朝ドラ「なつぞら」の森田桃代(伊原六花)のモデル

NHKの朝ドラ「なつぞら」に登場する森田桃代(伊原六花)のモデルを紹介します。

「なつぞら」の森田桃代(もりた・ももよ)

朝ドラ「なつぞら」に登場する森田桃代(伊原六花)はセル画の彩色を担当しており、奥原なつ(広瀬すず)と親しくなり、奥原なつ(広瀬すず)から「モモッチ」と呼ばれる。

スポンサードリンク

森田桃代(伊原六花)のモデル

森田桃代(伊原六花)のモデルは、東映動画で「やっちん」と呼ばれていた保田道世(やすだ・みちよ)です。

保田道世は、東京都出身で昭和14年(1939年)4月28日生まれ。高校に来ていた求人を見て、東映動画の「仕上げ」の試験を受け、昭和34年(1959年)4月に東映動画へ入社した。

森田桃代(伊原六花)は奥原なつ(広瀬すず)の先輩という設定だが、奥原なつ(広瀬すず)のモデルとなった奥山玲子は昭和32年(1957年)に東映動画に入社しているので、史実では奥山玲子の方が先輩である。

また、保田道世はCM制作部の「仕上げ」に配属されたので、奥山玲子らのように映画「白蛇伝」などには関わっていない。

さて、CM制作部の「仕上げ」に配属された保田道世は、色彩を担当し、その後トレースに昇格した。

しかし、その後、CM制作部の「仕上げ」が廃止になり、「仕上げ課」へ異動し、TVアニメ「狼少年ケン」を手がけた。

昭和39年(1964年)、保田道世は労働組合の書記に就任し、労働組合の副委員長・高畑勲と書記長・宮崎駿と出会い、交流を持つようになる。

その後、高畑勲と宮崎駿が手がけた映画「太陽の王子・ホルスの大冒険」でトレースを担当したことで、高畑勲と宮崎駿に大きな影響を受け、映画への関わり方を考えるようになるのだった。

さて、保田道世は高畑勲と宮崎駿から信頼される一流のトレーサー(トレース担当者)となっていたが、その後、トレースマシンの普及により、トレースの技術を生かせなくなっていた。

そこで、保田道世は演出家の高畑勲に、演出助手にして欲しいと頼んだが、会社の方針転換により、演出助手になれず、東映動画を退社した。

その後、保田道世はアニメ「ルパン三世」「パンダコパンダ」「パンダコパンダ・雨ふりサーカス」「アルプスの少女ハイジ」でトレースを手がけた。

そして、アニメ「小さなバイキング」で、初めて色指定という仕事を手がけ、以降、保田道世は色彩の道を歩んでいく。

その後、保田道世は「未来少年コナン」「赤毛のアン」「南の虹のルーシー」「ミームいろいろ夢の旅」を手がけ、高畑勲から誘われて「風の谷のナウシカ」で色指定を務めた。

映画「風の谷のナウシカ」の成功により、スタジオジブリが設立され、保田道世はスタジオジブリ第1弾となる宮崎駿の「天空の城ラピュタ」で色指定を務めた。

スタジオジブリの次回作として、宮崎駿の「となりのトトロ」と、高畑勲の「火垂るの墓」が同時上映されることになり、宮崎駿と高畑勲が保田道世を奪い合った。

保田道世は、どちらも断ることが出来ず、「火垂るの墓」と「となりのトトロ」を掛け持ちした。

その後、保田道世はジブリスタジオの「魔女の宅急便」「おもひでぽろぽろ」「紅の豚」「平成狸合戦ぽんぽこ」などを手がけ、「もののけ姫」でデジタルペイントを導入した。

宮崎駿は「俺の時代にコンピューターは使わない」と宣言していたので、ジブリスタジオはデジタル化が進んでいなかったが、宮崎駿は保田道世に頭が上がらないので、保田道世の鶴の一声により、デジタル化が進んだという。

その後、保田道世は映画「ホーホケキョ・となりの山田くん」「千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」「ゲド戦記」などで、色彩設計を務め、平成20年(2008年)公開の「崖の上のポニョ」を最後に現役を引退した。

しかし、保田道世は、宮崎駿に引き戻されて平成25年(2013年)公開の「風立ちぬ」で色彩設計を担当し、「風立ちぬ」を最後にスタジオジブリを退社した。

その後、保田道世はガンで入院し、平成28年(2016年)10月5日に死去した。77歳だった。

なお、保田道世のエピソードなどを知りたい方は、「保田道世の立志伝」をご覧ください。

スポンサードリンク