華麗なる一族の岡崎真一の立志伝-岡崎財閥の衰退

華麗なる一族と呼ばれる神戸・岡崎財閥で同和火災海上保険を継承した岡崎真一の立志伝の後半です。

立志伝の前半は「華麗なる一族・岡崎財閥の岡崎真一の立志伝」をご覧ください。

華麗なる一族・岡崎真一が政界へ進出

原口忠次郎は、昭和22年(1947年)に行われた戦後最初の神戸市長選挙に出馬し、小寺謙吉に敗れて落選してしまうが、参議院選挙へと出馬して当選し、昭和23年(1948年)に参議院議員になった。

ところが、神戸市長の小寺謙吉が昭和24年9月27日に急死したため、参議院議員の原口忠次郎は、神戸市長選に出馬して当選し、神戸市長となった。

これにともない、参議院議員の席が1つ空き、兵庫区で参議院補欠選挙が行われた。

そこで、関西財界のホープとして活躍していた華麗なる一族・岡崎財閥のプリンス岡崎真一は、この兵庫区参議院補欠選挙に出馬した。

岡崎真一は、妻の大谷家が天皇家の親戚ということもあり、兵庫県で圧倒的な人気を誇り、全国でも過去最高の取得票を得て昭和25年(1950年)1月に参議院補欠選挙に当選を果たし、全国に「華麗なる一族・神戸の岡崎家」の健在を知らしめた。

日本航空(JAL)と日本テレビの設立

参議院議員となった岡崎真一は政界でも活躍する一方で、財界でも活躍し、昭和26年(1951年)には日本航空(JAL)の発起人に加わり、日本航空(JAL)の取締役に就任した。

さらに、岡崎真一が社長を務める同和火災海上保険が、日本航空(JAL)に出資して10万株を取得し、株主第1位となった。

一方、昭和26年に公職追放が解除される。公職追放が解除された父・岡崎忠雄は昭和27年に日本経団連顧問に就任。月に1度程度は東京に出るのも健康に良いだろうと考え、東京計器製造所の会長も務めた。

ところで、読読売新聞の社長・正力松太郎は、以前から民間テレビ局を設立する構想を持っており、昭和26年に公職追放が解除されると、民間初のテレビ局「日本テレビ放送網」の設立に向けて動き出した。

このころ、アメリカには「ビジョン・オブ・アメリカ構想」という計画があり、アメリカは日本に戦略的テレビ局を作ろうとしていた。その提唱者がカール・ムントン議員だった。

岡崎真一は正力松太郎から民間テレビ局「日本テレビ」の構想を聞いて賛同しており、正力松太郎の要請を受け、個人としてアメリカ・ワシントンへと渡り、ビジョン・オブ・アメリカ構想の提唱者カール・ムントン議員と会談した。

そして、岡崎真一は交渉の結果、カール・ムントン議員から正力松太郎の日本テレビ構想への理解と協力を取り付けた。

こうして、昭和27年(1952年)10月28日に民間初のテレビ局「日本テレビ放送網」が設立され、岡崎真一は日本テレビ放送網の取締役に就任した。

NHKが昭和28年(1953年)2月1日にテレビの本放送を開始しており、若干の後れを取ったが日本テレビも昭和28年8月28日に民間初のテレビ放送を開始し、正力松太郎は「日本のテレビの父」と呼ばれるようになった。

このほかにも、岡崎真一は、東京衡機製造所の社長、日豊海運の取締役、東洋パルプの取締役、神戸国際会館の社長など数々の要職を務め、昭和30年11月に神戸商工会議所の会頭に就任した。

なお、正力松太郎は、日本テレビを作ってアメリカのテレビ局進出を阻止したとも、アメリカと密約を結び、NHKのテレビ放送の独占を阻止するために日本テレビを作ったとも言われるが、真相は不明である。

同和火災海上保険と乗っ取り屋・横井英樹

岡崎真一は、経営者・衆議委員議員・神戸商工会議所の会頭という三足のわらじを履いていたが、岡崎真一の本領はあくまでも神戸であり、岡崎家の同和火災海上保険である。

しかし、岡崎真一は政界へ進出して以降、国会議員としての活動に力を入れ、東京に滞在する事が多くなっており、本領の神戸を留守にしたうえ、同和火災海上保険の経営がおろそかにしていた。

ところで、同和火災海上保険は、神戸海上火災保険・朝日海上火災保険・共同火災海上保険・横浜火災海上保険の4社合併によって設立されたのが、未だに4社それぞれの古い社風が残っており、大きな軋轢を残していた。

こうした状況で、岡崎真一は国会議員として、活動の中心を東京に移し、本領の神戸を留守にするようになったため、その隙を突き、同和火災海上保険の専務・草場幸雄が謀反を起こしたのである。

草場幸雄は岡崎真一の従兄弟だったが、岡崎真一に嫌われており、同和火災海上保険をクビになり、岡崎系の京都ダイキャストという会社に追いやられることになった。

しかも、当初は京都ダイキャストの社長という話だったが、岡崎真一によって会長に追いやられたうえ、計画していた新規事業も岡崎真一によって中止させられたため、草場幸雄は大きな不満を抱えていた。

