太陽の塔を作った男-岡本太郎の立志伝

「太陽の塔」や「芸術は爆発だ」で有名な芸術家の岡本太郎(おかもと・たろう)の生涯を描く立志伝です。

岡本太郎の立志伝

岡本太郎岡本太郎は、明治44年(1911年)2月26日に、神奈川県橘樹郡高津村大字二子(神奈川県川崎市)で、画家・岡本一平の長男として生まれた。母は歌人・岡本かの子である。

祖父・岡本可亭は書道家で、北大路魯山人の師匠であった。父・岡本一平は画家だった。

母・岡本かの子は、江戸幕府御用商の大貫家に生まれて、大地主の娘として自由奔放に育ち、結婚後も家事や育児を放棄して読書をしたり、作家活動をしたりしていた。

岡本太郎が母・岡本かの子の背中に甘えようとしても、母・岡本かの子は邪魔に思い、岡本太郎を柱に縛り付け、子供がどれだけ泣いても知らん顔をするような母親だった。

今で言う育児放棄だが、このとき、岡本太郎は、泣きながら母の背中を見て、「何かそこに神聖なものを感じた」という。

さて、父・岡本一平は東京朝日新聞に入社し、夏目漱石に認められてコマ絵で人気を博すようになり、収入が増えると、家庭を顧みずに遊ぶようになり、夫婦生活が破綻した。

すると、母・岡本かの子は、早大生・堀切茂雄と恋に落ちた。そして、妹のキンが早大生・堀切茂雄の下宿に居る事を知って激怒し、愛人の早大生・堀切茂雄を父・岡本一平に紹介して岡本家に同居させた。岡本太郎が3歳のことである。

母・岡本かの子は、世間から批判され、早大生・堀切茂雄との恋愛に悩み、物心も付かない岡本太郎に対して、大人の男に相談するように恋愛相談をした。

やがて、母・岡本かの子は、子供の死や愛人・堀切茂雄との恋愛に悩み、神経衰弱などで入退院を繰り返すようになり、愛人・堀切茂雄をも結核で失ってしまった。

母・岡本かの子と父・岡本一平は、宗教に救いを求めるようになり、やがて、父・岡本一平は母・岡本かの子を菩薩として崇めるようになり、愛人との同居も許し、全てを母・岡本かの子に捧げるようになるのだった。

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学生時代

さて、岡本太郎は大正6年(1917年)4月に、東京の青南小学校に入学するが、スジの通らないことが許せない性格だったので、理不尽な教師に嫌気がさし、登校拒否するようになり、1学期で退学した。

このため、岡本太郎は日本橋に住む祖父・岡本可亭の家に預けられ、祖父の家の近くにあった私塾「日新学校」へ入れられた。

「日新学校」で理不尽なイジメを受け、両親に家に帰りたいと懇願すると、両親が校長と話し合いをすることになり、これで家に帰れると喜んだが、「日新学校」に寄宿したまま小伝馬町の「十思小学校」に通うことになった。

しかし、「十思小学校」でも理不尽な教師に耐えきれず、学校へ行くのが嫌で、岡本太郎はトボトボとした足取りで学校へ登校していた。

このとき、岡本太郎は太陽と会話をしながら歩いており、太陽を見上げて話ながら歩いていると、だんだん目がチカチカしてきて、思わずバツと目を閉じてしまった。

すると、まぶたの裏にパーツと、真っ黒な太陽が飛び散り、岡本太郎は太陽に親近感を覚えるようになった。

さて、岡本太郎は、理不尽な教師が許せないながらも、「十思小学校」に通っているうちに病気みたいになったため、青山の実家に戻った。もう1年生も終わろうとしていた。

そこで、母・岡本かの子の愛人・恒松安夫が、「慶應義塾幼稚園」は自由主義なので、岡本太郎にもピッタリだろうと勧め、岡本太郎は新入生として「慶應義塾幼稚舎」に入学して、もう1度、1年生からやり直すことになった。

