野村俊夫の立志伝

福島県出身の作詞家・野村俊夫(のむらとしお)の立志伝です。

野村俊夫の立志伝

野村俊夫野村俊夫(本名は鈴木喜八)は、明治37年(1904年)11月21日に福島県福島市大町で魚屋「魚忠」を営む鈴木忠八の3男として生まれた。母は鈴木アキである。

野村俊夫はガキ大将に育ち、近所のに住んでいた古関裕而と一緒に遊んでいた。

家業の魚屋「魚忠」は、店を開けていれば客が入るというほど立地条件が良く、繁盛していたが、父・鈴木忠八が商品相場に手を出して失敗したため、渡利を経て仲間町へと引っ越した。

野村俊夫は福島市立第一小学校を卒業後、福島商業学校へと進学したが、病気や家庭の事情により中退し、福島県の富豪・角田林兵衛の家に奉公へ出た。

奉公中の15歳のとき、新聞雑誌に俳句・詩・童話を投稿するようになり、ペンネームとして「野村俊夫」を使い始めた。

ペンネームを使い始めた理由は、当時は芸人や俳人は「川原乞食」と呼ばれて蔑まれていたので、本名を隠すためだった。

また、本名では父親に見つかって「道楽息子め」と、どやされるため、ペンネームを使用したという。

しかし、野村俊夫は学問を志し、布団を家ぶって密かに勉強をしていたことが奉公先にバレてしまい、「そんなに勉強したいのなら家で本格的に勉強しなさい」と言われ、実家へ返された。

その後、3年ほど家業を手伝いながら、勉強を続け、大正13年に福島民友新聞社で働くようになった。

初めは編集部の手伝いだったが、頭角を現して、社会部の記者となり、方々を取材で走り回る一方で、文芸欄を任された。

また、新聞記者として働きながら、詩を書き、詩誌「北方詩人」にも投稿した。

そのようななか、野村俊夫は、「福島ハーモニカ・ソサエティー」に関係しており、「福島ハーモニカ・ソサエティー」で幼なじみの古関裕而と再会する。

野村俊夫は、昭和4年に流行した「東京行進曲」の影響を受け、「福島行進曲」を作詞すると、古関裕而が「福島行進曲」に曲を付け、昭和4年の秋に、「福島ハーモニカ・ソサエティー」の演奏会で「福島行進曲」を発表した。

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上京

古関裕而は、「竹取物語」など5曲がイギリスの作曲コンクールで2等に選ばれ、昭和5年に日本コロムビアの専属作曲家となって上京した。

当時から新聞記者はヤクザ商売のように思われており、尊敬されるような仕事ではなかったため、野村俊夫は上京していた古関裕而の誘いを受け、昭和6年に福島民友新聞社を退社して上京した。

初めから作詞家を目指していたわけではなく、仕事をしながら純粋詩を書きくために上京したようだ。

野村俊夫は姉テウを頼って上京したが、姉テウは結婚しており、同居できなかったので、日暮里に居を構えた。

東京へ出ればなんとかなるだろうと考えていたのだが、東京は昭和恐慌のまっただ中で、「失業都市」と呼ばれており、事務員をやったり、印刷屋の手伝いをしたり、おでん屋「太平楽」を開業したりと、「泥棒以外は何でもやった」というほど苦しい生活を送った。

そのようななか、昭和6年7月、日本コロムビアの古関裕而が、福島時代に手がけた「福島行進曲」「福島夜曲」を発売してレコードデビューした。

このレコードは売れなかったので、野村俊夫は日本コロムビアに専属にはなれなかったが、以降はフリーの作詞家として活動を始め、昭和13年に作曲家・服部逸郎とのコンビで作った「忠治子守唄」が初ヒットした。

