尾上清の立志伝

子供服ブランド「ファミリア」の創業者・坂野惇子の恩人でもあり、戦後に佐々木営業部(レナウン)を再開してレナウンを大企業へと育て上げ、30年間にわたりレナウンのトップに君臨し続けた尾上清の生涯です。

尾上清の生涯

尾上清の画像尾上清(おのえ・きよし)は、明治44年(1911年)5月23日に大阪市住吉区帝塚山で、尾上設蔵(おのえ・せつぞう)の長男として生まれた。

正しい読み方は「おのえ・きよし」で、「おのうえ・きよし」や「おがみ・きよし」は間違い。

父・尾上設蔵は、繊維卸売業「佐々木営業部」(現在のレナウン/東証一部上場)を創業した佐々木八十八に見いだされ、番頭(支配人)として佐々木営業部を実質的に経営した人物である。

尾上清は、帝塚山学院小学部→住吉中学を経て、上京して慶應義塾高等部へと進学した。

当時のサラリーマンの給料が60円だった時代に、尾上清は100円の仕送りをもらっていた。

しかし、遊び好きだったため、それでも小遣いが足りず、実家へ帰る度に小遣いをせびったうえ、父・尾上設蔵からもらった上着や教科書などを質屋に入れた。

あるとき、部屋にあるアルバムは全部、女性の写真だったので、父・尾上設蔵が「ごっついモテるんやな」と驚くと、尾上清は「おおきに」と言い、女性1人1人との馴れ初めを話し始めた。

また、父・尾上設蔵が「たまには遊びに行ってるのか」と尋ねると、尾上清は「たまには帰ってる」と答えた。

尾上清は豪快だったが、それを許した父・尾上設蔵も豪快だった。

ところで、尾上清は、それでも遊ぶ小遣いが足らず、喫茶店が流行する前の昭和7年頃に、学生ながら横浜で喫茶店を経営して、天才的な経営賭しての片鱗を見せ始めていた。

しかし、尾上清は遊ぶのに忙しく、授業に出席していなかったため、慶應義塾大学への進学に失敗してしまう。

父・尾上設蔵は来年の再挑戦を勧めたが、以前に「大学進学に失敗したら、佐々木営業部で丁稚として働け」と言った事があり、尾上清はその時の約束を守り、慶應義塾高等部を退学して昭和8年(1933年)に父・尾上設蔵が支配人をしている佐々木営業部に入社した。

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この頃の佐々木営業部の状況

佐々木営業部は、佐々木八十八が明治35年(1902年)に繊維雑貨卸売業として大阪で創業した。

大正11年(1922年)に巡洋戦艦「レナウン」で来日したさい、西洋好きの佐々木八十八が「レナウン」という横文字を気に入り、大正12年(1923年)に「レナウン」の商標を取得した。

佐々木営業部は、明治時代に起きた日露戦争の影響で発展。さらに、大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災の混乱の隙を突いて業績を拡大しており、仕入れだけでは間に合わなくなっていた。

そこで、佐々木八十八は大正15年に製造部門「レナウン・メリヤス工業」を設立して高級メリヤス自社生産を開始。さらに、業績を拡大し、昭和6年(1931年)には東京・日本橋に東京佐々木営業部を設立した。

こうして佐々木営業部が業績を拡大するなか、尾上清は昭和8年(1933年)は丁稚として佐々木営業部に入社した。

尾上清の佐々木営業部時代

尾上清は昭和8年(1933年)は丁稚として佐々木営業部(レナウン)に入社したが、直ぐに台頭し、昭和11年には常務に昇進していた。

昭和12年(1937年)に日中戦争が勃発。尾上清は昭和13年(1938年)に2度目の召集を受け、中国の天津に駐留した。

尾上清は昭和15年(1940年)に復員して、伊勢丹の2代目社長・小菅丹治の長女・小菅喜子と結婚する。

第二次世界大戦-江商との合併

佐々木営業部は昭和13年に東京・大阪の佐々木営業部を合併し、メリヤス業界のトップに立ち、「昔舶来、今レナウン」と呼ばれるようになっていた。

さらに、佐々木営業部は、国策に沿って上海や天津に子会社を設立して、海外進出も果たしていたが、各地を飛び回っていた佐々木営業部の社長・尾上設蔵が昭和15年(1940年)に54歳という若さで死去してしまう。

