた「暁に祈る」が爆発的にヒットしました。

野村俊夫・古関裕而・伊藤久男の3人が福島県の出身だったことから「福島三羽ガラス」と呼ばれ、戦時中に数多くの曲を手がけました。

戦後から晩年

戦後は昭和23年に、作詞家・古賀政男とのコンビで「湯の町エレジー」を大ヒットさせます。

その後は、ジャスラックの理事に就任して、音楽家の権利拡大に奔走する一方で、作曲家の古関裕而・古賀政男らとともに数多くの歌を作り、島倉千代子や美空ひばりにも歌を提供しました。

野村俊夫は、昭和40年にジャスラックの常務理事を辞任します。経営問題の責任を取って辞めたらしいです。

その後、昭和41年(1966年)9月30日に十二指腸潰瘍の手術を受けたのですが、手術後の腸閉塞により、昭和41年10月27日に死去しました。62歳でした。

朝ドラ「エール」のモデル一覧は『朝ドラ「エール」のキャストとモデル』をご覧ください。

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