反対派の創業者・岡田政太郎の立志伝

吉本興業の基礎を築いた「浪速落語反対派(岡田興業部)」の創業者・岡田政太郎の立志伝です。

岡田政太郎の立志伝

岡田政太郎の画像岡田政太郎(南野政太郎)は、幕末の慶応3年(1867年)ごろに大阪府中河内郡池之島町(大阪府東大阪市池之島町)で、豪農・南野喜兵衛の次男として生まれた。

ただし、岡田政太郎は明治10年(1877年)に生まれたという説もあり、どちらが正しいのかは分からない。

さて、池之島町は旅芸者が出入りする芸の盛んな地域で、南野家は広い農地を持つ豪農だった。

父・南野喜兵衛が早くに死去すると、岡田政太郎の母は旅芸人に入れ込み、南野家の財産を旅芸人に注ぎ込んだ末、旅芸人と恋に落ちて駆け落ちしてしまった。

このとき、母は長男の南野勘太郎は南野家を継がせるために南野家へ残したが、次男の岡田政太郎(南野政太郎)を近くの商家「岡田家」へ養子に出したため、次男の岡田政太郎(南野政太郎)は岡田性を名乗るようになった。

その後、養子先の商家「岡田家」が大阪の玉造(大阪市中央区法円坂1-3-2)で風呂屋を始めた。

ちょうど、玉造の風呂屋は、細川ガラシャで有名な「カトリック玉造教会」の直ぐ側である。

ただし、「カトリック玉造教会」が建設されたのは明治27年(1894年)なので、「カトリック玉造教会」ができる前かもしれない。

さて、養子先の岡田家が玉造で風呂屋を始めたので、岡田政太郎も風呂屋を手伝うようになった。

岡田家の風呂屋の近くには、寄席や小屋があったので、落語家や芸人が岡田家の風呂屋をよく利用しており、手伝いをしていた岡田政太郎は、次第に演芸に興味をひかれていった。

浪速落語反対派の発足

やがて、養子先の両親が死に岡田政太郎が風呂屋を相続した。岡田政太郎は、商才があり、風呂屋で大儲けしたとも、株式相場で大儲けしたとも言われる。

演芸に興味を持っていた岡田政太郎は、莫大な資金を背景に、大阪府東区内安堂寺町上本町東へ入る南側にある講談の寄席「梯子亭(はしごてい)」を手入れ、「富貴亭」と改称して明治43年(1910年)に寄席の経営を開始した。

しかし、岡田政太郎は落語家を呼ぼうとしたが、落語家は自尊心が強いので、こうした三流の寄席には出演してくれなかった。

このころ、演芸界の中心は落語で、一流と言えば落語であり、落語以外の諸芸は「色物」と呼ばれ、二流三流の扱いを受けていた。

そこで、岡田政太郎は明治43年(1910年)に、「なんでも構わぬ、上手いも下手もない、銭が安うて、無条件に楽しませる演芸」という方針で、二流・三流の色物芸人・B級C級芸人・落ち武者のようなゴミ芸人をかき集め、浪速の落語に反対する「浪速落語反対派(岡田興行部)」を発足したのである。

浪速落語反対派の台頭

落語は明治中期に「桂派」と「三友派」に別れて芸の技術を競い合い、落語の黄金期を築いていたが、日露戦争後の社会の変化もあり、明治末期には落語は衰退し始めていた。

こうした落語の衰退の隙を突く形で、岡田政太郎の「浪速落語反対派」は、二流三流の色物芸人を寄席に上げ、「安さ」と「面白さ」で勝負して成功した。

岡田政太郎は、芸の技術を競う演芸界において、「安くて面白い」というビジネス的な概念を導入した演芸界の風雲児である。

ところで、岡田政太郎は、風呂屋で成功した事から「風呂政」、色が黒かった事から「黒政」と呼ばれており、非常に面倒見の良い男で、相談日を設けて芸人の金の相談に乗ってやっていた。つまり、芸人に金を貸してやっていたのだ。

