わろてんか-オチャラケ派の実在のモデル

NHKの朝ドラ「わろてんか」に登場する「オチャラケ派」のあらすじや実在のモデルの紹介です。

わろてんか-オチャラケ派のあらすじ

「オチャラケ派」は、僧侶だった寺ギン(兵藤大輝)が、「坊主は死人に念仏を唱えるだけ。生きている奴を救うわないでどうする。念仏より落語を聞いた方が良い」と言って立ち上げた芸能プロダウションである。

「オチャラケ派」は「芸に上も下も無い。安くて面白い芸が良い芸だ」という方針で庶民的な演芸を中心に取りそろえて勢力を拡大し、落語家の喜楽亭文鳥(笹野高史)を筆頭とする「伝統派」と大阪演芸界の覇権を争っていた。

さて、「オチャラケ派」は太夫元・寺ギン(兵動大樹)は、芸を見極める目が大事だと言い、見込みの無い芸人は簡単に切り捨てていた。

ところが、切り捨てられた芸人は、寺ギン(兵動大樹)から借金をしており、借金を返済しなければ、「オチャラケ派」から離れることも出来なかった。

「オチャラケ派」と提携する寄席「風鳥亭」の藤岡てん(葵わかな)は、困っていた芸人を見るに見かねて金を融通してやった。

すると、寺ギン(兵動大樹)は「芸人を引き抜くつもりか」と激怒し、寄席「風鳥亭」を潰しにかかったのである。

藤岡てん(葵わかな)は、入場料を半額にするというアイデアで寄席「風鳥亭」の業績を倍増させ、寄席の数を4店舗まで増やしていたが、寺ギン(兵動大樹)と対立したため、「オチャラケ派」の芸人を派遣してもらえなくなり、倒産の危機へと追い詰められていった。

そこへ、「オチャラケ派」で働いていた武井風太(濱田岳)が、「オチャラケ派」の芸人50人を率いて寄席「風鳥亭」へと駆けつける。

「オチャラケ派」の芸人は、芸人を物としか考えていない寺ギン(兵動大樹)に愛想を尽かしており、人情味のある藤岡てん(葵わかな)の元で働きたいというのだ。

しかし、寺ギン(兵動大樹)は、芸人を借金で縛り付けており、「オチャラケ派」を出て行くなら、借金を返済しろと迫った。

すると、藤岡てん(葵わかな)は、コツコツとため込んでいた多額のヘソクリを持ち出し、税人の借金を全額肩代わりすると宣言した。

それを知った「伝統派」の大看板・喜楽亭文鳥(笹野高史)は、藤岡てん(葵わかな)に感心して、「伝統派」の落語家を寄席「風鳥亭」に出演させることを約束した。

こうして、「オチャラケ派」は消滅し、藤岡てん(葵わかな)に負けた寺ギン(兵藤大輝)は、再び僧侶に戻り、念仏を唱えたのだった。

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オチャラケ派の実在のモデル

朝ドラ「わろてんか」に登場する寺ギン(兵動大樹)の「オチャラケ派」のモデルは、岡田政太郎(風呂マサ)の「反対派」です。

岡田政太郎は養子先が経営していた風呂屋を相続して、風呂屋の経営で成功したとも、株式相場で大儲けしたとも言い、風呂屋を家族に任せて、講談の寄席「梯子亭(はしごてい)」を買い取り、明治43年(1910年)に寄席「富貴亭」の経営を開始した。

しかし、このころ、落語家は寄席「富貴亭」のような三流の寄席には出演してくれなかったことから、岡田政太郎は浪速の落語に反対する「反対派(岡田興行部)」を発足します。

そして、岡田政太郎は「なんでも構わぬ、上手いも下手もない、銭が安うて、無条件に楽しませる演芸」という方針で、B級C級ゴミ芸人をかき集め、芸の技術を競い合う演芸界に「安さ」というビジネス的な概念を持ち込みました。

当時、演芸の中心にあった落語は、日露戦争以降、衰退しており、「反対派」は吉本興行部(吉本興業)と提携して、安くて面白い寄席を作って勢力を拡大していきます。

さて、「わろてんか」の「オチャラケ派」は太夫元・寺ギン(兵動大樹)は芸人を物扱いする悪人として描かれていますが、モデルの岡田政太郎は非常に芸人思いで、芸人や芸人の家族から慕われていました。

岡田政太郎の性格を表す、1番有名なエピソードが、明治7年に米騒動のエピソードです。

明治7年に米騒動が起きた時に芸人が米を買えずに苦しんでいると、岡田政太郎は米を買って、芸人に米を配ったのです。

それ以降、岡田政太郎は入場者1人につき2銭を積み立て、「反対派」の芸人の家に米を支給しており、芸人や芸人の家族からも慕われていたのです。

これに対して、吉本興行の創業者・吉本泰三(吉本吉兵衛)は、野心家でした。

吉本泰三は、「反対派」と提携してともに勢力を拡大してきたのですが、盟友の岡田政太郎が死ぬと、岡田政太郎の「偽の遺言状」を掲げて、「反対派」を乗っ取ってしまったのです。

すると、待遇悪化を懸念した「反対派」の芸人は、吉本泰三にて「10ヶ条の要求」を突きつけてストライキを起こした末、岡田政太郎の次男・岡田政雄を擁立して、京都で「元祖反対派(岡田反対派)」を発足しました。

これを受けて、吉本泰三は「反対派」の権利をタダで手に入れ、「吉本派」を発足して太夫元(興行主)となったのです。

こうして、「吉本派」と「岡田反対派」が対立したのですが、侠客の仲裁により、次男・岡田政雄が全ての権利を吉本興行部(吉本興業)に譲ったので、「元祖反対派(岡田反対派)」は6ヶ月で消滅してしまいました。

その後、「吉本派」は、「花月派」と改称し、大正11年(1922年)に「吉本花月連」となり、落語の「三友派」を下して、大阪の演芸界の覇者となり、吉本王国を築きました。

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