ほんとにほんとに御苦労ね

昭和6年に起きた満州事変、昭和7年に起きた上海事変を切っ掛けに、日本国内の緊張は高まり、内務省は昭和9年にレコードの検閲を開始した。

野村俊夫は、福島民友新聞で働いていたことから、リベラルな思想をもっていたので、軍歌だけが士気を鼓舞するのではないと考え、戦争遂行に非協力的な歌を作っていた。

すると、野村俊夫の歌は「軟弱で人心を堕落させてしまう歌だ」として、ことごとく検閲で却下され、内務省のブラックリストに載ってしまう。

野村俊夫と佐藤惣之がブラックリストの筆頭を争っていたのだが、昭和14年には佐藤惣之を抜いてブラックリストの筆頭となってしまい、歌詞の内容にかかわらず、「野村俊夫」という名前だけで、検閲を却下されるようになり、レコードの仕事が出来なくなってしまった。

野村俊夫は、妻と娘2人を抱えていたので、仕方なく、生活のために方針を転換し、昭和14年に戦時小唄の第1作となる「ほんとにほんとに御苦労ね」を作詞した。

この「ほんとにほんとに御苦労ね」はヒットし、戦地の酒盛りの時によく歌われていたという。

戦後、志村けんらの「ドリフターズ」が「ほんとにほんとに御苦労ね」の替え歌を歌って大ヒットした。

上海夜曲

野村俊夫は昭和14年に「上海夜曲」を作詞した。「上海夜曲」は、日本コロムビアに復帰した歌手・藤山一郎がの復帰第1作となって大ヒットした。

「上海夜曲」のヒットにより、野村俊夫は日本コロムビアの専属になることができ、ようやく生活が安定した。

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暁に祈る

昭和15年、陸軍馬政局が松竹映画で愛馬思想普及のための映画「暁に祈る」ことになり、日本コロムビアが主題歌を任された。

そこで、野村俊夫は作詞を手がけ、古関裕而が作曲を手がけ、伊藤久男が歌うことになった。

野村俊夫は、歌詞を7度も書き直して、ようやくOKが出たという有様で、途中で嫌気が差し、「ああ」とため息をついたので、「ああ、あの顔で、あの声で」という出だしになった。

古関裕而は「ああ」という出だしに苦しむが、妻・古関金子が詩吟を聞いてメロディーを閃き、歌手の伊藤久男が歌い上げた。

映画「暁に祈る」はヒットしなかったが、レコードが爆発的に売れ、主題歌「暁に祈る」は大ヒットした。

そして、野村俊夫・古関裕而・伊藤久男の3人はトップスターの仲間入りを果たし、3人が福島県の出身だったことから、「福島3羽ガラス」と呼ばれた。

また、検閲のブラックリストの常連だった野村俊夫は、「暁に祈る」の大ヒットにより、内務省の検閲官から「野村さんも近頃、大変思想が変わったようで、結構です」と言われ、以降は白い目で見られることはなくなった。

さらに、昭和19年に作詞した勤労動員の歌「ああ紅の血は燃ゆる」が大ヒットし、全国的に歌われた。

宣戦布告の歌

昭和16年12月8日未明、日本は真珠湾攻撃を行い、太平洋戦争へと突入した。

すると、JOAK(NHK東京)の丸山鉄雄は、大本営の発表を歌にしてラジオで流す「ニュース歌謡」を企画した。

野村俊夫は、真珠湾攻撃が行われた日、ニュース歌謡の第1弾を任され、正午のニュースの後、1時間ほどで「宣戦布告の歌」を書き上げた。

そして、古関裕而が作曲し、完成した「宣戦布告の歌」を伊藤久男が歌い、その日の午後7時のニュースの時間に放送した。

その後、野村俊夫は作詞を手がける一方で、従軍記者としても活躍した。

終戦間際の昭和20年7月、野村俊夫は鈴木貫太郎内閣の官房長官・迫水久常に呼ばれ、「全国民の士気を鼓舞する歌を作って貰いたい」と依頼された。

そこで、一億総進軍の歌「戦いの歌」を作詞し、曲家・明本京静が作曲を手がけ、昭和20年8月20日に内閣制定歌として発表される予定だったが、発表会は延期され、未発表のまま終戦を迎えた。