(注釈:恒松安夫は、母・岡本かの子の愛人とされているが、父・岡本一平の書生で、男女の関係は無かったという説もある。)

「慶應義塾幼稚舎」は岡本家の近くにあったが、岡本太郎は寄宿舎に入れられ、「慶應義塾幼稚舎」でもイジメを受けた。自殺を考えたほどだった。

しかし、「慶應義塾幼稚舎」で担任・位上清と出会った。担任・位上清は、恐ろしいが、筋が通っていたので、岡本太郎は感動して、救われるような思いがした。

こうして、岡本太郎は学校に通うようになるが、小学3年のとき、校長が代わり、担任・位上清は校長と対立してクビになってしまい、泣いた。

その後の担任に失望した岡本太郎は、教師の教えを聞くと脳が汚れると思い、教師の声が聞こえないように授業中はずっと耳を塞いで授業を耐え忍び、「慶應義塾幼稚舎」を卒業すると、「慶應義塾普通部」へと進学した。

岡本太郎は、絵・文学・音楽のどれに進もうか迷っていたが、美術学校はデッサンの試験だけで、学科試験が無かったことから、「東京美術学校(東京芸術大学)」への進学を決めた。

岡本太郎は、東京美術学校には学科試験が無い事から、学校側に学校へ行く必要が無い事を主張すると、「落ちたら、もう1度、5年生をやる」という条件で主張が認められたので、5年生は1日も登校しなかった。

そして、「東京美術学校」に合格すると、登校しないという筋を通し、卒業式も出席せず、「東京美術学校」へと進学した。

後に、同期生の音楽家・藤山一郎が「お前はビリで、俺は2番目だった」と言うと、岡本太郎は「お前は全部、授業に出て2番目じゃないか。俺は1日も出てないんだからビリでも仕方が無い」と答えた。

パリ時代

昭和4年(1929年)、岡本太郎が18歳のとき、父・岡本一平が朝日新聞の特派員としてロンドンて開催される海軍軍縮会議を取材する特派員に任命され、渡欧することになった。

母・岡本かの子は、「日本でちゃんと基礎を勉強してから行くのがいいんです」と言い、岡本太郎を置いていくつもりだったが、出発の直前になり、「あと何10年生きられるわけでもないのに、別れて暮らすなんて、そんなのイヤ」と言い出した。

このため、岡本太郎は、東京美術学校を休学して、両親と母親の愛人2(松安夫と新田亀三)と共にフランスへと旅立った。

当時、父・岡本一平は「総理大臣の名前は知らなくても、岡本一平の名前は誰でも知っている」と言われた程の有名人で、母・岡本かの子も有名人だったことから、芸術家一家の外遊として相当な話題となった。

さて、両親はパリを5日間、観光した後、岡本太郎をパリに残してイギリスへと渡った。

パリに残った岡本太郎は、食事付の下宿に入っていたが、「絵が思うように描けないのなら、その間にせっかく勉強に来たフランスの文化を身につけよう」と思い、下宿を出て、中学生くらいのフランスの男子が入る私立寄宿舎「パンシオン・フランショ」の寄宿生となり、フランス語やフランスの教養を学んだ。

やがて、岡本太郎はフランス語が出来るようになると、パリ大学の聴講生となり、ヘーゲル美学を学び、その後、哲学科の正規生になって心理学や社会学も学んだ。

昭和7年の夏、岡本太郎は偶然、立ち寄った画廊でピカソの抽象画「水差しと果物鉢」と出会い、強い衝撃を受けた。

そして、抽象画を描き始めてしばらくすると、抽象画の「アプストラクシオン・クレアシオン協会」に誘われて加盟し、大勢の芸術家と交流を持つようになる。

しかし、岡本太郎は、ピカソを超えるためには抽象画という枠組みを超えなければならないと考え、抽象画と具体画を絡み合わせた絵を描くようになり、昭和11年にパリ時代の代表作「傷ましき腕」を描き上げた。

