ドラマ「仰げば尊し」のモデル「野庭高校・吹奏楽部」の立志伝

寺尾聰が主演するTBSのドラマ「仰げば尊し」のモデル「野庭高校・吹奏楽部の立志伝」です。

このページは『ドラマ「仰げば尊し」の実話「野庭高校・吹奏楽部の立志伝」』からの続きです。

学校との軋轢

神奈川県立野庭(のば)高校の吹奏楽部は、中澤忠雄の指導を受けるようになってから、わずか2年で全国大会初出場で金賞に輝いた。さらに、翌年の昭和59年(1984年)も全国大会で金賞に選ばれた。

しかし、こうした吹奏楽部の快挙とは裏腹に、野庭高校は中澤忠雄の事を快く思っていなかった。

吹奏楽部が練習に力を入れるあまり、朝練で疲れて授業中に寝る部員や、授業はサボっても部活には参加する生徒が増えていた。

しかし、中澤忠雄は自宅で生徒にタバコを吸わせていたことがあるので、学校側は中澤忠雄を快く思っていなかったのである。

吹奏楽部と学校側の軋轢が増すなか、国語教師・寺尾弘は校長から頼まれ、吹奏楽部の顧問に就任する。

国語教師・寺尾弘は吹奏楽部を快く思わない教師の1人で、顧問を引き受けたが、吹奏楽部に対して「学校の方針に背けば中澤忠雄に辞めてもらう」という条件を付けていた。

ところが、国語教師・寺尾弘は、熱血教師だったので、中澤忠雄の吹奏楽部への熱い思いを知ると、一転して、中澤忠雄の支持者となり、吹奏楽部の盾となって、学校側との交渉など、吹奏楽部のために奔走するようになった。

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謹慎処分

昭和60年(1985年)の夏、吹奏楽部の男女が無断外泊するという事件が起きた。

事件は些細なことだったが、中澤忠雄は、自主的な謹慎処分として吹奏楽部に練習を禁じ、草むしりを命じた。

しかし、部員2人が従わずに草むしりをしなかったので、中澤忠雄は激怒して部員2人を退部させた。

ところが、辞めさせた2人は人数の少ないパートを担当していたため、抜けた2人の穴埋めが出来ず、吹奏楽部は音楽的なバランスを欠いてしまう。

この年、野庭高校・吹奏楽部は県大会で素晴らしい演奏をしたが、バランスを欠き、まさかの敗退。関東大会へ進めなかった。

自分の責任だと自分を責めた中澤忠雄は、生徒に土下座して謝罪した。

バンクーバー公演

野庭高校の吹奏楽部が県大会で敗北した年の暮れ、横浜市が野庭高校・吹奏楽部に、カナダのバンクーバーで開催される国際交通博覧会で演奏して欲しいと依頼してきた。

年が明けて昭和61年、本格的な交渉の開始が始まるが、横浜市の予算は少ないし、吹奏楽部と学校側との軋轢も残っていた。

また、前年の昭和60年(1985年)に日本航空123便が群馬に墜落し、使者520人を出す事故があったことから、カナダ行きに反対する父兄も多く、問題は山積だった。

この折衝に奔走したのが中澤忠雄の支持者となった顧問・中澤忠雄だった。顧問・中澤忠雄は吹奏楽部をバンクーバーに行かせてやるため、地道に折衝を重ねた。

金銭的な問題はどうしようもなく、部員の個人負担となったが、「送る会」が結成され、周囲の支援によって、負担は半分程度に軽減され、3年生と2年生の全員をカナダのバンクーバーへ行く事が出来た。

そして、野庭高校の吹奏楽部は素晴らしい演奏を行い、バンクーバー公演を成功させた。

しかし、バンクーバー公演の代償は大きかった。

中澤忠雄はバンクーバー公演に向けての猛練習をしており、その練習中に練習中に狭心症で倒れた。直ぐに退院できたものの、静養せずに、その後もバンクーバー行きのために過酷なスケジュールをこなしており、体調に不安を抱えることになってしまった。

中澤忠雄はバンクーバーから帰国後、入院するが、病気を押して指揮を振るい、全国大会で3度目の金賞に輝いた。さらに、2年後の昭和63年も全国大会で4度目の金賞に選ばれた。