このようななか、昭和16年年(1941年)12月8日に日本が真珠湾攻撃を行い、状況は悪化の一途をたどる。

昭和17年(1942年)には「レナウン」が敵性語にあたるとして、軍部からの命令により、佐々木営業部のレナウンメリヤス工業は「東京編織」へと改名を余儀なくされた。

昭和18年には「営業」が金儲けを連想するとしてクレームが付いたため、佐々木営業部は「佐々木実業」へと社名を変更したうえ、社員が次々と徴兵され、佐々木実業は実質的に機能を停止していた。

このようななか、佐々木営業部は国策による企業整理の影響で、江商(兼松)に吸収合併されることなってしまう。

このとき、尾上清は佐々木営業部の創業者・佐々木八十八の許可を得て、江商と佐々木営業部の身売り交渉を行い、破格の条件で江商の社長・駒村資正に佐々木営業部を売却することに成功したという。

その直後の昭和19年(1944年)、尾上清は3度目の召集により、沖縄県の宮古島へと派遣され、宮古島で終戦を迎えた。

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戦後-佐々木営業部の復興

尾上清は、佐々木営業部を江商(兼松)に売却した時に、佐々木営業部から身をひくことにしていたが、江商(兼松)の社長・駒村資正からの要請もあり、復員すると、江商(兼松)の衣料部長に就任する。

ところで、日本軍は本土決戦に備えて大量の物資を各地に備蓄していたが、戦後、何者かを通じて民間へと流れ、闇市へと流れた。この流出した物資を「隠匿物資」という。

尾上清は江商(兼松)の衣料部長に就任する一方で、「有信実業」という会社を設立し、隠匿物資を闇市に流して、その資金を元に東京のレナウン・メリヤス工業を再稼働させた。

レナウン・メリヤス工業は、敵性語を指摘されて「東京編織」へと改称した後、軍需品工場として終戦まで生き残っていたが、戦争でボロボロになっていた。

そこで、尾上清は隠匿物資を闇市に流して得た資金で、東京でレナウン・メリヤス工業を再開させる。

このころ、警察は隠匿物資の摘発に乗り出しており、派手に隠匿物資を横流ししていた尾上清は、昭和21年(1946年)末に逮捕されてしまう。

しかし、尾上清は私腹を肥やすような性格ではなく、戦争で家を失ったり、困ったりしていた知人たちにお金を分け与えていたのでいたので、そした証言が集まり、釈放された。

一方、佐々木営業部の創業者・佐々木八十八は、佐々木営業部を野上家に任せて政界へ進出して貴族院議員として活躍していたが、貴族院議員の廃止にともない、昭和22年(1947年)5月2日に議員生活を終えていた。

こうして、全てを失った佐々木八十八は、尾上清に佐々木営業部の思い出を語る。尾上清は創業者・佐々木八十八の意を汲み、佐々木営業部(レナウン)の再開を決意する。

尾上清は「レナウンは佐々木家からの預かり物」「佐々木家とは主従の関係にある」「親子二代にわたりお世話になった」と公言しており、佐々木八十八の長男・佐々木隆一を社長にして佐々木営業部を再開しようとした。

しかし、長男・佐々木隆一は起業意欲を喪失しており、社長就任を断ったので、尾上清が社長となり、昭和22年(1947年)9月に江商(兼松)から独立して佐々木営業部を設立した。

その後、尾上清は、自分の体を担保として交渉し、住友銀行から2000万円、三菱銀行から1000万円を借りる事に成功した。

ところで、尾上清が設立した有信実業は、佐々木営業部(レナウン)の衣類小売部門「レナウン・サービス・ステーション」となった。

尾上清は大阪心斎橋筋の4階建てビルを買い取り、1階に「レナウン・サービス・ステーション」と「田中千代デザインルーム」を開き、2階で高級クラブを開いた。

レナウン・サービス・ステーションには、後にメンズブランド「van」を発足して「メンズファッションの神様」と呼ばれる石津謙介が在籍した。

一方、デザインルームを開いていた田中千代は神戸のデザイナーで、後に香淳皇后の衣装相談役となり、「皇后様のデザイナー」となる人物である。

実は、神戸のデザイナー田中千代と佐々木営業部は戦前から関係があった。

戦前、尾上清の妹・尾上寿美子が田中千代の洋裁教室「皐会(さつきかい)」に通っており、父・尾上設蔵は尾上寿美子の洋裁があまりにも本格的だったので驚き、田中千代の洋裁教室「皐会」を見学した。

