華麗なる一族・岡崎財閥の岡崎忠の立志伝

華麗なる一族と呼ばれた神戸・岡崎財閥の養子となり、神戸銀行の頭取を務めた岡崎忠(おかざき・ちゅう)の立志伝です。

岡崎忠(おかざき・ちゅう)の立志伝

岡崎忠岡崎忠(川島忠)は明治37年(1904年)10月1日に東京市三田綱町で、海軍中尉・川島令次郎の四男(8人兄弟で、兄3人・姉1人・妹2人・弟1人)として生まれた。

母は乙部栄(川島栄/乙部栄子)と言い、兵庫県の明石藩・松平家で家老を務めた乙部家の出身である。

忠(ちゅう)という名前は論語から取ったものである。当時は日露戦争のまっただなかで、軍艦の艦長として出征していた父・川島令次郎が軍艦から「男でも女でも忠と名付けよ」と電報を打ったため、忠と名付けられた。

母・乙部栄は、「男の子で良かった。女の子で忠子というと、ネズミのお嫁さんのようで、どうしようかと思った」と心配していたが、生まれてきたのが男の子だったのでホッとした。

後年、父・川島令次郎は、岡崎忠に論語の本を渡して、その名前のいわれを教えたのだが、戦災で論語が焼失してしまい、岡崎忠は漢籍の教養に弱かったため、名前の言われを思い出すことが出来なかった。

幼少期と川島家の暮し

赤穂義士墓地で有名な東京都港区高輪二丁目にある泉岳寺の裏に、明石藩・松平家の屋敷があった。

母・乙部栄が明石藩・松平家で家老を務めた乙部家の出身だった関係からか、岡崎忠が3歳か4歳の頃に、父・川島令次郎は泉岳寺の裏にある松平邸内に家を建て引っ越し、岡崎忠はここで幼少期を過ごした。

父・川島令次郎は軍人だったので、川島家は非常に質素で厳格だった。岡崎忠も非常に厳しい躾を受けて育った。新聞を読むのも、腕をぴしっと伸ばし、教育勅語を読むよう姿勢で読んだ。

正月は早朝から明治神宮にお参りし、家族揃ってお雑煮とおとそを頂くと、「お読み始め」と「お書き始め」を行った。

父・川島令次郎の前に子供たちが並んで正座し、「お読み始め」として、父・川島令次郎が軍人勅論を棒読みし、次ぎに子供達を代表して長兄が教育勅語を棒読みした。

その後、「書き初めが」が行われ、父・川島令次郎が「君が代は」と書き、母・乙部栄が「千代に八千代に」と書く。そして、長兄が「さざれ石の」といいうふうに、一家で「君が代」を書いた。

日常のご飯は押麦を入れた麦飯で、1日と15日は母・乙部栄が赤飯を炊いた。家族の誰かが誕生日の時は白飯を炊いて、カレーに福神漬が添えられた。

非常に質素な生活だったので、岡崎忠は誕生日に出るカレーに福神漬が「凄いご馳走だと思った」と語っている。

さて、自宅は200坪ほどで、庭の80坪ほどが芝生になっており、ここが子供達のグランドとなった。

ガラスを割ると怒られるので、雨戸を閉めることを思いつき、父・川島令次郎が居ない時は、雨戸を締めて芝生で野球をした。

しかし、このせいで、家の中は昼間でも暗く、母や姉や妹は迷惑を被ったようだ。

第2の故郷・静岡

岡崎忠は東京市立台町尋常小学校を経て私立芝中学へと進んだ。そして、芝中学を卒業して、大正12年(1923年)春に静岡県にある旧制・静岡高校へと進学した。

岡崎忠は旧制・静岡高校でテニス部に入ってテニスでも活躍した。1年2年の時は軟式テニスだったが、その後、硬式テニスに切り割った。

日曜日には静岡駅に出て、35銭の弁当と5銭のお茶を買い、汽車で用宗(もちむね)や興津(おきつ)の海岸へ行くのが好きだった。岡崎忠は静岡を第2の故郷と思うほど、気に入っていた。

さて、旧制・静岡高校は、岡崎忠が入学する前年の大正11年(1922年)に創立したばかりで、非常に規律や学問に厳しい学校だった。

40人が入学したが、2年の進級で10人が落第し、3年の進級で7人が落ち、卒業の時は23人になっていた。

岡崎忠は旧制・静岡高校の文科2類に入学しており、第1外国語がドイツ語だったので、ドイツ語で東京帝国大学(東京大学)を受験するため、3年になると図書館に通ってドイツ語の新聞を読んでいた。

