美人アニメーター中村和子の立志伝

手塚治虫の右腕として活躍したアニメーター中村和子(なかむら・かずこ)の立志伝です。

中村和子の立志伝

中村和子中村和子は昭和8年(1933年)4月1日に満州国の旅順で生まれた。

小さい頃から絵が好きで、満州には美術大学が無かったため、内地(日本)の美術大学に進学して、卒業後は満州に戻ることになっていた。

しかし、昭和20年(1945年)、中村和子は12歳の時に外地で終戦を迎えた。ロシア兵が満州に入ってくると、民間人にも銃口を向けたので、銃弾をかいくぐって歩くことに慣れていたという。

その後、山口県に帰国。中村和子は宇部高校から女子美術大学の洋画科へ進学した。絵で生活していくのは大変なので、中学と高校の教員免許も取得した。

女子美術大学を卒業後、山口県に帰りたくなかったので、半年ほど色々なアルバイトをしていたとき、「東映動画(東映アニメーション)」が設立されることになったので、試験を受けてみたところ、合格した。4人が採用され、女性は中村和子だけだった。

こうして、「東映動画」の前身となる「日本動画(日動)」へ通い、アニメーターの森康二大塚康生などと出会った。

東映動画時代

昭和31年(1956年)、「東映動画」の設立に伴い、中村和子は「東映動画」に入社し、日本初の長編カラーアニメーション「白蛇伝」の制作に加わった。

このとき、原画を担当できるのは大工原章と森康二の2人しかいなかったので、大工原章と森康二を補佐するため、「セカンド(第2原画)」というポジションが考案された。

そして、中村和子・大塚康生・坂本雄作・紺野修司・喜多真佐武・寺千賀雄(勝井千賀雄)の6人が「セカンド(第2原画)」に抜擢された。女性でセカンドに抜擢されたのは、中村和子だけだった。

その後、中村和子は映画「少年猿飛佐助」「西遊記」を手がた。「西遊記」は、手塚治虫の「ぼくの孫悟空」を原案としており、手塚治虫が制作に参加していた。

さて、「東映動画」では、「西遊記」の次に映画「安寿と厨子王丸」を制作することが決まった。

しかし、「安寿と厨子王丸」は、会社から押しつけられた企画であり、現場のアニメーターからの反発は強く、紺野修司・坂本雄作などが退社して、手塚治虫の元へと移り、「虫プロダクション」の創設に参加した。

このようななか、中村和子は広告代理店「萬年社」の穴見薫と結婚して、「東映動画」を退社し、絵本作家へと転向した。

当時の「東映動画」では、女性は結婚したら会社を辞めるという決まりがあったので、寿退社したのだろう。

「東映動画」の女性で初めて結婚しても会社に残ったのは、アニメーター奥山玲子で、奥山玲子が結婚するのは、日本初の国産TVアニメ番組「鉄腕アトム」の放送が開始された昭和38年(1963年)月7日のことである。

そして、奥山玲子が前例となり、宮崎駿と結婚した大田朱美など、結婚して会社に残る女性が現れるようになった。

鉄腕アトム

「東映動画」が手がけた「西遊記」は、手塚治虫の「ぼくの孫悟空」を原案としており、手塚治虫が制作に参加していた。

このとき、「東映動画」の白川大作は、手塚治虫から漫画「鉄腕アトム」をTV番組にする許可を得たので、TVで「鉄腕アトム」の紙芝居を制作しようと考え、「東映動画」に許可を求めた。

しかし、白川大作は、「東映動画」の上層部から「ここにきてる連中は、皆、画を動かすためにきてるんだ」と叱責され、「鉄腕アトム」の企画は立ち消えになった。

その後、「東映動画」から「虫プロダクション」へ移籍した坂本雄作が「鉄腕アトム」のアニメ化を山本暎一に相談し、実験的アニメを作ろうとしていた手塚治虫が「鉄腕アトム」のアニメ化を許可した。

そして、広告代理店「萬年社」の穴見薫(中村和子の夫)が明治製菓をスポーンサーにつけることに成功し、TVアニメ「鉄腕アトム」の制作が始まった。

「鉄腕アトム」は制作費が安かったうえ、毎週1本のアニメを作らなければならないという無謀な試みだった。

そこで、中村和子は、「東映動画」で「西遊記」を手がけた時に手塚治虫に実力を認められており、手塚治虫から「週に2回ばかり来てくれればいい」と熱烈なスカウトを受ける。

