華麗なる一族・岡崎財閥の岡崎真雄の立志伝

華麗なる一族と呼ばれた神戸・岡崎財閥の4代目当主・岡崎真雄の立志伝です。

岡崎真雄の生涯

岡崎真雄岡崎真雄は昭和10年(1935年)10月31日に兵庫県神戸市須磨区で、岡崎真一の長男として生まれた。

父・岡崎真一は、「華麗なる一族」と呼ばれる神戸・岡崎財閥の3代目当主で、同和火災海上保険(ニッセイ同和損害保険→あいおいニッセイ同和損害保険)の社長・会長などを務めた。

母は大谷尊由の長女・大谷高子である。母方の大谷家が天皇家に繋がっており、この血筋が「華麗なる一族」と呼ばれる一因である。

(注釈:岡崎家の家系図は「岡崎財閥の家系図と立志伝」をご覧ください。)

さて、岡崎家は小学校1~2年までは、子供1人つき1人の守り役が就くという裕福な暮しだったが、守り役は子供1人につき子守1人という専任だったため、担当の子供以外には冷たかった。

岡崎真雄は、須磨浦幼稚園から須磨浦小学校へと進学し、小学生の時に昭和20年(1945)3月17日の神戸大空襲を経験した。

空襲の影響で伯父・岡崎忠の自宅にも火が回り、祖父・岡崎忠雄の自宅の防空壕へと逃げ込むことになったが、焼夷弾がお手伝いさんに直撃して亡くなり、岡崎忠の妻・岡崎君も破片で負傷して重傷を負うという不幸もあった。

また、岡崎財閥は戦争でボロボロになり、看板だけになっていたが、戦後、GHQの財閥解体の5次指定を受けて岡崎財閥は解体され、岡崎財閥は消滅した。神戸で財閥解体を受けたのは岡崎財閥だけだった。

岡崎真雄の学生時代

岡崎真雄は戦後の昭和23年(1948年)に甲南中学へ進学し、テニス部に入部した。このとき、1年上に松岡功(東宝の社長/プロテニス選手・松岡修造の父)が居た。

しばらくして、岡崎真雄は陸上部に誘われて陸上部へと移り、短距離を始めたが、あまり長続きはしなかった。

昭和26年(1951年)、特に慶應義塾大学へ進学したいという気持ちは無かったが、祖父・岡崎忠雄も父・岡崎真一も慶応大学の出身だったため、慶應義塾大学高等部へと進学した。

岡崎真雄は、小学生の頃から自宅の敷地内で自動車の練習していた程の車好きだったので、慶應義塾大学高等部で自動車部に入り、16歳になると運転免許を取った。

そして、昭和29年(1954年)に慶應義塾大学経済学部へと進学すると、ここでも自動車部に入り、自動車に没頭した。

自動車の運転は、全日本自動車選手権の普通自動車部門の全大会に連続出場し、個人入賞を果たす程の腕前であった。

アメリカ留学

昭和33年(1958年)5月、慶応大学を卒業した岡崎真雄は、アメリカへ留学し、ミシガン大学で英語の勉強をした後、コネチカット州のトリニティ・カレッジで学んだ。

アメリカの保険会社は無料で保険について教えるコースを開設しており、岡崎真雄は「トラベラーズ」「ハートフォード」「フェニックス」「アテナ」の4社で保険の基礎を学んだ。保険について学ぶのは、これが初めてだった。

同和火災海上保険へ入社

2年間のアメリカ留学から帰国した岡崎真雄は、昭和35年(1960年)6月に父・岡崎真一が社長を務める同和火災海上保険(ニッセイ同和損害保険→あいおいニッセイ同和損害保険)へ入社し、取締役に就任した。

祖父・岡崎忠雄は「早すぎませんか?よその会社で勉強してからの方が」と反対したが、父・岡崎真一の意思は堅く、岡崎真雄を同和火災海上保険へ入社させたのである。

このころ、父・岡崎真一は衆議院議員・同和火災海上保険の社長・神戸商工会議所の会頭という三足のわらじを履いており、国会議員としての活動のため、東京に滞在する事が多く、本領の神戸を留守にしていた。

こうした隙を突いて、父・岡崎真一に恨みを持つ同和火災海上保険の専務・草場幸雄が謀反を起こし、「白木屋乗っ取り事件」などで有名な乗っ取り屋・横井英樹を同和火災海上保険に引き入れ、同和火災海上保険の株を買い占めにかかったのである。

専務・草場幸雄は父・岡崎真一の従兄弟だったが、岡崎真一に嫌われており、同和火災海上保険をクビになり、岡崎系の京都ダイキャストという会社に追いやられることになった。

さらに、専務・草場幸雄は、当初は京都ダイキャストの社長という話だったが、会長に追いやられたうえ、計画していた新規事業も岡崎真一によって中止させられたため、父・岡崎真一に恨みを持っていたのである。

横井英樹の同和火災海上保険買収事件は、泥沼の戦いに発展して世間を賑わせたたが、大蔵大臣に就任した田中角栄が騒動を快く思わず、裏で動いたらしく、買収事件は一転して収拾に向かった。

昭和37年(1962年)、山一証券の社長・大神一が仲介者となり、乗っ取り屋・横井英樹が買い占めた2万株のうち、1万8000株を岡崎真一が買い戻した。

横井英樹は買い占めた株を安値で手放しており、骨折り損となった。一方、父・岡崎真一も同和火災海上保険の社長から会長へと退き、両者痛み分けとなった。

同和火災海上保険は業界3位の規模を誇っていたが、横井英樹の株買収事件で内部の貧弱さを露見させてしまい、信用が失墜し、以降は業界で低迷することになる。

また、同和火災海上保険は、神戸海上火災保険・共同火災海上保険・朝日海上火災保険・横浜火災海上保険の4社合併で誕生していたが、それぞれの会社に歴史があり、合併後もそれぞれの会社の社風を色濃く残し、社内に軋轢を抱えていた。