このため、岡崎忠はドイツ語の読み書きができ、話すのと聞くのはダメだったが、簡単な会話なら出来たし、筆談くらいなら出来た。

岡崎忠と関東大震災

大正12年(1923年)9月1日に関東大震災が発生した。

岡崎忠は大正12年春に旧制・静岡高校に進学しており、静岡県で暮らしていたが、勝手に夏休みを延長して実家に戻っていたので、東京の実家で関東大震災を経験した。

いつもの地震では「外に出てはダメだ」と言っていた父・川島令次郎も、流石に関東大震災の時は「飛び出せ」と大声を上げ、家族で庭に飛び出した。

家は残っていたが、大小の地震が続いたので、関東大震災の夜から、庭に蚊帳を吊って寝た。

また、岡崎忠は関東大震災の夜から、自警団を作り、夜回りをしていた。夜回り組には特別に握り飯の差し入れがあったので、大変ありがたかった。

東京帝国大学に入学

岡崎忠はドイツ語で東京帝国大学(東京大学)を受験して無事に合格し、大正15年(1926年)10月に東京帝国大学の法学部政治学科へと進学した。

川島家は男子5人のうち、岡崎忠を含めて4人が東京帝国大学卒業という秀才一家である。

なかでも、兄の川島真(川島眞)は一高から東京帝国大学へ進んだ秀才で、岡崎忠が東京帝国大学の法学部に入学したとき、兄・川島真も東京帝国大学の法学部3年だったので、兄・川島真から色々と教えてもらった。

岡崎忠は、東京帝国大学ではテニスはやらず、図書館で過ごすことが多かった。イギリスの哲学者トーマス・ヒル・グリーンやドイツの経済学者ヴェルナー・ゾンバルトなども読んだ。

三菱倉庫に就職

就職試験は三菱倉庫と運輸省を受け、三菱倉庫に合格した。

当時は複数の会社を受けていた場合、先に決まった方に就職するのが仁義だったので、岡崎忠は運輸省に就職を断りに行くと、人事担当者から「合格だったのに」と言われた。

また、父・川島令次郎からも「自分は男だからお前が何をしても平気だが、母さんに心配をかけるようなことだけはするな」と言われた。

こうして、岡崎忠は昭和4年の春に東京帝国大学を卒業後、三菱倉庫に就職し、三菱倉庫の神戸支店に勤務した。

岡崎忠が外にコーヒーを飲みに行って帰ってくると、上司から「ウチに昼休みは無い」と叱られた。また、部屋では南京虫(シラミ)に苦しんだ。

岡崎財閥の長女・岡崎君と結婚

岡崎忠は三菱倉庫に就職して3年目の昭和6年(1931年)5月2日に、岡崎財閥の2代目総帥・岡崎忠雄の長女・岡崎君と結婚した。

岡崎忠の実家・川島家の向かいに国分商店の国分勘兵衛が住んでおり、川島家と親しくてが国分勘兵衛夫婦が、神戸・岡崎財閥の長女・岡崎君との縁談を持ってきてくれたのである。

両親から「お前はどうだ」と意見を聞かれたとき、岡崎忠は「お父さんやお母さんが良いのなら、私は良いですよ」と答えたので、昭和5年(1930年)に岡崎君との縁談がまとまった。当時の結婚は、そんなものだった。

こうして、岡崎忠が岡崎家に婿養子に入る事になり、須磨の岡崎家に何度か挨拶に行き、岡崎君とは2~3度会っただけで、昭和6年(1931年)5月2日に国分勘兵衛夫婦の媒酌で結婚式を挙げ、岡崎家の婿養子となった。

岡崎忠は古風な家庭に育ったので、晩年に岡崎君との結婚について、「親が決めた相手で良かったなあ」と感想を述べている。

義母・岡崎豊が激怒

昭和7年(1932年)10月に長女・岡崎孝子が生まれると、初めて父親になった岡崎忠は神の摂理を感じて、涙を流して喜んだ。

しかし、慣れてしまったのか長男が欲しかったこともあり、昭和14年(1939年)に次女・岡崎和子が生まれたときは、「また女の子か」と口走ってしまった。

義母・岡崎豊は非常に優しい人で、1度も怒ったことが無かったが、この時ばかりは義母・岡崎豊はに叱られた。義母・岡崎豊に叱られたのは、これが最初で最後であった。

岡崎財閥入りと世界1周旅行

義父で岡崎財閥の2代目・岡崎忠雄は、岡崎忠を養子に迎え入れるのに前後して、昭和6年(1931年)に岡崎財閥のグループ企業を統括する岡崎総本店を設立した。

岡崎総本店の設立は、長男・岡崎真一と養子・岡崎忠による岡崎財閥の二頭体制の準備だとも言われている。

さて、岡崎忠は岡崎君と結婚して岡崎家の養子になって以降も、三菱倉庫に勤務して忙しく働いていたが、昭和8年(1933年)9月に三菱倉庫を退社し、昭和8年10月に岡崎財閥の神戸岡崎銀行に入った。

