朝ドラ「なつぞら」坂場一久(中川大志)のモデル

NHKの朝ドラ「なつぞら」に登場する坂場一久(さかば・かずひさ)の実在のモデルを紹介します。

「なつぞら」の坂場一久(中川大志)

朝ドラ「なつぞら」に登場する坂場一久(中川大志)は、東洋動画の監督見習いである。

坂場一久(中川大志)は、アニメの知識が豊富で、様々なアイデアを思いつくが、要領が悪いうえ、アニメーターに無理難題を言って困らせる。

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坂場一久(中川大志)のモデルは高畑勲

朝ドラ「なつぞら」に登場する坂場一久(中川大志)のモデルは、「パクさん」と呼ばれた演出家の高畑勲です。

高畑勲は仕事が遅いことで有名で、宮崎駿から「ナマケモノの子孫だ」と揶揄されました。

高畑勲は昭和10年(1935年)10月29日に三重県宇治山田市で生まれた。父親は岡山県の教育院長などを務めた高畑浅次郎である。

高畑勲は映画館でアニメ「やぶにらみの暴君」を観てアニメーションを作ることを決意し、東京大学を卒業して、昭和34年(1959年)に演出助手として東映動画(東映アニメーション)に入社した。

奥原なつ(広瀬すず)のモデルとなる奥山玲子は、昭和32年(1957年)に東映動画へ入社しているので、高畑勲は奥山玲子の2年後輩である。

高畑勲は昭和36年(1961年)公開の「安寿と厨子王丸」で演出助手を務めてデビューし、同年秋に労働組合が発足すると、労働組合の副委員長に就任した。

おそらく、奥山玲子と交流が生まれたのは労働組合が誕生して以降で、奥山玲子の夫・小田部羊一が東映動画から解雇されそうになったとき、労働組合の中心に居た高畑勲や宮崎駿が解決に乗り出し、解雇の撤回に成功している。

さて、高畑勲は、TVアニメ「狼少年ケン」で初演出を務め、大塚康生に認められて、「太陽の王子・ホルスの大冒険」で長編初の演出を担当した。

しかし、労働組合の主導で作られた「太陽の王子・ホルスの大冒険」は、東映の長編史上で最低を記録したため、高畑勲は演出助手へと降格処分となった。

その後、高畑勲は、TVアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」「もーれつア太郎」「アパッチ野球軍」の演出を務めたが、東映動画に居ても良い映画を担当できないため、昭和46年(1971年に宮崎駿・小田部羊一ともにAプロダクションへと移籍した。

その後、高畑勲はTVアニメの第1シリーズ「ルパン三世」、映画「パンダコパンダ」「パンダコパンダ・雨ふりサーカスの巻」で演出や監督を務めた。

そして、昭和48年(1973年)に宮崎駿・小田部羊一ともにズイヨー映像へと移籍し、TVアニメ「アルプスの少女ハイジ」「フランダースの犬」「母をたずねて三千里」「未来少年コナン」などを手がけた。

その後、高畑勲は、昭和55年(1980年)に「テレコム・アニメーションフィルム」へ移籍して、映画「じゃりン子チエ」「セロ弾きのゴーシュ」を手がけた。

そして、日米合作映画「ニモ」を手がけていたが、日米の違いから「ニモ」の製作が迷走し、高畑勲は途中降板して、フリーに転身した。

その後、高畑勲は宮崎駿と合流して「風の谷のナウシカ」でプロデューサーを務めた。

「風の谷のナウシカ」の成功を受けて、高畑勲は「スタジオジブリ」の設立を提案し、「スタジオジブリ」の発足に参加した。

しかし、高畑勲は、作り手が経営に関わるべきでは無いという信念から、「スタジオジブリ」の経営にはタッチせず、フリーという立場で、「天空の城ラピュタ」「火垂るの墓」「魔女の宅急便」「おもひでぽろぽろ」「平成狸合戦ぽんぽこ」「ホーホケキョ・となりの山田くん」「かぐや姫の物語」などを手がけた。

そして、高畑勲は2018年4月5日に肺がんで死去した。

奥原なつ(広瀬すず)のモデルとなった奥山玲子と高畑勲が一緒に手がけたアニメは、「安寿と厨子王丸」「太陽の王子・ホルスの大冒険」「母をたずねて三千里」「シートン動物記・くまの子ジャッキー」「火垂るの墓」だけなので、この辺のアニメが朝ドラ「なつぞら」で取り上げられるのではないかと思う。

なお、朝ドラ「なつぞら」の各モデルについては「なつぞら-実在のモデル」をご覧ください。

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