岡崎真雄は、社内の軋轢に苦労しながらも、アメリカで学んだ保険の知識を役立て外国部で活躍し、昭和43(1968年)に常務取締役常務に就任、昭和44年(1969年)には常務取締役専務に就任した。

一方、私生活では、昭和38年(1963年)5月26日に、小坂財閥の小坂善太郎の娘・小坂眞理子(岡崎眞理子)と結婚した。

妻・小坂眞理子との結婚

岡崎真雄の妻・小坂眞理子(岡崎眞理子)は、信州の名門・小坂財閥の小坂善太郎の娘である。

信州の小坂財閥は、豪農から発展した財閥で、小坂徳三郎の時に信越化学工業(東証1部)を創業した。

さらに、小坂財閥は数多くの政治家を輩出しており、岡崎眞理子(小坂眞理子)の父・小坂善太郎も外務大臣や労働大臣を歴任した政治家である。

父・小坂善太郎は、前妻・高木直子が亡くなった後、天皇家に繋がる大谷尊由の次女・大谷益子と再婚した。

再婚相手の次女・大谷益子は、岡崎真雄の母・岡崎高子(大谷高子)の妹なので、岡崎真雄と妻・岡崎眞理子(小坂眞理子)は従兄弟の関係となったのである。

ただし、小坂眞理子(岡崎眞理子)は、父・小坂善太郎と前妻・直子の間に生まれた子で、家系図上の従兄弟であり、血のつながりは無い(下の家系図を参照)。

岡崎真雄の家系図

さて、岡崎真雄と妻・小坂眞理子(岡崎眞理子)は、従兄弟だったので、家同士としての付き合いはあったが、個人的な付き合いは無かった。

しかし、岡崎真雄のアメリカ留学したときに妻・小坂眞理子(岡崎眞理子)もアメリカに留学しており、せっかく従兄弟がアメリカに居るのだからということで、小坂眞理子(岡崎眞理子)の元を訪れた。

これが切っ掛けで、小坂眞理子(岡崎眞理子)と手紙の交際が始まり、その後、本格的な交際に発展したのである。

そして、岡崎真雄は帰国して同和火災海上保険に入社した後の昭和38年(1963年)5月26日に妻・小坂眞理子(岡崎眞理子)と結婚した。

内閣総理大臣・池田勇人は、総理在任中は媒酌人は務めないと公言していたが、小坂眞理子(岡崎眞理子)の事を特に気に入っていたので、特別に媒酌人を務めた。

また、乾杯の音頭は元内閣総理大臣・吉田茂が務めるという、まさに「華麗なる一族」の名にふさわしい結婚式であった。

同和火災海上保険の社長時代

昭和60年(1985年)7月19日、岡崎真雄は同和火災海上保険の代表取締役社長に就任した。当時、岡崎真雄は49歳で損害保険業界で最年少社長となった。

このころ、同和火災海上保険のシェアは低下し続けており、岡崎真雄の社長就任は「経営のエース投入」と評され、大きな期待を寄せられた。

そして、社長に就任した岡崎真雄は「保険は人と紙である」という持論から、人材育成に力を入れ、長期経営計画として「フェニックス計画」を立ち上げ、経営の立て直しに奔走した。

あいおいニッセイ同和損保の誕生

保険の自由化など保険業界は厳しい時代を迎えるなか、岡崎真雄は平成10年(1998年)に同和火災海上保険の代表取締役会長に就任する。

この2年前の平成8年に同和火災海上保険は、生命保険に進出して同和生命保険を設立。一方、日本生命も同年に損害保険へと進出し、ニッセイ損害保険を設立した。

このとき、岡崎真雄は日本生命に社員80人を派遣して、ニッセイ損害保険の設立を支援しており、「生命保険と損害保険」という異業種で良好な関係を築いていた。

こうした関係から、同和火災海上保険は平成13年(2001年)に日本生命の子会社・ニッセイ損害保険と合併し、ニッセイ同和損害保険を設立した。

こうして、同和火災海上保険はニッセイ同和損害保険となり、日本生命の傘下に入ったが、岡崎真雄は日本生命から経営の独立の約束を取り付けており、日本生命の子会社にはならず、経営の独立を確保した。

また、同和火災海上保険が設立した同和生命保険は、解散し、契約者は日本生命へと引き継がれた。

岡崎真雄はニッセイ同和損害保険の誕生により、同社の会長へと就任し、平成18年(2006年)に名誉会長へと退いた。

その後も業界再編は進み、ニッセイ同和損害保険は平成22年(2010年)4月に、三井住友海上グループの子会社になり、平成22年(2010年)10月に三井住友海上グループ子会社「あいおい損保」と合併し、「あいおいニッセイ同和損害保険」となった。

岡崎真雄の晩年

岡崎真雄は、岡崎財閥の長男として生まれたことから、保険業界で生きる事を当然と考えており、その生涯を保険一筋に注いだため、財界活動は取引先や友人の付き合いで加わる程度で、積極的には参加しなかった。

岡崎真雄の妻と子供

岡崎真雄の妻・岡崎眞理子(小坂眞理子)の間に2女が生まれた。岡崎祐子は横山剛輔と結婚し、岡崎麻子は藤崎馨と結婚しており、岡崎財閥の本家筋は現在に続いている。

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