「傷ましき腕」は、もはや抽象画ではなかったことから、岡本太郎は組織との決別を決め、昭和11年に「アプストラクシオン・クレアシオン協会」を脱会した。

さて、岡本太郎が昭和12年10月のサロン・デ・シュール・アンデパンダン展に「傷ましき腕」を出展すると、シュールレアリスムの詩人アンドレ・ブルトンが「傷ましき腕」を絶賛し、グループへの参加を求めた。

しかし、岡本太郎は、グループに所属する気にはなれず、断った。

このころ、岡本太郎は「芸術、芸術家とはなにか」という根本的な問題に突き当たっており、マルセル・モースに師事して民俗学を学び、絵を描く事からも離れた。

後に、岡本太郎は、民俗学を学んだ理由について、「芸術は、全人間的に生きることです。私はただ、絵だけを描く職人になりたくない。だから民族学をやったんだ」と語っている。

また、迷っていた岡本太郎は、映画館で映画を観ていたときに、「おれは神聖な火炎を大事にして、守ろうとしている。大事にするから、弱くなってしまうのだ。己自身と闘え。自分自身を突きとばせばいいのだ。炎はその瞬間に燃え上がり、後は無。爆発するんだ」と気付き、反骨イズムに目覚めた。

その一方で、岡本太郎はジョルジュ・バタイユと意気投合し、バタイユが主催する「コレージュ・ド・ソシオロジー・サクレ(精神世界研究会)」や秘密結社「アセファル」に参加した。

岡本太郎はバタイユから大きな影響を受けるが、やがて矛盾を感じるようになり、その矛盾を手紙で指摘してバタイユの運動と決別した。

しかし、バタイユは手紙に感動したので、バタイユとの友情関係は続いた。

昭和14年2月に母・岡本かの子が49歳という若さで死んだ。知らせを受けた岡本太郎は、泣きながら、狂ったようにパリの街を走り回った。

その後、戦況が悪化。昭和15年6月、フランスがドイツ軍の侵攻を受け、同志と思っていた仲間が散り散りになっていき、最後までフランスに残っていたのは岡本太郎とバタイユだけとなった。

岡本太郎は、フランスに運命を賭けるつもりで青春を過ごしていたが、戦争で全てが崩壊したことにショックを受け、パリに居てもどうにもならないと思い、10年間のパリ生活に終止符を打ち、捨てたつもりでいた日本に帰国した。

帰国

岡本太郎が10年間を過ごしたフランスを捨てて帰国すると、日本の様子はすっかりと変わっていた。日本は軍国主義に支配され、インテリは体制派の発言が多く、超現実派の評論家やモダンアートの人たちが逮捕されるという時代になっていた。

それでも、岡本太郎は、パリ帰りの新進気鋭の画家として注目され、昭和16年に仁科展に出品して仁科賞を受賞したり、個展「滞欧作品展」を開いたりした。

さて、フランス滞在を理由に徴兵検査を延期していた岡本太郎は、若者に混じって、徴兵検査を受けた。もう30歳だったので、合格しても丙種だろうと思っていたが、甲種合格してしまった。

そして、昭和16年12月に日本が太平洋戦争に突入し、岡本太郎は中国奥地の自動車隊に配属され、初年兵教育を受けた。岡本太郎はパリ帰りだったので、毎日、リンチ同然の暴行を受けたという。

やがて、初年兵教育が終わると、士官室に呼ばれるようになり、将校やインテリ士官に頼まれ、世界情勢について語るようになった。

岡本太郎は、日本は勝てないと分析しても、将校達は納得しなかったが、反論する材料を持ち合わせていなかったので、専門家は日本が勝つと言っているので、岡本太郎の考えは間違っていると言った。

やがて、岡本太郎は幹部候補生に昇格しそうになったが、職業軍人になることを嫌い、返事もせず、最悪な劣等生を演じた。

昭和20年、日本は終戦を迎え、岡本太郎は中国で1年間の捕虜生活をおくった。捕虜生活中は、食料を調達するため、金持ちの家に行って似顔絵を描き、食べ物を分けて貰っていたという。