すると、皐会の生徒が熱心に洋裁をしていたので、父・尾上設蔵は皐会に感心し、田中千代に三越百貨店で発表会を開くことを勧めた。

これが縁で、皐会は三越百貨店で発表会を開くようになり、田中千代は戦前の佐々木営業部で子供服のデザインを担当していたのである。

その後、田中千代は戦争の影響で神戸の洋裁研究所(洋裁学校)の閉鎖を余儀なくされ、長野県へ疎開していたが、神戸の洋裁研究所が被災を免れていたこともあり、戦後の洋裁ブームにのり、終戦直後の昭和21年(1946年)10月に洋裁研究所を再開していた。

戦後、田中千代は栄養失調を原因とする網膜剥離で左目を失明して、デザイナー生命を絶たれたと思われたが、周囲の応援を受けて洋裁研究所へと復帰し、レナウン・サービス・ステーションにもデザインルームを開設したのである。

さて、戦中に女性の服はモンペに変えられていた反動で、終戦直後から洋裁ブームが起きており、田中千代が佐々木営業部(レナウン)にファッションショーの開催を提案した。

こうして、大阪の文楽座で、昭和22年(1947年)に佐々木営業部(レナウン)の主催で田中千代のファッションショーが開催された。日本人としては戦後初のファッションショーである。

このころ、クリスチャン・ディオールのロングスカートが大流行したこともあり、戦後初となる田中千代のファッションショーは大成功を収め、戦後の洋裁ブームに拍車を掛けた。

尾上清の生涯-佐々木家への恩返し

佐々木営業部を創業した佐々木八十八には佐々木惇子(坂野惇子)という娘がおり、佐々木惇子(坂野惇子)は坂野通夫と結婚していた。

坂野通夫は海外勤務を希望して大阪商船(商船三井)に就職していたのだが、大阪商船(商船三井)は第二次世界大戦中に船を失っていたので、海外勤務は難しかった。

そこで、復員した坂野通夫は、佐々木八十八と尾上清の勧めにより、大阪商船(商船三井)を退社して、佐々木営業部(レナウン)へと入社した。

尾上清は、「レナウンは佐々木家からの預かり物」「佐々木家とは主従の関係にある」と公言しており、佐々木八十八の娘婿にあたる坂野通夫に佐々木営業部(レナウン)を返すつもりで、レナウン商法を教え込んでいく。

一方、佐々木八十八の3女・佐々木惇子(坂野惇子)は、戦後、田村江つ子(榎並江つ子)・田村光子・村井ミヨ子と共に、神戸・三宮センター街にある靴屋「モトヤ靴店」のショーケース2台を借り、モトヤ靴店内で「ベビーショップ・モトヤ」をオープンした。

この靴屋「モトヤ靴店」の店主・元田蓮は、モトヤ靴店の南に隣接している店舗の所有者で、店舗を運動具店に貸していたのだが、店が移転したため、空き店舗になってしまった。

そこで、モトヤ靴店の店主・元田蓮が、レナウンで働いている坂野通夫に空き店舗の事を相談した。

ちょうど、佐々木営業部はファッションショーの成功もあり、事業が順調に拡大して、ビルが手狭になっていた。

そこで、坂野通夫から話を聞いた尾上清は、モトヤ靴店の南側にある空き店舗を壊して、レナウン・サービス・ステーションを建設し、販売部門「有信実業」を神戸に移した。

こうして、佐々木営業部は神戸・三宮センター街に、レナウン・サービス・ステーションと田中千代デザインルームを開設した。

ところが、神戸・三宮センター街に開設したレナウン・サービス・ステーションは、オープン直後に閉鎖を余儀なくされる。

当時は生地が配給制だったので、繊維卸の佐々木営業部が小売りに進出した事に対し、各地の小売店から批判の声が上がったのだ。

レナウン・サービス・ステーションの撤退が決まると、坂野通夫はこれを機に、妻・坂野惇子(佐々木惇子)にレナウン・サービス・ステーションへ移って本格的な商売をする事を勧めた。