戦後

昭和20年11月、作曲家・古関裕而が疎開先の福島県飯坂横町を引き払うとき、飯坂小学校の校歌の作曲を依頼されたので、野村俊夫が作詞を務めた。

発表会では、伊藤久男が歌って「福島三羽ガラス」を復活させる予定だったが、伊藤久男が駄目だったので、中目徹と古関裕而の妻・古関金子が歌った。

そうした一方で、山田耕筰を筆頭に野村俊夫や古関裕而などの音楽家の戦争責任を追及する声が上がったが、最終的に音楽家の戦争責任で処罰される事は無く、音楽家は難を逃れた。

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湯の町エレジー

古関裕而はミリンも駄目だというほど、全く酒が飲めなかったので、酒好きの野村俊夫は、歌手の伊藤久男、作曲家の服部逸郎と毎晩のように飲み歩いていた。

戦前のある日、3人は、誰かが金を持っているだろうと考え、お互いにお互いの財布を当てにして熱海で豪遊していたところ、誰もお金を持っていないことが判明し、帰るに帰れなくなってしまった。

最終的に、野村俊夫がひいきにしていた芸者が、指輪や宝石を売って金を工面してくれたので、3人は帰ることが出来た。

野村俊夫は、このときのエピソードを元に、「湯の町エレジー」を作詞した。

さて、「湯の町エレジー」は、由利アケミが戦前に歌っていた「熱海ブルース」に対抗して、「湯の町ブルース」として企画されたのだが、古賀政男の曲がブルースの哀愁という感じではなかったため、「湯の町エレジー」というタイトルになり、昭和23年9月にレコードが発売された。

昭和23年に笠置シヅ子が「東京ブギウギ」をヒットさせており、世の中は明るい歌を歓迎していると考えられたため、古賀政男は「湯の町エレジー」のような辛気くさい歌は流行らないと思っていたが、予想を覆して「湯の町エレジー」が大ヒットする。

軍事歌謡と相性の悪かった古賀政男は戦時中から低迷していたが、「湯の町エレジー」が戦前前後を通じて古賀政男の最大のヒット曲となり、戦後復活の狼煙となった。

野村俊夫は、「暁に祈る」には勝てなかったが、「湯の町エレジー」が戦後最大のヒットとなった。

「湯の町エレジー」が大ヒットしたので、野村俊夫の長女・野村則子は、学校の先生からも「エレジー」と呼ばれた。

ジャスラックの理事

戦後、野村俊夫は、古賀政男とのコンビで曲を作っていったが、昭和25年にスランプに陥り、全く詞が書けなくなってしまう。

そのようななか、野村俊夫は、日本音楽著作家組合の第2期役員改選で、みんなに押されて役員となり、出所を明示すれば無料でレコードを興行や放送に使用できることを規定した旧著作権法30条8号の改正に尽力した。

そして、昭和16年に日本音楽著作権協会(ジャスラック)の理事に就任して、音楽家の権利拡大に貢献した。

そうした一方で、作曲家の古関裕而・古賀政男・船村徹・万城目正などのコンビで数多くの歌を作り、島倉千代子や美空ひばりにも歌を提供した。

晩年

昭和39年に日本音楽著作権協会で「黒い霧事件」が発生。常務理事をしていた野村俊夫は「黒い霧事件」に巻き込まれ、昭和40年に常務理事を辞任した。

そして、昭和41年(1966年)9月30日に十二指腸潰瘍の手術を受けるが、手術後の腸閉塞により、昭和41年10月27日に死去した。62歳だった。

野村俊夫は「白虎隊」「花の二本松少年隊」「あゝ鶴ヶ城」「福島音頭」など福島をテーマとした歌詞を数多く手かけたほか、福島県の学校で校歌も手がけ、生涯で3000作以上を作詞した。

墓石には、作詞家・藤田まさとの筆跡で「湯の町エレジー」の歌詞が刻まれた。

本当は、戦時中に手がけた最大のヒット曲「暁に祈る」を刻みたかったが、もう平和な時代だったため、戦後最大のヒット曲「湯の町エレジー」を刻んだという。

その後、大内武夫と内海久二が発起人となり、7回忌に当たる昭和48年10月27日に詩碑が建立された。この詩碑には、県知事・木村守江の筆で「暁に祈る」が刻まれた。

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