そのようななか、「東映動画」から手塚治虫の「虫プロダクション」に移籍したアニメーターが大勢居たので、中村和子は昭和37年(1962年)5月ごろ、「虫プロダクション」に顔を出してみた。

すると、「虫プロダクション」では「鉄腕アトム」の第1話を制作中で、中村和子は夫・穴見薫から「先生を助けて欲しい」と頼まれらしく、その日から徹夜で仕事をすることになってしまった。

こうして、中村和子は「虫プロダクション」で、実験的アニメ「ある街角の物語」を手がける一方で、「鉄腕アトム」でも作画監督を務め、昭和38年(1963年)1月に日本初の国産TVアニメ番組「鉄腕アトム」の放送を開始された。

その後、中村和子は、昭和39年(1964年)にアニメーターを引退して専業主婦となった。

一方、広告代理店「萬年社」の夫・穴見薫は、「鉄腕アトム」での手腕が買われ、「虫プロダクション」の常務として迎え入れられた。

ナウなアニメ

手塚治虫は毎週1本のアニメを放送するため、絵を動かさない「リミテッドアニメーション」という手法を使って省セル化し、「鉄腕アトム」を作った。「鉄腕アトム」は絵が動かないので、「電気紙芝居」と揶揄された。

「東映動画」では「フルアニメーション」という手法で、手間と時間を使ってアニメを作っていたので、「東映動画」時代の元同僚・大塚康生や高畑勲は、省セル化したTVアニメに批判的だった。

こうした批判に対して、中村和子は、大塚康生に「東映的なやり方はダメなのよ。ナウなアニメっていうのは動かさないことなのよ」と言ってのけた。

「W3(ワンダースリー)」で作画監督

昭和40年(1965年)、「虫プロダクション」は、TVアニメ「ジャングル大帝」に平行して、TVアニメ「W3(ワンダースリー)」を制作することになった。

夫・穴見薫は仕事のことで悩んでいたようで、中村和子は夫・穴見薫から「先生を助けて欲しい」と頼まれ、アニメーターに復帰し、昭和40年(1965年)放送のTVアニメ「W3(ワンダースリー)」で作画監督を務めた。

このとき、中村和子は、「いすず自動車」の「ベレット」を新車で購入したので、車好きの大塚康生に見せに行った。

すると、中古車を乗っていた大塚康生は羨ましくなり、「ちょっと運転を教えてあげる」と言い、中村和子を乗せて新車の「ベレット」を運転し、高速コーナーリングを見せようとしたが、失敗して塀にぶつかり、車を廃車にしてしまった。

中村和子が「せっかく買ってもらった車がこんなになっちゃって、主人にとても報告できない」と言い、道路にしゃがみ込んで、真っ青になって震えていたので、大塚康生は夫・穴見薫に謝るために「虫プロ」へ行った。

すると、「虫プロ」はアニメ「W3(ワンダースリー)」のオープニングを描く人が居なくて困っていたので、夫・穴見薫は大塚康生が車を壊したことを喜び、「W3(ワンダースリー)」のオープニングを描くことを条件に大塚康生を許した。

こうして、大塚康生は、1週間で「W3(ワンダースリー)」のオープニング30カットを描き上げ、車の件はチャラになり、作画料4万5000円まで貰った。このとき、大塚康生の月給は4万円だった。

夫・穴見薫の死去

昭和41年(1966年)、「W3(ワンダースリー)」が終わると、手塚治虫から指名され、TVアニメ「リボンの騎士」で作画監督を務める。制作に伴い、宝塚歌劇団を観に行った。

昭和41年12月、「リボンの騎士」のパイロットフィルムが完成して、中村和子が久しぶりの休みを取っていたとき、「虫プロダクション」で常務をしていた夫・穴見薫が会社で倒れ、そのまま死去してしまった。

しかも、月岡貞夫が途中で降りてしまったので、TVアニメ「リボンの騎士」では中村和子が1人で作画を務めなければならない状況になったが、赤堀幹治が入ってきたので、赤堀幹治に男性キャラクターの一部を任せた。

「千夜一夜物語」と「クレオパトラ」

手塚治虫は大人向けのアニメを作ることにして、昭和44年(1969年)公開の映画「千夜一夜物語」を制作。中村和子は映画「千夜一夜物語」で原画を担当した。

映画「千夜一夜物語」は大人向けのアニメとしては異例のヒットとなるが、アニメーターの人件費が高騰しており、出資比率の関係から、「虫プロダクション」は赤字に終わった。