岡本太郎は、戦争体験については、多くを語らず、後に「軍隊生活4年。収容所での1年。あの5年間、私は冷凍されていたような気がする。わが人生で、あれほど空しかったことはない」と回想している。

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戦後

さて、岡本太郎は、昭和21年6月に復員した。東京に戻ると、絵は全て燃えており、無一文になった岡本太郎は、永井龍男の助言で、川端康成にお金を借りに行った。

川端康成は、岡本太郎の両親と親しくしていたので、喜んで大金を貸し、岡本太郎を自宅に居候させた。

その後、岡本太郎は岐阜県に疎開していた父を訪ね、母親の実家・大貫家に身を寄せた。

そのようななか、母・岡本かの子の全集などが出版されることになり、まとまったお金が入ったので、昭和22年に東京都世田谷区上野毛に売れ残っているアトリエを買い取り、絵を描き始めた。

岡本太郎は、当時の作品は暗灰色ばかりで個性が無かった事に呆れ、「この空しい混沌の中で、やはり美術界に今まで無かった価値観をつきつけるべきだ」として、原色を使った絵を描いた。

当時の美術界では、原色は女子供の色とされ、岡本太郎は罵声を浴びたが、岡本太郎は日本美術界に対して「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」と挑発し、画壇から反感を買うような大作を描き続けた。

日本は敗戦でひっくり返ったはずなのに、日本の美術界は旧態依然としたビラミッド形式で、岡本太郎はピラミッドをぶっ潰そうと考えた。

そこで、昭和23年には、意気投合した花田清輝と「夜の会」を結成し、前衛芸術運動を開始して、過激な発言を繰り返した。

このころ、岡本太郎は、後に秘書となり、実質的な妻となる平野敏子と出会った。

さて、岡本太郎が参加しているということで、「夜の会」には大勢の若者が集まってきたが、若者達は討論ばかりだったので不満が続出した。

このため、実際に文学や絵を持ち込んで批評する「アヴァンギャルド芸術研究会」が発足した。

その一方で、父・岡本一平が死去し、岡本太郎は父・岡本一平の死に顔をスケッチしたのだった。

縄文土器との出会い

昭和26年(1971年)11月、岡本太郎は40歳のとき、東京国立博物館で縄文土器と出会い、激しい衝撃を受けた。

そこで、岡本太郎は、精力的に縄文土器を研究し、わずか2ヶ月後に、美術雑誌「みづゑ」の昭和27年2月号で「四次元との対話-縄文土器論」を発表した。

岡本太郎の縄文土器論に対して、美術界からの反響は無かったが、建築界から反応があり、次第に反響は他の業界へと波及していき、日本美術の始まりは縄文土器となった。

今でこそ、縄文土器は教科書に載っているが、このころは教科書にも載っておらず、研究者の間で知られる程度の知名度だったので、縄文土器を広めたのは岡本太郎だと言っても過言では無いだろう。

さて、縄文土器との出会いにより、焼き物の魅力に取り付かれた岡本太郎は、陶器製の作品や立体的な作品を作り始めた。

昭和27年2月には、第4回日本アンデパンダン展にモザイク・タイルによる壁画の第1作「太陽の神話」出品し、同年3月には、日本橋高島屋の地下通路にモザイク・タイル壁画「創生」と「ダンス」を制作した。

さらに、昭和27年に伊奈製陶(INAX)の焼き物で作った立体的な作品「顔」を制作した。

昭和29年8月に著書「今日の芸術―時代を創造するものは誰か」が出版され、ベストセラーとなると、岡本太郎は様々なジャンルをまたいだ芸術に取り組むため、青山にアトリエを築き、「現代芸術研究所」を設立した。

これ以降、岡本太郎は、芸術は収集家の物ではなく、みんなのも物だとして、公共的な施設に作品を展示するパブリックアートを数多く手がけるようになり、昭和31年には東京都庁の陶板壁画11点を制作した。

