レナウン・サービス・ステーションの立志伝

レナウンサービスステーションは、佐々木営業部(レナウン)が販売部門として設立した「有信実業」の販売店です。

佐々木営業部(レナウン)の設立

佐々木八十八が明治35年(1902年)に繊維・雑貨の卸売業「佐々木営業部(レナウン)」を創業した。

佐々木営業部は、創業から2年後の明治37年(1904年)2月に勃発した日露戦争の特需で売り上げを伸ばしていった。

当初は輸入メリヤスを扱っていたが、輸入品では追いつかなくなり、国産の高級メリヤスを仕入れるようになった。そこで、良い商品名が必要になっていた。

そのようななか、皇太子裕仁親王(昭和天皇)が大正10年(1922年)3月からヨーロッパ外遊を行い、その返礼として翌年の大正11年にイギリスのエドワード・アルバート皇太子が来日する。

このとき、エドワード・アルバート皇太子の御召艦が巡洋戦艦「レナウン」で、水平の帽子に「レナウン」という横文字が入っていた。

西洋好きの佐々木八十八はこれを見て、「レナウン」という横文字を気に入り、「レナウン」を商標にする事を思いつき、佐々木営業部は翌年の大正12年(1923年)に「レナウン」の商標を取得した。

佐々木営業部(レナウン)の消滅

創業者の佐々木八十八は、資本と経営の分離を考えていたので、佐々木営業部を支配人・尾上設蔵に任せて政界へ進出し、大正12年(1923年)に大阪市東区区会議員となり、以降は支配人・尾上設蔵が佐々木営業部を経営した。

その後、佐々木八十八は、互選で多額納税者議員として貴族院議員となり、1931年(昭和6年)8月31日から貴族院が廃止される昭和22年(1947年)5月2日まで貴族院議員を務めた。

一方、支配人・尾上設蔵は関東大震災による経済混乱を逆手にとって、百貨店の信頼を勝ち取り、一気に百貨店との取引を増やし、業績を拡大していった。

佐々木営業所はメリヤス業界のトップに成長し、日中戦争に伴う国策で天津や上海に子会社を設立して海外進出を果たしたが、支配人・尾上設蔵が死去してしまう。

第二次世界大戦中に突入すると、レナウンは敵性語として使用禁止となり、佐々木営業部の製造部門「レナウン・メリヤス工業」は「東京編織」へと改称され、陸軍被服本省の監督工場となり、各地へ疎開して軍事関連衣料の生産を手がけた。

また、佐々木営業部も「佐々木実業」へと改名を余儀なくされたうえ、第二次政界大戦の影響で事実上の事業停止状態となってしまい、国策による企業整理によって、佐々木実業は江商に吸収合併され、消滅した。

佐々木営業部が江商から独立

戦後、支配人・尾上設蔵の長男・尾上清は、復員すると、江商の衣料部長に就任して大阪で活躍していたが、佐々木八十八の依頼を受け、江商から佐々木実業を独立して佐々木営業部を設立した。

さらに、尾上清は佐々木営業部の販売部門として「有信実業」を設立し、大阪・心斎橋のビルを買い取り、ビルの1階に販売店「レナウン・サービス・ステーション」と洋裁教室「田中千代デザインルーム」を開設した。

石津謙介とレナウン・サービス・ステーション

このレナウン・サービス・ステーションの開設には、後にメンズファッションブランド「VAN」を設立して「メンズファッションの神様」と呼ばれるようになる石津謙介が加わっていた。

石津謙介は岡山県の出身で、実家の紙問屋を継いでいたのだが、戦争の影響で紙問屋が実質的な営業停止状態となり、紙問屋を辞めて中国の天津に渡って大川正雄・大川照雄が経営する衣類販売「大川洋行」に入社し、ファッションの世界へ足を踏み入れていた。

大川洋行は天津で有名な販売店に成長していたが、大川正雄・大川照雄・石津謙介は敗戦濃厚と見て大川洋行をカネボウ・サービスステーションに売却し、日本へ引き揚げていた。

