朝ドラ「なつぞら」小畑雪之助(安田顕)のモデルは小田豊四郎

NHKの朝ドラ「なつぞら」のお菓子の発明王・小畑雪之助(おばたゆきのすけ)の実在のモデルを紹介します。

「なつぞら」の小畑雪之助(安田顕)

小畑雪之助(安田顕)は、東京・新宿のパン屋「川村屋」で修行した後、北海道十勝に戻り、父親の後を継いで菓子屋「雪月」の2代目になった。

戦後は物資不足が続くが、アイデアを働かせてアイスクリームを作り、これからは牛乳やバターの時代が来ると言い、柴田泰樹(草刈正雄)にバターの製造を依頼する。

そして、柴田泰樹(草刈正雄)が作る牛乳やバターを使って、北海道十勝を代表するような菓子を作るために奔走し、やがて、菓子屋「雪月」を北海道十勝を代表するような菓子メーカーへと発展させる。

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小畑雪之助(安田顕)のモデルは小田豊四郎

小畑雪之助(安田顕)のモデルは、北海道十勝の菓子メーカー「六花亭」の初代社長・小田豊四郎です(創業者ではありません)。

小田豊四郎は、大正5年(1916年)3月13日に北海道函館市で生まれ、父親の仕事の都合で野付牛町(北海道北見市)に移り住んだ。

しかし、父親は酒に溺れたあげく、商品先物相場で失敗して会社を倒産させたため、小田豊四郎は進学を断念して、叔父が経営する菓子店「札幌千秋庵」で働くことになり、17歳で菓子の道へと進んだ。

入店4年目、支店の「帯広千秋庵」が閉店が決まるが、どうせ閉店するのなら、1度、小田豊四郎に任せてみようと言うことになり、小田豊四郎は21歳で支店「帯広千秋庵」の経営を引き継いで独立した。

しかし、菓子は全く売れず、自転車操業でなんとか頑張ったが、借金が膨らみ、23歳の時に廃業を決めた。

ところが、そのとき、取引をしていた塚本食糧興業の社長・鎌田長市が、「これで借金を返済してはいけないよ。砂糖を買いなさい」と言い、500円を貸してくれた。

小田豊四郎は500円で借金を返済すれば、店が続けていけると思ったが、言われたとおりに500円で大量の砂糖を購入した。倉庫に入りきらないほどの量だった。

すると、その直後、「価格統制令」が公布されて砂糖が入手困難となり、他の菓子屋はお菓子が作れなくなってしまったが、小田豊四郎は砂糖があったので、お菓子が作れ、一気に店が繁盛して借金を全て返済することが出来た。

その後、小田豊四郎は24歳で三浦淳子と結婚。26歳の時に徴兵されて中国へと出征したが、中国で終戦を迎え、無事に帰国した。

帰国後は、砂糖が購入できないため、比較的簡単に手に入る材料でアイスクリームやカボチャ饅頭を作って販売したが、やはり菓子屋は砂糖を使わなければならないと思い、闇市で本物の砂糖を購入してお菓子を作るようになった。

35歳のとき、関西大学名誉教授の山崎紀男が講演で、「知らない町に行ってその町を代表するようなお菓子を食べると、大体その町の文化の程度が分かる。お菓子は文化のバロメーターである」と言ったの聞いて、帯広を代表する銘菓が無いことに気付き、帯広を代表するような銘菓を作ろうと考えるようになる。

さて、小田豊四郎は戦後に流通していた「サッカリン」や「ズルチン」といった粗悪な甘味料を使わずに本物の砂糖を使い続けてきた真摯な仕事ぶりが評価され、36歳の時に帯広開拓70周年・帯広市試行20周年記念式典の記念品を任された。

そこで、帯広を代表する銘菓を作ろうと考えていた小田豊四郎は、帯広を開拓した依田勉三の句「開墾のはじめは豚とひとつ鍋」にちなみ、「ひとつ鍋」という菓子(もなか)を作り、式典で配ると、「ひとつ鍋」が大ヒット商品となる。

さらに、小田豊四郎は43歳のとき、十勝地方の子供たちの詩を集めた詩集「サイロ」を創刊した。

このとき、表紙や挿絵は農民画家・坂本直行(坂本龍馬の子孫)に依頼しており、坂本直行に「帯広千秋庵」の包装紙もデザインしてもらう。

さて、小田豊四郎は51歳の時に海外視察して、日本でもチョコレートが流行すると考え、工場を建設してチョコレート部門を設置。このとき、日本初のホワイトチョコレートの開発に成功し、ホワイトチョコレートの販売を開始した。

チョコレートと言えば黒か茶色というのが常識だったため、ホワイトチョコレートは全く売れなかったが、鉄道会社のキャンペーンの影響で北海道に若者の旅行者が増えると、若い旅行者の間でホワイトチョコレートが人気となり、爆発的に売れ始めた。

すると、ホワイトチョコレートの類似品が登場したため、小田豊四郎は千歳空港でホワイトチョコレートを販売しようとしたが、千歳空港は本店「札幌千秋庵」の商圏だったため、本店「札幌千秋庵」との商圏問題が発生する。

このため、本店「札幌千秋庵」は「千秋庵の名前を使う以上は十勝以外で販売してはいけない」と言い、支店「帯広千秋庵」に暖簾の返上を求めた。

対立する本店「札幌千秋庵」は北海道で随一の菓子店だったため、小田豊四郎は苦悩するが、母親に背中を押され、61歳の時に「帯広千秋庵」の暖簾を返上して、「六花亭製菓」と社名を変更した。

このとき、社名変更を記念して「マルセイバターサンド」を発売した。

「マルセイバターサンド」は、十勝を開拓した依田勉三の「晩成社」が製造した「マルセイバタ」から名前を付けたもので、現在も売り上げの半分を占める大人気商品である。

さて、小田豊四郎は社名変更による売り上げの激減を恐れていたが、「六花亭」は十勝市民に支持され、坂本直行がデザインした包装紙のおかげもあり、売り上げは落ちず、千歳空港への進出も成功する。

その後も「六花亭」は北海道で積極的に店舗展開をして、北海道を代表する菓子メーカーへと成長するのだが、店舗の拡大など、会社の実質的な経営は副社長をしていた長男・小田豊に任せていたようだ。

なお、朝ドラ「なつぞら」の登場人物の各モデルは「なつぞら-実在のモデル」をご覧ください。

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