この壁画は大きな評判を得て、昭和34年4月に、フランスの雑誌「今日の建築」の第1回国際建築絵画大賞を受賞した。

沖縄の紹介

昭和30年11月、岡本太郎は東京美術学校時代の同級生に、沖縄へ来ないかと誘われていたので、連載の下見がてらに、アメリカ軍の占領下にあった沖縄へ行った。

岡本太郎は、沖縄県の久高島にある聖なる空間「御嶽(うたき)」を見て強い感銘を受けた。

「御嶽」には礼拝堂も偶像も何も無い場所だったが、岡本太郎は「御嶽」を沖縄の神髄だと感じたのである。

昭和35年に「沖縄文化論-忘れられた日本」の連載を開始し、昭和36年に出版すると、大きな反響を呼んだ。

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信楽焼との出会い

岡本太郎は、縄文土器と出会ったことを切っ掛けに、陶器を使った作品や立体的な作品を作るようになっていたが、当時の陶器ではイメージする「赤」が出ず、作品に不満を持っていた。

そのようななか、昭和39年(1964年)、東京の銀座松坂屋が東京オリンピックに向けて外壁工事をすることになり、岡本太郎がアドバイザーに就任した。

そのとき、外装タイルを手がけたのが、滋賀県の近江化学陶器だった。近江化学陶器は陶芸家の神山清子神山易久などを排出した信楽焼の窯元である。

近江化学陶器は、戦後、火鉢を製造していたが、昭和30年代に入ると、電化製品の普及により、火鉢の需要が低迷したため、タイルの製造を開始し、東京進出に成功して、東京での足場を固めようとしているところだった。

しかし、岡本太郎は、聞いたことも無い近江化学陶器に任せることを不安に思い、自身が顧問を務めている日本陶管へ変更しようとした。

すると、近江化学陶器の奥田七郎は、岡本太郎の過去の陶器作品が塗り物である事を指摘し、信楽焼なら岡本太郎が望む「赤」を出せると言った。

事実、岡本太郎は、伊奈製陶(INAX)のタイルを使って壁画「ダンス」を制作していたが、思うような色が出なかったので、タイルの上から色を塗っており、作品に不満をもっていた。

岡本太郎は、近江化学陶器の奥田七郎に作品への不満を見破られたため、信楽焼に興味を持ち、信楽焼の「赤」に取り付かれ、以降、陶器作品の大半を近江化学陶器で製造することになる。

こうして、岡本太郎は信楽焼の近江学陶器と出会い、昭和38年(1963年)に信楽焼で「座ることを拒否する椅子」を制作した。

さらに、昭和39年には、近江化学陶器で制作した信楽焼のタイルを使い、東京オリンピックのために建設された国立代々木競技場の壁画「競う」「走る」「手」「足」「プロフィル」を制作した。

太陽の塔

昭和42年(1967年)、日本万国博覧会協会の事業部長らが来て、「10億円の予算を自由に使っていい」と言い、大阪で開催される日本万国博覧会のテーマ館のプロデューサーを引き受けて欲しいと頼んだ。

プロデューサーの人選は揉めに揉めて結局、決まらず、時間が無くなったため、最後は一か八かで、岡本太郎に頼むことになったのだ。

岡本太郎は、「僕は一匹狼だ。組織の中では仕事が出来ない」として、断ったが、日本万国博覧会協会は「他に頼める人が居ない」と言い、何度も頼みに来た。

日本万国博覧会については、日米安保協定の改定から国民の目をそらすためのイベントという批判があり、学生運動が美術界へと飛び火して、反博運動が起きていた。

このため、失敗すれば、袋だたきに遭うことが目に見えていたので、周りの人はみんな引き受けないように助言したが、逆に岡本太郎の反骨イズムに火を付けてしまい、やる気にさせてしまった。

