宮崎駿の妻・大田朱美の立志伝

宮崎駿の妻となるアニメーター大田朱美(おおた・あけみ)の立志伝です。

大田朱美の立志伝

大田朱美大田朱美は昭和13年(1938年)1月5日に兵庫県で生まれた。父親は版画家の大田耕士である。

大田朱美は、東京都立豊多摩高校を経て、女子美術大学短期大学部へ進学し、短大を卒業後、東映動画に入社した。

そして、大田朱美は、昭和33年(1958年)公開の日本初長編カラーアニメーション「白蛇伝」で動画を担当し、アニメーターとしてデビューした。

以降、「少年猿飛佐助」「西遊記」「安寿と厨子王丸」「アラビアンナイト・シンドバッドの冒険」などで動画を手がけ、昭和40年(1965年)公開の「ガリバーの宇宙旅行」で原画に昇格した。

大田朱美は、結婚後も仕事を続けるという条件で、昭和40年(1965年)10月に後輩のアニメーター宮崎駿と結婚し、昭和42年(1967年)1月に長男・宮崎吾朗を出産、昭和45年(1970年)4月に次男・宮崎敬介を出産した。

東映動画では、女性は結婚したら辞めなければならないという雇用差別があったが、同僚のアニメーター奥山玲子が結婚・出産後も会社に残ってアニメーターを続けていたので、大田朱美も結婚・出産後も会社に残ってアニメーターを続けた。

そのようななか、夫・宮崎駿が、大塚康生に誘われ、アニメ「長くつ下のピッピ」を手がけるため、昭和46年(1971年)に高畑勲・小田部羊一と共に東映動画を退社して、「Aプロダクション」へと移籍した。

「Aプロダクション」は夜型の職場だったので、朝は早く出社しなくても良かったので、夫・宮崎駿が子供を保育園に送っていたが、迎えは無理なので、夕方は大田朱美が子供を迎えに行っていた。

このとき、子供は大田朱美に手を引かれて、眠りながら歩いていたので、夫・宮崎駿は共働きは無理だと判断して、仕事を辞めるように頼んだ。

夫・宮崎駿は「Aプロダクション」へ移籍して以降、帰りは深夜や朝方だったので、家事や子育ては大田朱美が1人でやっており、大田朱美も家事や育児と仕事の両立は限界に来ていた。

このため、大田朱美は不本意ながら、「ながぐつ三銃士」「魔犬ライナー0011変身せよ!」を最後に、昭和47年(1972年)に東洋動画を退職してアニメーターを引退し、子育てに専念した。

大田朱美の備考

  1. 絵は夫・宮崎駿よりも上手かったと言い、東映動画時代は夫の宮崎駿よりも将来を有望視されていた。
  2. 仕事を辞め無ければならなかったことに不満を持っており、ときどき、思い出しては腹を立てていた。

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