そこで、草場幸雄は、「白木屋乗っ取り事件」などで有名な乗っ取り屋・横井英樹を同和火災海上保険に引き入れ、同和火災海上保険の株を買い占めにかかったのである。

元々、同和火災海上保険は、白木屋乗っ取り事件に関与しており、草場幸雄を通じて横井英樹に資金を融通していた。

これが縁で、草場幸雄は横井英樹に不満を漏らし、今回の同和火災海上保険の株の買い占めに至ったのである。

岡崎真一は参議院選挙の出馬に関連して、同和火災海上保険の資金を流用するという選挙違反を犯していたといい、草場幸雄はその事実を知っていたという。

そこで、草場幸雄と横井英樹は株を買い占めて、選挙違反をネタに、岡崎真一に株を高値で買い戻させようというのが、株買い占めの目的らしい。

同和火災海上保険乗っ取り事件は世間を賑わせる事件へと発展したが、法律の関係で保険会社を買収する事はできず、泥沼状態に陥った。

ところが、泥沼状態の買収騒動は、一転して解決へと向かうことになる。岡崎真一は参議院義委員で大蔵委員を務めていたことから、大蔵大臣に就任した田中角栄が買収騒動を快く思わず、裏で騒動の収拾に動いたらしい。

結果的に、昭和37年(1962年)、山一証券の社長・大神一が仲介者となり、乗っ取り屋・横井英樹が買い占めた2万株のうち、1万8000株を岡崎真一が買い戻した。

乗っ取り屋・横井英樹は、買値よりも安値で手放しており、同和火災海上保険の乗っ取り事件は骨折り損に終わった。

乗っ取りを阻止した岡崎真一も、一連の騒動の責任を取る形で、常務の藤本秀二に社長を譲って会長へと退き、両者痛み分けとなった。

同和火災海上保険は業界3位と大手に位置していたが、横井英樹の乗っ取り事件で内部体制の貧弱さなどが露見して信用を失い、以降は保険業界で低迷を続けることになる。

華麗なる一族・岡崎真一の没落

岡崎真一は昭和39年に4選を目指して神戸商工会議所の会頭の立候補したが、神戸財界は神戸を留守にする岡崎真一を拒否し、鈴木商店の出身で神戸製鋼所の社長・浅田長平を会頭に擁立した。

岡崎真一は浅田長平と一騎打ちになったが、大阪財界も浅田長平を支持した。さらに、川崎重工業の会長・手塚俊夫が中心になって浅田長平を推したため、岡崎真一は浅田長平に敗れてしまう。

また、岡崎真一は、昭和40年まで参議院義委員を4期務めており、次の参議院選挙でも公認候補に選ばれていたが、出馬を断念した。

このころから、岡崎真一は不調を訴えるようになり、昭和45年(1970年)に体調が悪化して入院していたが、昭和46年(1971年)1月20日に死去した。正四位勲二等旭日重光章、享年64。

華麗なる一族・岡崎真一の没落

岡崎真一は昭和39年に4選を目指して神戸商工会議所の会頭の立候補したが、神戸財界は神戸を留守にする岡崎真一を拒否し、鈴木商店の出身で神戸製鋼所の社長・浅田長平を会頭に擁立した。

岡崎真一は浅田長平と一騎打ちになったが、大阪財界も浅田長平を支持した。さらに、川崎重工業の会長・手塚俊夫が中心になって浅田長平を推したため、岡崎真一は浅田長平に敗れてしまう。

また、岡崎真一は、昭和40年まで参議院義委員を4期務めており、次の参議院選挙でも公認候補に選ばれていたが、出馬を断念した。

このころから、岡崎真一は不調を訴えるようになり、昭和45年(1970年)に体調が悪化して入院していたが、昭和46年(1971年)1月20日に死去した。

岡崎真一の子供

岡崎真一と大谷高子の間には、三男二女が生まれた。

長男・岡崎真雄は、昭和10年(1935年)10月31日生まれ。慶應義塾大学経済学部を卒業後、アメリカ留学。同和火災海上保険(ニッセイ同和損害保険→あいおいニッセイ同和損害保険)に入社して一貫して保険畑を歩み、同和火災海上保険の社長・会長を務めた。

次男・岡崎藤雄は、昭和12年(1937年)生まれで、甲南大学を卒業後、サンパウロ大学に留学した。内外ゴムの社長・会長を歴任したほか、神戸ロータリークラブの会長なども務めた。

長女・岡崎尚子は昭和13年(1938年)生まれ。神戸女学院大学部を卒業。山下新日本汽船の社長・山下三郎の長男・山下英郎(えいろう)と結婚した。山下英郎はカシワテックの社長・相談役などを務めた。

三男・岡崎由雄は昭和15年(1940年)生まれで、慶應義塾大学法学部を卒業。東京衡機製造所の社長・会長を務めたほか、神戸ロータリークラブの会長なども務めた。

次女・岡崎周子は昭和17年(1942年)生まれ、神戸女学院高等部を卒業後、ワシントンのアメリカン大学を卒業し、東芝の社長・会長の岩下文雄の長男・岩下哲朗に嫁いだ。岩下哲朗は東芝建物の取締役などを歴任した。

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