べっぴんさん-野上潔(尾上清)が逮捕される実話

NHKの朝ドラ「べっぴんさん」の野上潔(高良健吾)が逮捕された実話です。

べっぴんさん-野上潔(高良健吾)を逮捕

戦後、坂東すみれ(芳根京子)が子供用品店「ベビーショップ・あさや」のオープン初日に、大阪・梅田の闇市で、闇市の摘発が行われ、闇市に関連していた野上潔(高良健吾)は逮捕されてしまう。

板東すみれ(芳根京子)は、坂東ゆり(蓮佛美沙子)から野上潔(高良健吾)が逮捕されたことを教えられたすぐに警察へ向かおうとしたが、父・坂東五十八(生瀬勝久)から「開店初日に店を離れるな」と言われ、警察へ行くことを断念する。

板東すみれ(芳根京子)は不安な気持ちで「ベビーショップ・あさや」を開店する。そして、坂東五十八(生瀬勝久)と坂東ゆり(蓮佛美沙子)が警察へ向かい、その日の夜に野上潔(高良健吾)は釈放されるのであった。

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野上潔(高良健吾)が逮捕された実話

野上潔(高良健吾)のモデルとなった尾上清は、闇市で逮捕されたという逸話が残っています。

野上潔(高良健吾)が逮捕されたのは「ベビーショップ・あさや」のオープン初日ですが、モデルとなった尾上清が逮捕されたのは、昭和21年(1946年)暮れのことで、坂野惇子(佐々木惇子)らが「ベビーショップ・モトヤ」を創業する2年前の出来事です。

さて、佐々木八十八が創業した佐々木営業部(レナウン)は、戦時中の企業整備によって江商(兼松)に吸収合併されて消滅しました。

佐々木営業部(レナウン)で働いていた尾上清は、江商(兼松)に吸収合併されたことを機に退社。その後、3度目の徴兵で出兵し、復員後、江商(兼松)の要請で江商(兼松)の衣料部長に就任しました。

そして、尾上清は、江商(兼松)の衣料部長として働く一方で、「有信実業」を設立し、有信実業で隠匿物資を正規の販売ルートで請負い、闇で販売していました。

戦後は、物資が不足し、闇に手を出さなくては、生きていけないという時代でした。

それは、昭和天皇でさえ同じでした。しかし、昭和天皇は闇に手を出すことを禁じたので、天皇の料理番・秋山徳蔵は食料が入手できずに苦労します。

戦前は「皇室御用達」の看板を目当てに大勢の商人が手もみをしながらすり寄ってきたのですが、戦後は定価でしか買い取ってくれない皇室など見向きもせず、高額で売却できる闇市に流れたのです。

しかし、軍には散々の食料があったので、天皇の料理番・秋山徳蔵は軍へと乗り込み、食料を分捕ってきたという実話が残っています。

実は、軍部は本土決戦に備えて民間から物資を押収しており、大量の物資を各地に備蓄していたのです。

しかし、この大量の物資が戦後、民間へと流出し、闇へと消えました。この闇に消えた物資のことを「隠匿物資」と言います。

こうして闇市に隠匿物資が流れて闇市は全盛期を迎え、世間では闇成金が大勢誕生しており、警察が大規模な摘発に乗り出しました。

ファミリアの創業メンバー田村光子の実家である大阪の洋反物問屋「田村駒商店」も戦後に隠匿物資で摘発を受け、2代目・田村駒治郎が逮捕されています(その後、無罪となる)。

(注釈:詳しくは「田村駒の田村駒治郎を逮捕!田村寛次郎の立志伝」をご覧ください。)

また、派手に隠匿物資を横流ししていた尾上清も、昭和21年(1946年)の暮れに、警察に逮捕されてしまいまいた。

しかし、尾上清は、私腹を肥やすような性格ではなかったので、隠匿物資の横流しで儲けたお金を、戦争で家を失うなどして困っていた知人などにお金を配っていたといいます。

大阪府警の小倉巡査は、尾上清に助けられた1人で、尾上清の逮捕を知って、「私腹を肥やすような人ではない」と驚き、自分の辞表をかけて上司に尾上清の無罪を訴えました。

その後、関係者から「尾上清に助けられた」という多くの証言が集まったので、尾上清は釈放されたのでした。

ファミリアへと繋がる

尾上清が「有信実業」を設立して隠匿物資を横流ししていたことを紹介しました。

実は、この有信実業が、坂野惇子らが子供服ブランド「ファミリア」を設立する切っ掛けになるので、事情が少し複雑なのですが、できるかぎり簡略化して、実話を紹介します。

さて、釈放された尾上清は、その後、江商(兼松)から佐々木営業部(レナウン)を独立させ、佐々木営業部を設立します。

そして、佐々木営業部(レナウン)を設立すると、有信実業は佐々木営業部(レナウン)の小売部門「レナウン・サービス・ステーション」となりました。

レナウン・サービス・ステーションには石津謙介が在籍していました。石津謙介は、後にメンズファッションブランド「ヴァンヂャケット」を創業して「メンズファッションの神様」と呼ばれるようになる人物です。

さらに、神戸のデザイナー田中千代がレナウン・サービス・ステーションで洋裁洋室「田中千代デザインルーム」を開いていました。田中千代は後に「皇后様のデザイナー」となる人物です。

そして、田中千代が佐々木営業部(レナウン)の主催で、昭和22年(1947年)10月に日本人として戦後初のファッションショーを開催します。

このファッションショーが大成功し、レナウン・サービス・ステーションは大阪から神戸へ移転することになりました。

こうして、尾上清は大金を投じて神戸・三宮センター街に豪華な店舗を建築し、レナウン・サービス・ステーションは神戸・三宮センター街で営業を開始したのです。

ところが、当時は綿が配給制だったので、繊維卸の佐々木営業部(レナウン)が小売りに進出する事に対し、小売店から相当な反発を受けてしまいました。

このため、神戸のレナウン・サービス・ステーションは、オープンして間もなく、閉店を余儀なくされたのです。

ところで、神戸のレナウン・サービス・ステーションの北側に靴店「モトヤ靴店」がありました。

ファミリアの創業者となる坂野惇子は、この靴店「モトヤ靴店」のショーケース2台を借りて、子供服店「ベビーショップ・モトヤ」を営んでいました。

ところが、坂野惇子らは良質な商品を作っていたので、ベビーショップ・モトヤの商品は創業当初より飛ぶように売れ、次第に靴店「モトヤ靴店」を占領するようになっています。

これに困ったモトヤ靴店の店主・元田蓮は、モトヤ靴店の西側に隣接していた万年筆店が空き店舗になったのを機に、万年筆店へ追い出す形でベビーショップ・モトヤを独立させたのです。

こうして、坂野惇子らのベビーショップ・モトヤは、追い出される形で、万年筆店へ移って独立を果たしました。

その直後に神戸のレナウン・サービス・ステーションが撤退するという噂が伝わってたのです。

そこで、坂野惇子らの夫・坂野通夫らが「レナウン・サービス・ステーションへ移って本格的に商売をしないか」と提案しました。

坂野惇子は、佐々木営業部(レナウン)を創業した佐々木八十八の3女で、尾上清とも幼馴染みでした。そして、尾上清は坂野惇子に「仕事をもちなさい」と勧めていたので、尾上清もこれに賛成します。

また、レナウン・サービス・ステーションの家主は、モトヤ靴店の店主・元田蓮で、店主・元田蓮も「貴女たちなら貸してもいい」と言ってくれました。

こうして、坂野惇子らは、神戸のレナウン・サービス・ステーションへと移り、子供服ブランド「ファミリア」を設立したのです。

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