すると、これが評判となり、「桂派」や「三友派」といった一流の落語家も、金を借りようと思い、岡田政太郎の寄席「富貴亭」にあがるようになった。

こうして、岡田政太郎の「浪速落語反対派」は、二流・三流の色物芸人を中心に、「桂派」や「三友派」の落語家を吸収していき、次第次第に大きくなっていった。

吉本興行部(吉本興業)との提携

岡田政太郎の寄席「富貴亭」の近くに、4代続く老舗の荒物問屋「箸吉」があり、荒物問屋「箸吉」には、吉本泰三(吉本吉兵衛)という若旦那が居た。

この吉本泰三(吉本吉兵衛)は、父・吉本吉兵衛への不信感や継母・吉本ユキ(出口ユキ)のイジメが原因で、家業を放り出して芸人遊びに走り、旦那芸として覚えた剣舞に病みつきになっていた。

父・吉本吉兵衛は、跡継ぎの吉本泰三(吉本吉兵衛)に立ち直ってもらおうと思い、吉本せい(林せい)と結婚させたり、家督を譲って5代目・吉本吉兵衛を襲名させたりしたが、吉本泰三の芸人道楽は治らなかった。

荒物問屋「箸吉」は日露戦争の時に貿易も手がけて繁盛していたが、日露戦争後の不景気に加えて、吉本泰三(吉本吉兵衛)の芸道楽による散財で、2度の差し押さえを食らうようになっていた。

さらに、荒物問屋「箸吉」は大阪市電鉄の計画に引っかかり、明治43年(1910年)に立ち退きを命じられた。

荒物問屋「箸吉」は、こうした吉本家のお家騒動の末に廃業に至り、吉本泰三は無職となったのである。

しかし、吉本泰三は、芸人遊びをしていた関係で、早い段階から、岡田政太郎と知り合っており、岡田政太郎の影響を受けて、前々から寄席の経営をしたいと思っていたらしい。

そこで、吉本泰三は、天満宮(天満天神)裏にある三流の寄席「第二文芸館」が売りに出ている事を知ると、妻の「吉本せい」にお金を調達してもらい、「第二文芸館」の購入したのである。

「第二文芸館」の購入前から既に話しは決まっていたようで、吉本泰三は「第二文芸館」を購入すると、岡田政太郎の「浪速落語反対派」と提携して、浪速落語反対派の芸人を派遣してもらい、明治45年(1912年)4月1日に「文芸館」を創業した。

この三流の寄席「文芸館」が吉本興業(吉本興行部)の前身である。

こうして、同士を得た岡田政太郎は、吉本泰三と共同で「芦辺合名社(芦辺商会)」を設立し、協力して「浪速落語反対派」の勢力を拡大していった。

反対派の勢力の拡大

岡田政太郎は、大正3年(1914年)に松屋町の「松竹座」、堀江の「娠江亭」京町堀の「第四文芸館」、平野町の「此花館」、千日前の「集寄亭」、日本橋の「京山亭」を買収してチェーン展開を開始した。

盟友・吉本泰三も、「芦辺合名社(芦辺商会)」とは別に、大正2年に単独で「吉本興行部(吉本興業)」を設立し、大正3年(1914年)に松島の「芦辺館」、福島の「龍虎館」、梅田の「松井館」、天神橋筋5丁目の「都座」を買収した。

