反対派の創業者・岡田政太郎の立志伝

吉本興業の基礎を築いた「浪速落語反対派(岡田興業部)」の創業者・岡田政太郎の立志伝です。

岡田政太郎の立志伝

岡田政太郎の画像岡田政太郎は、幕末の慶応3年(1863年)ごろに大阪府牧岡市池之島町(大阪府東大阪市)で生まれた。

岡田政太郎は、玉造の風呂屋に養子に入り、風呂屋で成功して「風呂政」の異名を取った。色が黒いことから「黒政」とも呼ばれた。かなり面倒見の良い性格だった伝わる。

明治時代、一流の芸は落語と言われ、大阪の演芸界では、正統落語の「桂派」と、落語に謡曲や演舞を取り入れた「三友派」が対立して、しのぎを削っており、落語の黄金期を迎えていた。

そのようななか、岡田政太郎は株で儲けた莫大な資金を元手に、大阪府東区内安堂寺町上本町を東に入った南側にある講談の寄席「梯子亭(はしごてい)」を手入れ、「富貴亭」と改称して寄席の経営を開始した。

このころ、一流の芸は落語であり、それ以外の謡曲・演舞・漫談・漫才などの諸芸は「色物」と呼ばれて蔑まれ、二流・三流の扱いを受けていた。

寄席の中心は落語だったが、落語家は格式を重んじており、一流の落語家は出演料の安い寄席に出るのを嫌ったので、岡田政太郎が落語家を安く呼ぼうとしても、落語家は来てくれない。

そこで、岡田政太郎は、「なんでも構わぬ、上手いも下手もない、銭が安うて、無条件に楽しませる演芸」という方針で、二流・三流の色物芸人・B級C級芸人・落ち武者のようなゴミ芸人をかき集め、「岡田興業部」を設立して興行主となり、明治43年(1910年)に浪速の落語に反対する「浪速落語反対派(浪速反対派)」を立ち上げた。

落語の「桂派」と「三友派」は、あくまでも芸の質で勢力を争い合っており、いわば「切磋琢磨」という状態にあった。

しかし、岡田政太郎の反対派は、一流の落語家が馬鹿にしていたゴミ芸人をかき集め、芸の質ではなく、ビジネスとして勝負したのである。これは吉本興行部(吉本興業)に大きな影響を与えることになる。

反対派は吉本商法の元祖

当時の寄席は入場料15銭が一般的だったが、反対派を立ち上げた岡田政太郎は、入場料5銭以下という低価格戦略をとり、複数の寄席を経営し、寄席をチェーン展開することで利益を上げていった。

また、岡田政太郎は月に1度は芸人の相談日を設けて、芸人のお金の相談にのり、お金を貸してやった。芸人にお金を貸すことにより、お金で芸人を縛り付けたのである。

そうした一方で、芸人が楽屋で「金を貸してくれた」と話しを広めたので、岡田政太郎の噂は広まり、これまで出演を拒否していた桂派や三友派の一流芸人も、岡田政太郎の寄席に出るようになった。

こうした岡田政太郎の「格安」「寄席のチェーン展開」「お金で芸人を縛る」という戦略は、お笑い王国を築く吉本興行部(吉本興業)に引き継がれていくことになる。

吉本興行部との提携

吉本興業の前身となる吉本興行部の創業者・吉本泰三(吉本吉兵衛)は、5代続く老舗の荒物問屋「箸吉」の若旦那で、吉本せい(林せい)と結婚して以降も、家業を放り出して芸人遊びに励んでいた。

このころから、吉本泰三(吉本吉兵衛)は、芸人遊びを通じて、反対派の岡田政太郎と知り合いだった。

さて、吉本家の荒物問屋「箸吉」は繁盛していたが、日露戦争後の不況によって不渡りが相次いで家業は傾いていた。

それでも、吉本泰三(吉本吉兵衛)は旦那芸として覚えた剣舞に入れ込んで、「女賊島津お政本人出演のざんげ芝居」の太夫元(興行主)となって旅巡業に出て借金を膨らませていた。

