阪急百貨店の社長・野田孝の立志伝

阪急百貨店の2代目社長を務めた野田孝(のだ・こう)の立志伝です。

野田孝(のだ・こう)の生涯

野田孝野田孝(のだ・こう)は、明治34年(1901年)8月20日に山梨県中巨摩郡龍王町萬歳209番地で、野田太田蔵の4男として生まれた。

野田孝は、大正9年(1920年)3月に山梨県の甲府中学校(甲府一高)を卒業。卒業後は旧制第一高校(東京大学)を目指して浪人し、東京の予備校に通った。

野田孝が予備校の夏休みで帰郷していたとき、山梨県出身の小林一三が龍王町の従兄弟・斉藤医院を訪れていた。

この斉藤医院は野田家の遠縁に当たり、このとき、小林一三は「浪人をして大学へ行くよりも、早く実務が身についた方が良い。決心が付いたら私の所へ来たまえ」と言い、野田孝を阪神急行電鉄(後の阪急電鉄)に誘った。

野田孝は、小林一三が誘ってくれるならということで、高校進学を諦めて大阪へ出て、大正10年(1921年)8月26日に阪神急行電鉄に入社し、調度課に勤務する。

結婚までは大阪府池田市に在る小林一三の屋敷内に住み、結婚までは小林一三の屋敷から、阪神急行電鉄に通った。

阪神急行電鉄に入社した野田孝は、宝塚温泉事務所食堂係や車掌兼運転手などを経た後、大正13年4月1日に小林一三の書記補、大正15年に書記となり、小林一三から多くを学んでいった。

さて、小林一三が阪急マーケット構想を立ち上げると、野田孝は大正14年に阪急マーケット(後の阪急百貨店)設立準備委員に任命され、一番難しかった食料品を担当して阪急マーケットの設立に奔走した。

一方、私生活では、昭和3年(1928年)12月24日に山梨県中巨摩郡龍王町萬歳の土肥専郎の4女「土肥阿や」と結婚する。

その後、昭和4年に阪急マーケットが阪急百貨店に発展して、阪神急行株式会社百貨店部となり、以降、野田孝は百貨店営業部畑を歩んだ。

さらに、昭和16年(1941年)2月には、大阪府池田市の市議会議員に当選を果たし、政界でも活躍した。

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戦後-阪急百貨店の独立

阪神急行電鉄はストライキで電車が止る事があったが、電車のストライキで阪急百貨店まで止るのはおかしということで、終戦後の昭和22年に阪急百貨店が阪神急行電鉄から分離独立し、株式会社阪急百貨店が設立される。

野田孝は、株式会社阪急百貨店の設立発起人として加わり、阪急百貨店の設立に尽力し、阪急百貨店の設立にともない、阪神急行から阪急百貨店に転出し、常務取締役に就任した。

同じく、阪神急行電鉄で一貫して百貨店畑を歩んでいた清水雅も、阪神急行電鉄から転出して、株式会社阪急百貨店の初代社長に就任した。

名鉄百貨店を支援

名鉄が松坂屋に百貨店の経営を委託しようといたが、松坂屋との話が破談となり、阪急百貨店に相談すると、小林一三は「阪急百貨店が後押しするので、名鉄自身で経営に乗り出しては」と勧めた。

これが話題となり、マスコミが「阪急百貨店の小林一三が名鉄百貨店を指導する」とはやし立てたると、小林一三が「百貨店なら僕よりも野田だよ」と言ったので、野田孝が名鉄百貨店の設立を支援を担当した。

野田孝も阪急百貨店が運営するのではなく、名鉄が独自で百貨店を運営することを勧め、名鉄百貨店の社員教育などを引き受けた。

また、野田孝は阪急から社員を出向させて名鉄を支援したので、名鉄は昭和29年(1954年)12月に名鉄百貨店を設立し、名鉄グループの基礎を築く事が出来た。

阪急百貨店の社長に就任

野田孝は昭和30年に阪急百貨店の専務取締に就任した。

昭和32年(1956年)1月25日に阪急グループの総帥・小林一三が死去。さらに、同年10月1日には小林一三の長男で映画制作会社「東宝」(阪急グループ)の社長・小林冨佐雄が死去した。