さて、大人向け映画「千夜一夜物語」の成功を受けて、昭和45年(1970年)公開の大人向け映画「クレオパトラ」が制作され、中村和子は映画「クレオパトラ」で作画を担当した。

映画「クレオパトラ」はエロスを売りにした映画だが、中村和子は「小島功さんのキャラクターデザインだから、特にどうのこうのという事はなかったけど、あの大人のお色気というのは、えげつなくなければ、別に女性が描いても照れるということはないですね」とコメントしている。

さて、映画「クレオパトラ」もヒットしたが、経営が悪化していた「虫プロダクション」を立て直すことは出来なかった。

「虫プロ」を退社

「虫プロダクション」は、アニメ制作部門が赤字で、手塚治虫の原稿料や著作権料で持ちこたえていた。

しかし、「虫プロダクション」は大きくなりすぎて、手塚治虫の自由にならなくなったことに加え、おりからの劇画ブームもあり、手塚治虫の漫画は人気が陰り、手塚治虫の原作ではアニメが制作できなくなっていた。

このため、手塚治虫は「虫プロダクション」に嫌気を刺すようになり、昭和43年(1968年)に漫画を制作管理する会社「手塚プロダクション」を設立した。

そのようななか、昭和46年(1971年)、中村和子が手塚治虫に退社を打ち明けると、手塚治虫も退社を決めており、一緒に「虫プロダクション」を退社する。

こうして、手塚治虫は、中村和子・赤堀幹治・上口照人・三輪孝輝の4人をスタッフに迎え、実験的アニメ「森の伝説」の制作を開始する。

そのようななか、「手塚プロダクション」で、手塚治虫の漫画「ふしぎなメルモ」のTVアニメ化が決まった。

手塚治虫は、「虫プロダクション」関係者を使えば、迷惑がかかるとして、TVアニメ「ふしぎなメルモ」に「虫プロダクション」関係者は使わない方針だった。

しかし、手塚治虫は、自分で描きたいが、時間が無くて描けないため、こっそりと、信頼する中村和子に「ふしぎなメルモ」のオープニングを頼んだ。

このため、中村和子は「中村橋スタジオ」という名義で「ふしぎなメルモ」の作画を担当している。

しかし、間もなく「虫プロダクション」が倒産したため、実験的アニメ「森の伝説」も頓挫し、手塚治虫はアニメの制作から離れて漫画に専念することになった。

こうして、中村和子はフリーのアニメーターになるが、手塚治虫が方々に中村和子を推薦したので、中村和子はフリーになっても、途切れることなく仕事が入ってきたという。

「おやゆび姫」で作画監督補佐

「東映動画」が制作した昭和53年(1978年)公開の映画「おやゆび姫」は、手塚治虫がキャラクターデザインを務めた。

このとき、手塚治虫が「東映動画」の重役に「中村和子を使わなければ、僕はこの作品を辞めます」と宣言したという。

このため、中村和子は、古巣の「東映動画」から色々な形で誘いを受け、「おやゆび姫」で作画監督補佐を務めた。

火の鳥

昭和53年(1978年)1月、手塚治虫はアニメ制作を再開する目処が付いたので、旧「虫プロダクション」の中村和子と小林準治を集めて、実験的アニメ「森の伝説」の制作を再開した。

そのようななか、映画監督の市川罠が東宝で、手塚治虫の漫画「火の烏」を実写映画化することになった。

しかし、「火の鳥」を実写化することが難しいため、実写とアニメーションの融合で作ることにして、アニメ制作を手塚治虫に依頼した。

手塚治虫はアニメが作れる事を喜んで引き受け、中村和子は昭和53年(1978年)公開の映画「火の鳥・黎明編」で原画を担当した。

さて、映画「火の鳥・黎明編」のヒットにより、東宝から手塚治虫に全編アニメで「火の鳥」を制作する話が舞い込み、中村和子は昭和55年(1980年)公開の映画「火の鳥2772」でアニメーション・ディレクターを務めた。

晩年

中村和子は、NHKの朝ドラ「なつぞら」の大沢麻子(貫地谷しほり)のモデルとされていたが、朝ドラ「なつぞら」の放送中の2019年8月3日に死去した。86歳だった。

中村和子の備考

  1. 手塚治虫は中村和子の「和子」を音読みして、「ワコさん」と呼んだ。
  2. 美人アニメーターとして有名で、東映動画の警備員は中村和子を観て女優と間違えた。
  3. 虫プロで一番綺麗なのは誰かという話になり、1番に選ばれた。
  4. 不眠症で薬を飲まなければ眠れなったので、2日間、描き続けても平気だった。

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