尾上清は佐々木惇子(坂野惇子)と幼馴染みで、以前から仕事をもつように勧めていたので、佐々木惇子(坂野惇子)が本格的に商売を開始することに賛成した。

そして、尾上清はファミリアに出資するという形で、佐々木惇子(坂野惇子)がレナウン・サービス・ステーションの取得に必要な費用を、個人的に負担した。

こうして、佐々木惇子(坂野惇子)・田村枝津子(田村江つ子)・田村光子・村井ミヨ子(中井ミヨ子)の4人は、「株式会社ファミリア」を設立し、昭和25年(1950年)4月12日にレナウン・サービス・ステーション跡で子供服ブランド「ファミリ」をオープンした。

そして、発足して間もないファミリアは、阪急百貨店の社長・清水雅の目に止り、阪急百貨店に直営店「阪急ファミリアグループ」を出店し、急激に業務を拡大していく。

このようななか、みんなの推薦によってファミリアの初代社長に就任していた靴屋「モトヤ靴店」の店主・元田蓮が、「皆に推されて名目上の社長になっているが、私には本業のシューズショップという仕事があるので、なにもできないのが心苦しい。このさい、実際にファミリアに打ち込める人が社長になるべきではなかろうか」と辞意を漏らした。

そこで、ファミリアの創業メンバーは話し合い、一番、若かった坂野通夫がファミリアの社長を引き受けることになった。

尾上清は佐々木営業部を坂野通夫に任せようと考えていたので、坂野通夫を何度も引き留めたが、坂野通夫の意思は堅かったため、佐々木営業部から出向という形で坂野通夫をファミリアへ送り出した。

こうして、佐々木八十八の3女・佐々木惇子(坂野惇子)が設立したファミリアは、後に皇室御用達ブランドになっている。

佐々木営業部からレナウンへ

創業者の佐々木八十八は先見の明があったが、佐々木八十八から帝王学を学んだ尾上清も負けていなかった。

尾上清はラジオや新聞に着目し、昭和26年(1951年)に民間放送が開始されると、新聞やラジオで宣伝を開始した。

翌年の昭和27年(1952年)には製造部門の「東京編織株式会社」を「レナウン工業株式会社」へと改称し、昭和30年(1955年)には「株式会社佐々木営業部」を「レナウン商事株式会社」へと改称した。

昭和31年(1956年)には札幌・仙台・名古屋・広島・福岡の全国5カ所に会社を設立したほか、昭和34年(1959年)には問屋を通さずに小売店と直接取引するレナウン・チェーンストアを開始した。

昭和33年(1958年)に皇太子・明仁親王(平成の今上天皇)が正田美智子(皇后・美智子)と婚約。昭和34年4月にご成婚パレードが行われた事を切っ掛けに、全国的にテレビが普及し始めるようになった。

すると、尾上清はTVに着目し、昭和36年(1961年)に小林亜星が作曲を手がけたテレビCM「レナウン・ワンサカ娘」(通称「レナウン娘」)を展開し、レナウンをブランド化していった。

また、尾上清は既成の婦人服が流行することを見越し、昭和36年に女性の既製服ブランド「レナウンルック(後のルック)」設立。さらに、昭和52年には男性の既製服ブランド「ダーバン」を設立した。

尾上清は設備投資や宣伝投資を積極的に行って順調に業績を拡大していき、昭和38年(1963年)に「レナウン商事」「レナウン工業」ともに東証2部上場を果たす。

そして、昭和43年(1968年)にはレナウン商事とレナウン工業を合併して「株式会社レナウン」を設立し、昭和44年(1969年)に東証一部・大証一部に上場を果たし、レナウンは一流企業の仲間入りを果たした。

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尾上清の生涯-引退

昭和45年(1970年)、尾上清は代表権を持つ会長に就任し、古参の尾上俊郎に社長を任せた。

昭和50年(1975年)には古参の本間良雄を会長に、古参の伊藤安衛(姉・尾上恵美子の夫)を社長に据え、古参メンバーにレナウンを任せると、尾上清は「観客の立場で経営を見る」と言って理事長へと退き、以降はレナウンの経営から身をひいた。

元々、佐々木営業部という社名は、創業者・佐々木八十八が製造部門や加工部門など様々な関連会社を展開するため、まずは営業部が必要ということで「佐々木営業部」と名付けた。

尾上清は、戦後に佐々木営業部を再開して数々の関連企業を作り、創業者・佐々木八十八の夢を実現し、昭和63年(1988年)2月9日に肺炎のために死去した。享年78だった。

尾上清の情報
生年月日明治44年(1911年)5月23日
死去日昭和63年(1988年)2月9日
死去年齢享年78
死因肺炎
尾上設蔵

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