さて、落語の「桂派」は衰退が激しく、大正元年(1912年)に消滅しており、「桂派」が拠点とした法善寺の「金沢席」は、「蓬莱館」へと名を変えていた。

そこで、盟友・吉本泰三が大正4年(1915年)に法善寺の一流の寄席「蓬莱館(金沢席)」を買収し、「南地花月」とした。

こうして、「浪速落語反対派」は、法善寺の「南地花月」を拠点に、「紅梅亭」の「三友派」との対決に挑むのだった。

岡田政太郎が死去

岡田政太郎は京都へと進出して、大正7年(1918年)に新京極の「富貴席」「笑福亭」西陣の「富貴席」を手に入れて勢力を拡大し、以降は京都を拠点とする。

盟友・吉本泰三も、大正8年(1919年)に三友派を代表する一流の寄席は「永楽館」を買収し、「花月倶楽部」として大阪での勢力を拡大する。

さらに、盟友・吉本泰三は、三友派の実力者である三升家紋右衛門・桂文枝・桂家残月・桂枝太郎・橘家圓太郎などを引き抜いて三友派を切り崩していった。

しかし、三友派の拠点「紅梅邸」には、絶大なる人気を誇る初代・桂春団治の看板がかかっており、依然として勢力を誇っていた。

そのようななか、大正9年(1920年)12月7日に「浪速落語反対派(岡田興行部)」の興行主・岡田政太郎が死去した。享年53と伝わる。

吉本泰三の下克上

吉本興行部(吉本興業)の吉本泰三は、岡田政太郎の「浪速落語反対派」から芸人を派遣してもらい、反対派の芸人を寄席に上げており、寄席の経営者にしか過ぎなかった。

しかし、北新地の「花月倶楽部」、南地の「南地花月」という大阪でも有数の寄席を手に入れており、芸人に対する影響力が大きく、岡田政太郎との立場が逆転していた。

「浪速落語反対派」の権利は太夫元(興行主)の岡田政太郎にあったが、「浪速落語反対派」の実権は吉本泰三が握っていたのである。

しかも、吉本泰三は相当な野心家で、表面上は岡田政太郎と友好関係を築きながらも、水面下では虎視眈々と「浪速落語反対派」を飲み込むチャンスをうかがっていたのだ。

そこで、吉本泰三は、岡田政太郎が死去すると、岡田政太郎の懐刀である青山督、切れ者と評判の滝野寿吉、妻・吉本せい(林せい)、義弟・林正之助を集めて、対応を協議した。

その結果、吉本泰三は、岡田政太郎の次男・岡田政雄に「浪速落語反対派(岡田興行部)」を相続させたうえで、1万円の手形を渡して「浪速落語反対派(岡田興行部)」の権利を売却させたのである。

岡田政太郎には、長男・岡田栄太郎と次男・岡田政雄が居たが、若い次男・岡田政雄の方がコントロールしやすいと思ったのだろう。

吉本泰三は、1万円で権利を売却させているが、事実上の乗っ取りと批判する声もある。

兎にも角にも、こうして、吉本泰三が「浪速落語反対派」の権利を手に入れて太夫元(興行主)になったのである。

ところが、岡田政太郎は非常に芸人の面倒見が良く、大正7年(1918年)に米騒動が起きたときに餓死しそうになっていた芸人に米を買い与え、以降は1人2銭を積み立てて芸人の家に米を現物支給しており、芸人の家族からも喜ばれていた。

このため、吉本泰三が太夫元(興行主)になると、急激に待遇が悪化したため、岡田政太郎の恩顧の芸人が吉本興行部(吉本興業)に「10ヶ条の要求」を突きつけてボイコットを起こした。

そして、ボイコットを起こした芸人連中が次男・岡田政雄を擁立すると、次男・岡田政雄は兄・岡田栄太郎を参謀に迎えて、「元祖反対派(岡田反対派)」を発足し、京都で籠城したのである。

怒った吉本泰三は、次男・岡田政雄に渡した1万円の手形を不渡りにして、タダで「浪速落語反対派(岡田興行部)」の権利を継承し、「吉本派」を発足した。

こうして、「浪速落語反対派」は「元祖反対派(岡田反対派)」と「吉本派」に分裂したが、侠客の仲裁により、次男・岡田政雄が全ての権利を吉本興行部(吉本興業)に譲る形で、「元祖反対派(岡田反対派)」は6ヶ月で消滅した。

「吉本派」は「花月派」と改称した後、大正11年(1922年)に「吉本花月連」となり、吉本興行部(吉本興業)は「浪速落語反対派」を飲み込んで太夫元(興行主)へと発展したのである。

吉本王国の誕生

吉本興行部(吉本興業)は、三友派から大看板の初代・桂春団治などを引き抜くことに成功しており、法善寺の「紅梅邸」で抵抗していた三友派も大正11年(1922年)8月に吉本興行部(吉本興業)の軍門に降り、「花月連三友派合同連」が誕生した。

まだ新興勢力の「大八会」は存在していたが、吉本興行部(吉本興業)の吉本泰三は上方の演芸界を制覇し、大正11年に大阪18館・神戸2館・京都5館・東京1館・神奈川1館・名古屋1館の計28館の寄席を手中に収め、吉本王国を築いたのであった。

スポンサードリンク

ブログ内検索

スポンサードリンク