阪急百貨店の社長・清水雅は、「阪急百貨店の社長・清水雅が東宝の社長になる経緯」で紹介したように、東宝の役員を兼任しており、死去した社長・小林冨佐雄の後を引き継いで東宝の社長に就任した。

清水雅は東宝の社長就任にともない、阪急百貨店の社長から会長へと退き、野田孝が清水雅の後任として昭和32年11月に阪急百貨店の2代目社長に就任した。野田孝は順調に阪急百貨店を拡大していく。

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野田孝の晩年と剣道

野田孝は明治43年(1910年)、10歳の時に剣道を始めており、阪神急行電鉄に入社して以降も剣道に励み、昭和16年、41歳の時に剣道6段を授与され、昭和20年、45歳の時に居合道教士号を授与された。

そして、昭和18年には大日本武徳会大阪府支部剣道部の副長に就任し、昭和19年10月には大日本武徳会剣道部の幹事に就任した。

戦後、GHQが剣道を禁止したので、野田孝は剣道を復活させるために奔走し、剣道復活の手段として「しない競技」を誕生させた。

「しない競技」の誕生にともない、昭和26年(1951年)に「全日本しない競技連盟」が設立され、野田孝は「全日本しない競技連盟」の副会長に就任し、「関西しない競技連盟」の会長に就任した。

以降、野田孝は大阪府剣道連盟名誉会長や大阪学校剣道連盟会長など、剣道関係でも数々の要職を歴任し、昭和32年5月、57歳の時に剣道7段、居合道7段を授与された。

野田孝が阪急百貨店の社長に就任したのは、それから半年後の昭和32年11月のことで、昭和33年には関西経済連合会の常務理事に就任するなどして、財界でも活躍している。

野田孝は阪急百貨店の経営に武道の精神を取り入れ、阪急百貨店の剣道部の創設。新入社員の新人研修期間に剣道を必須課程とするなどして、武道を通じた人材育成に力を入れ、阪急百貨店の剣道部から多くの有段者を輩出した。

また、自身も剣道の鍛錬に邁進し、昭和35年(1960年)、60歳の時に剣道8段を授与された(注釈:剣道8段は現在の最高段位)。

そうした一方で、宝塚歌劇団の活動も積極的に支援し、昭和36年5月に大阪府池田市から兵庫県宝塚市へと移り住み、宝塚の発展に貢献した。

昭和37年には日本百貨店協会の会長に就任し、3期連続で会長を務めた。昭和38年には大阪府公安委員会の委員長にも就任した。

昭和39年10月に行われた日本武道館の開館式で行われた「演武始めの儀」で、日本剣道形を打ち、天皇・皇后両陛下の天覧を賜わった。

さらに、昭和43年5月8日には居合道範士号を授与され、昭和53年には居合道9段を授与された。

そして、昭和46年に勲二等瑞宝章を受賞。昭和50年にはイギリスのエリザベス女王陛下より大英勲章を受章。昭和54年4月にはフランス国大統領よりレジオン・ド・ヌール勲章を受章。昭和55年にはイタリア大統領よりコンメンダトーレ勲章を受章した。

昭和48年と昭和54年にオイルショックを迎え、百貨店業界も厳しい状況に置かれるが、野田孝は無借金経営で厳しい時期を乗り切り、昭和56年(1981年)に阪急百貨店の社長を鳥居正一郎に譲って会長へと退いた。

こうして、野田孝は、関連会社・財界・武道界で数々の要職を歴任して立志伝を成し遂げたほか、公職や政府関連の要職も歴任し、国内外から高く評価され、昭和57年(1982年)2月には紺綬褒章を受章し、同年11月には勲1等瑞宝章を受章した。

野田孝は晩年まで毎朝、真剣で居合いの稽古をしており、強靱な肉体をしていたが、昭和59年(昭和59年)9月23日に兵庫医科大学病院で死去した。死因は心不全、享年84だった。同日付で従三位に叙せられた。

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