このとき、岡本太郎は、テレビ番組「新しい世界・岡本太郎の探る中南米大陸」の取材で中南米へ行く予定になっていたため、取材から戻ってきたら、最終的な返事をすることにした。

しかし、日本万国博覧会協会は、そこまで待てないので、もう断らないだろうと思い、岡本太郎が引き受けたと言うふうな発表をしてしまったのである。

こうして、岡本太郎は日本万国博覧会のテーマ館のプロデューサーに就任したのだが、万博に人を集めなければならないが、警備上の問題から人が立ち止まって見るような物は困るという無理難題を押しつけられた。

しかも、岡本太郎は、当初から日本万国博覧会のテーマ「進歩と調和」に反対しており、「太陽の塔」という構想を練るが、日本万国博覧会の幹部には認められないと思われた。

ところが、日本万国博覧会の会長・石坂泰三(東芝の社長)の鶴の一声で認められ、「太陽の塔」を制作できることになった。

こうして、岡本太郎は、日本万国博覧会のシンボルゾーンにテーマ館として、「母の塔」「青春の塔」「大屋根」「太陽の塔」を制作した。

「太陽の塔」には、未来を象徴する「黄金の顔」、現在を象徴する「太陽の顔」、過去を象徴する「黒い太陽」という3つの顔があり、背後の「黒い太陽」は近江化学陶器の信楽焼で制作された。

こうした功績をたたえ、滋賀県信楽町は、昭和46年に岡本太郎に信楽名誉町民の称号を贈った。

明日の神話

昭和42年(1967年)、岡本太郎が日本万国博覧会のテーマ館のプロデューサーを引き受けたころ、メキシコから金持ちのマニュエル・スワレスが尋ねてきて、メキシコで建設するホテルの壁画を描いて欲しいと依頼した。

岡本太郎は、日本万国博覧会の準備で忙しかったが、メキシコが好きだったので、依頼を引き受け、忙しい合間を縫ってメキシコに出かけ、太陽の塔と平行して制作を続けて、昭和44年9月に原爆をテーマとした壁画「明日の神話」を完成させた。

後は、ホテルの完成を待って絵を壁に設置し、仕上げのサインをするだけとなり、岡本太郎は帰国してホテルの完成を待っていたが、ホテルの完成前に依頼主マニュエル・スワレスが死去してしまった。

その後、建物は売却されたため、「明日の神話」は行方不明になっていたのだが、平成15年(2003年)9月にメキシコの資材置き場で「明日の神話」が見つかった。

また、岡本太郎は「明日の神話」や「太陽の塔」に平行して、昭和44年に別府のサンドラックビルの壁画「緑の太陽」を完成させている。

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晩年

岡本太郎は、芸術・音楽・文章・スポーツなど、各方面で多彩な才能を発揮したほか、テレビCMに出演して「芸術は爆発だ」「グラスの底に顔があったっていいじゃないか」などの台詞で一世を風靡した。

そして、バラエティー番組にも出演するようになり、「変なおじさん」として、お茶の間でも人気となった。

また、岡本太郎は、野球が好きで、プロ野球団「大阪近鉄バッファローズ」の監督・千葉茂と親交があり、監督・千葉茂の依頼で「大阪近鉄バッファローズ」のロゴを制作した。

平成3年、東京都庁の移転に伴い、岡本太郎が制作した壁画が取り壊されることになり、許可を求めてきた。

岡本太郎は、作った作品については執着しなかったようで、壁画の破壊を許可した。

また、岡本太郎は、平成3年に所蔵352点(時価500億円)を生まれ育った川崎市に寄贈した。川崎市は美術館の建設を計画し、平成5年に岡本太郎に川崎市名誉市民を与えた。

晩年は、パーキンソン病に苦しみながらも創作活動を続けていたが、岡本太郎は平成8年(1996年)1月7日に急性呼吸不全で死去した。85歳だった。

備考

  1. 岡本太郎は岡本敏子と事実婚状態だったが、特殊な家庭環境で育ったことから、結婚という制度に馴染めず、岡本敏子を養女とした。

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