一方、盾となってくれた吹奏楽部を守り続けた顧問・中澤忠雄は、転勤となり、吹奏楽部は顧問・中澤忠雄を失ってしまう。

低迷、そして、復活へ

野庭高校の吹奏楽部は、昭和58年・昭和59年・昭和61・昭和63年と全国大会で金賞に選ばれ、吹奏楽部の強豪校となっていた。

しかし、平成元年・平成2年と2年連続で全国大会へ出場できず、低迷してしまう。

吹奏楽部を支援する卒業生は「練習方法が古いのではないか」と言い、中澤忠雄を批判したが、吹奏楽部は中澤忠雄と演奏する事を選び、「練習には来ないでください」と言って練習から卒業生を排除した。

一方、吹奏楽部は学校側との軋轢を増しており、顧問のなり手が居らず、顧問不在により、活動停止を余儀なくされた。

折衝の結果、顧問が決まったものの、代償として練習時間の削減を突きつけられ、吹奏楽部は大幅な練習時間の削減を余儀なくされ、学校が使えない時は公園などで練習することになった。

様々な問題を抱えた野庭高校の吹奏楽部は、平成3年(1991年)の関東大会で金賞に選ばれたが、俗に言う「ダメ金」で全国大会は逃がし、3年連続で全国大会を逃がしてしまう。

様々な問題に直面した中澤忠雄は苦悩の末、吹奏楽部にオーケストラサウンドを取り入れ、野庭高校は平成4年(1992年)の全国大会で金賞に返り咲いた。

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全国一への道

平成6年(1994年)、体調に不安を抱えていた中澤忠雄が練習中に倒れる。中澤忠雄は胃がんになっていた。

手術のため、地区大会・県大会の指揮は卒業生・松本たか子に任せたが、関東大会と全国大会は中澤忠雄が無理を押して指揮を振るい、野庭高校は全国大会で銀賞に選ばれた。

平成7年(1995年)、退院した中澤忠雄は精力的に活動を再開させていたが、再び入院する。病気を押して地区大会で指揮を振り、県大会への出場を決めたが、ドクターストップにより、県大会での指揮を断念する。

中澤忠雄は、卒業生・松本たか子と平島嵩大をコーチに迎えており、野庭高校は平島嵩大の指揮で県大会を突破し、東関東大会へと進む。

東関東大会では中澤忠雄が病気を押して指揮し、野庭高校の吹奏楽部は全国大会へと駒を進めた。

ところが、野庭高校の吹奏楽部の部内で対立があり、全国大会を控えた吹奏楽部で暴力事件が発生する。吹奏楽部の部員1人が同部員を殴るという事件だった。

中澤忠雄は暴力事件を受けて野庭高校に全国大会出場の辞退を申し入れたが、野庭高校は辞退するほどの問題ではないとして、全国大会への出場を許可した。

これを受けて野庭高校の吹奏楽部は、金賞の中でも成績1位を目指して全国大会に臨んだ。つまり、吹奏楽部の全国一を目指したのである。

中澤忠雄は、一時退院を繰り返して指揮棒を振っていたが、ドクターストップがかかり、一時退院の許可が下りなかった。

そこで、中澤忠雄は退院して全国大会で指揮を振り、野庭高校の吹奏楽部は全国大会で金賞に選ばれた。

しかも、成績も1位だった。野庭高校の吹奏楽部は、初めて全国一に輝いたのである。

中澤忠雄の死去

中澤忠雄は平成8年(1996年)3月に行われた野庭高校・吹奏楽部の定期演奏会で最後の指揮を振るい、吹奏楽部から引退した。

その後、中澤忠雄は薬の服用ミスから様態が悪化して入院し、平成8年(1996年)8月18日に死去する。享年61だった。

中澤忠雄は無名だった野庭高校の吹奏楽部をわずか2年で全国大会の金賞に導き、14年の指導で、全国大会で7度の金賞、1度の銀賞を得た。平成7年には全国一に輝き、立志伝を成し遂げた。

中澤忠雄の死後

中澤忠雄の死後、卒業生の平島嵩大が吹奏楽部を指導したが、野庭高校の吹奏楽部は平成10年(1998年)に事件を起こしたうえ、平成11年には人口減少により野庭高校の廃校が決定するなど、不運が続いて低迷し、全国大会に出ることは無かった。

そして、野庭高校は平成15年(2003年)4月に横浜日野高校と合併し、神奈川県立横浜南陵高校となって廃校となった。野庭高校の廃校に伴い、吹奏楽部も消滅した。

中澤忠雄と吹奏楽部を支え続けてきた妻・中澤信子は、平成16年(2004年)8月に死去する。

中澤信子は「野庭高校の音楽を残したい」と遺言しており、卒業生は中澤信子の遺志をくみ、音楽サークル「ナカザワ・キネン野庭吹奏楽団」を結成した。

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