一方、岡崎家では、昭和8年の秋、義父・岡崎忠雄の長男・岡崎真一が大谷高子と結婚した。

この大谷高子は、貞明皇后(明治天皇の皇后)と親戚関係にあり、大谷家に血筋が岡崎家に入った事で、神戸の岡崎財閥が「華麗なる一族」と呼ばれる要因になる。

さて、養子・岡崎忠夫婦と、長男・岡崎真一夫婦は、昭和8年(1933年)12月から昭和9年(1934年)8月まで世界一周旅行に出た。世界の約17カ国をまわる豪勢な旅行だった。

この世界1周旅行は、新婚旅行というよりも、両家の親睦を図る事が目的だったらしい。

岡崎忠の射的事件

世界1周旅行に出た岡崎忠がロンドンのホテルに滞在していたとき、裏通りに射的屋があった。

日本の夜店のような小さな店ではなく、パチンコ屋ほどの大きな店構えで、鉛の玉を使用した元込め式の銃を使う本格的な射的屋である。

岡崎忠は子供の頃に兄の空気銃で鍛えていたので、この射的屋で実力を発揮し、タバコ「ネイビーカット」を1抱えも稼いだのだが、翌日も行くと、店員が顔を覚えており、岡崎忠はタバコ3つを握らされて、お引き取り願われた。

岡崎忠と第2次世界大戦

昭和9年(1934年)8月に世界1周旅行から帰国した岡崎忠は、神戸岡崎銀行の本店営業部と柳原支店勤務を経て、昭和11年(1936年)11月に駒ヶ原支店の支店長となった。

一方、昭和11年(1936年)に大蔵大臣・馬場鍈一が「一県一行主義」を提唱し、国策によって兵庫県下にある神戸岡崎銀行・五十六銀行・西宮銀行・灘商業銀行・姫路銀行・高砂銀行・三十八銀行の7行が合併することになった。

7行の中で神戸岡崎銀行が最大規模であったが、義父・岡崎忠雄は最大規模の岡崎財閥が譲歩しなければ、合併は成功しないと考え、神戸岡崎銀行が大きく譲歩した1対1の対等合併により、わずか半年で7行合併を成功させた。

こうして、昭和11年(1936年)12月に神戸銀行が誕生したが、義父・岡崎忠雄は人事面でも譲歩して社長の座を八馬兼介に譲り、会長に退いていた。

岡崎忠は、7行合併によって誕生した神戸銀行の行員となった。昭和12年(1937年)9月に東京支店へ転勤となり、東京支店で順調に出世し、昭和13年(1938年)3月に支店長に就任した。

昭和14年(1939年)9月にドイツがポーランドに侵入して第2次世界大戦が勃発し、状況が悪化していくなか、岡崎忠は昭和16年(1941年)2月に大阪支店長に就任し、昭和16年6月に待望の長男・岡崎晴彦が生まれた。

岡崎晴彦が生まれた半年後の昭和16年(1941年)12月に日本は真珠湾攻撃を行い、戦況は悪化の一途をたどるなか、岡崎忠は昭和17年(1942年)8月に神戸の本店営業部長に就任した。

岡崎財閥と神戸大空襲

昭和23年(1948年)3月17日に神戸が大空襲を受け、須磨にある岡崎忠の自宅も焼夷弾で火が付いた。

岡崎忠は妻と子供を義父・岡崎忠雄の家に逃がすと、1人で自宅に留まってバケツで水を掛けていたが、火傷しそうになり、消火を諦め、庭に逃げ、自宅が焼け落ちるのを眺めた。

その後、義父・岡崎忠雄の自宅に行くと、義父の自宅も火の手が上がっていたので、妻と子供を探して防空壕へと向かうと、妻は8カ所に焼夷弾の破片を受けて負傷していたうえ、右腕を骨折していた。

それでも、妻・岡崎君は気丈に「私に構わず、子供を連れて逃げて」と言っていた。

岡崎忠は、妻・岡崎君が破傷風になったら大変だと思い、東京の軍需省に居る兄・橋井真(川島真)に薬品を分けてもらおうと思って、電話しようとしたが、神戸は大空襲を受けて電話が通じなかった。

そこで、岡崎忠は、大阪なら電話が通じると思い、自転車で大阪に向かった。その途中で偶然にも大阪に住む知り合いに会い、その知り合いが東京への連絡を引き受けてくれたので、岡崎忠は妻・岡崎君の元へと引き返した。

幸いにも、知らせを受けた兄・橋井真(川島真)が破傷風の予防薬を送ってくれた。焼け残った外科の先生にも診てもらうことができ、1週間後に破片を摘出してもらい、妻・岡崎君子は助かった。

ただ、妻・岡崎君子の破片は全て摘出できず、岡崎忠が「生きているのが不思議だ」と思うような状態だった。

華麗なる一族・岡崎忠の立志伝-神戸銀行の頭取編」へ続く。

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