そして、吉本泰三(吉本吉兵衛)が旅巡業に出ている間に、吉本家の荒物問屋「箸吉」が大阪市電鉄の計画にひっかかり、残された妻・林せい(吉本せい)だけでは、傾いた家業を立て直すことは不可能だったことから、荒物問屋「箸吉」は移転せずに廃業した。

旅巡業から戻ると、失業していた吉本泰三(吉本吉兵衛)は、天満宮(天満天神)の裏門にある三流の寄席「第二文芸館」の経営権を買い取り、岡田政太郎の反対派と契約し、明治45年(1912年)4月1日に「文芸館」を開業した。

さらに、吉本泰三(吉本吉兵衛)は翌年の大正2年(1913年)1月、吉本興行部を設立した。この吉本興行部が後の吉本興業である。

吉本泰三(吉本吉兵衛)は、一足先に発足していた「反対派(浪速反対派)」と契約し、吉本の寄席に反対派の芸人を上げ、反対派と同様に「入場料5銭の格安戦略」「寄席をチェーン展開」という手法で勢力を拡大していった。

反対派と吉本興行部の台頭

大正時代に入ると、農村部の若者が大阪へと流入するようになる。こうした若者はお金も時間も無いので、高くて長たらしい落語よりも、安くて面白い二流・三流と呼ばれた芸を好んだ。

このようななか、落語は一流の芸として演芸の中心にあり、落語の「桂派」と「三友派」がしのぎを削っていたが、「桂派」も「三友派」もともに盟主が死去してしまう。

このような背景から、大正時代に入ると、落語は衰退の一途をたどり、その隙を突く形で、反対派と吉本興行部が勢力を拡大していった。

吉本泰三(吉本吉兵衛)の吉本興行部は、大正7年に桂派が拠点としていた一流の寄席「金沢席」を買収し、大正8年(1919年)には三友派を代表する寄席の1つ「永楽館」を傘下に収めた。

一方、岡田政太郎の反対派も大阪で複数の寄席を買収した後、京都へ進出し、京都でも複数の寄席を買収して勢力を拡大した。

岡田政太郎の死去と反対派のその後

反対派と吉本興行部(吉本興業)は両輪のような関係で勢力を拡大していたが、大正9年(1920年)12月に反対派の興行主・岡田政太郎が急死してしまう。死因は不明で、享年53だったと伝わる。

岡田政太郎の死後、岡田政太郎の次男・岡田政雄が反対派(岡田興業部)を継承して二代目となった。

ところが、吉本泰三(吉本吉兵衛)の吉本興行部(吉本興業)の寄席は、反対派が出演する寄席の過半数を占めており、興行主の岡田家と力関係が逆転し、反対派の実権を握っていた。

このため、吉本興行部(吉本興業)は、二代目の岡田政雄に1万円の手形を渡し、反対派の権利を売るように迫り、売却を約束させた。

ところが、一度は売却に応じていた二代目の岡田政雄が、岡田派の反対派芸人を抱えて「岡田反対派」を発足した。

これに激怒した吉本興行部(吉本興業)は1万円の手形を不渡りにして、タダで反対派の権利を手に入れ、吉本派の反対派芸人を抱えて「吉本花月連」を立ち上げた。

こうして、反対派は「岡田反対派」と「吉本花月連」に分裂したが、吉本興行部の吉本せい(林せい)の画策により、岡田政雄の「岡田反対派」はわずか3ヶ月で崩壊し、吉本花月連に吸収された。

その後、吉本興行部(吉本興業)は、三友派の大看板だった初代・桂春団治(皮田藤吉)の借金を肩代わりして専属契約を結んだ。

その結果、三友派は戦意を喪失し、条件つきながらも、三友派の拠点「紅梅邸」を吉本泰三(吉本吉兵衛)に明け渡し、大正11年(1922年)8月に吉本泰三(吉本吉兵衛)の軍門に降った。

こうして、吉本泰三(吉本吉兵衛)と妻・吉本せい(林せい)は「桂派」「三友派」「反対派」を飲み込み、大阪の演芸界を統一した。さらには、東京や神奈川にも進出して吉本王国を築いたのであった。

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