尾上清は1度目の召集で天津に派遣されており、佐々木営業部(レナウン)も天津に子会社を設立していた関係で、大川正雄・大川照雄・石津謙介と親しくしていた。

こうした関係で、大川洋行の大川正雄・大川照雄・石津謙介が、佐々木営業部の販売部門「有信実業」の設立に加わり、大川正雄が有信実業の社長を務め、有信実業は販売店「レナウン・サービス・ステーション」を開設した。

田中千代デザインルーム

田中千代は外交官・松井慶四郎の娘として生まれ、双葉高等女学校を卒業後、地理学者・田中薫と結婚し、夫・田中薫のヨーロッパ外遊に付き添い、ヨーロッパへと渡った。

田中千代はデザインの世界に興味は無かったが、ヨーロッパで衣装に興味を持つようなり、ヨーロッパとアメリカでデザインや衣装について学んだ。

夫・田中薫が3年間の外遊を経て神戸へ帰国することになったが、田中千代は日本で着る服が無かったため、アメリカから帰国する船の中で服を縫っていた。

その船に乗り合わせていた鐘淵紡績(カネボウ)の社長・武藤山治の妻・武藤千世子が、懸命に衣装を縫っている田中千代を心配して声を掛けたことが切っ掛けで、田中千代は帰国後、鐘淵紡績(カネボウ)のデザインルームで働くようになった。

田中千代は、生地を買った客から「縫い方が分からない。教えて欲しい」と頼まれた事が切っ掛けで、自宅で洋裁教室「皐会(さつきかい)」を開き、生徒に洋裁を教えるようになった。

そして、尾上清の妹・尾上寿美子が田中千代の洋裁教室「皐会(さつきかい)」に通っており、父・尾上設蔵は尾上寿美子の洋裁を見て、あまりにも本格的だったので驚いて洋裁教室「皐会」を見学した。

すると、洋裁教室「皐会」の生徒が熱心に洋裁をしていたので、父・尾上設蔵は感心し、三越百貨店で皐会の発表会を開催することを勧めた。

これが縁で、皐会は三越百貨店で発表会を開催するようになり、田中千代も佐々木営業部で子供服のデザインを手がけていた。

戦後、尾上清が佐々木営業部(レナウン)を再開すると、田中千代も販売部門「有信実業」に田中千代デザインルームを開するとともに、田中千代は佐々木営業部の主催で日本初となるファッションショーを開催した。

有信実業が神戸へ移転

戦後、復員した坂野通夫は、佐々木八十八と尾上清の勧めを受け、江商から独立した佐々木営業部へと入社していた。

坂野通夫は、佐々木八十八の三女・坂野惇子(佐々木惇子)の夫で、海外勤務を希望して大阪商船(商船三井)に就職していたのだが、大阪商船(商船三井)は第二次世界大戦で船を失っていたため、佐々木八十八と尾上清に勧められて佐々木営業部へ入っていた。

一方、佐々木八十八の三女・坂野惇子(佐々木惇子)は、田村光子らと共に神戸・三宮センター街にある靴屋「モトヤ靴店」の一角を間借りして、子供服店「ベビーショップ・モトヤ」をオープンしていた。

このモトヤ靴店の店主・元田蓮は、モトヤ靴店の南側に隣接する土地に木造店舗を建てて、運動具店に貸していたのだが、運動具店が移転したため、木造店舗は空き店舗となった。

そこで、店主・元田蓮は、この空き店舗を何とかしようと思い、佐々木営業部(レナウン)で働いていた坂野通夫に相談した。

その話を聞いた尾上清は、ファッションショーなどの成功でビルが手狭になっていたこともあり、靴屋「モトヤ靴店」の南側に隣接する空き店舗を壊し、高額を投じて「レナウン・サービス・ステーション」(兵庫県神戸市生田区三宮町2丁目328番地)を建設した。

そして、佐々木営業部の営業部門「有信実業」を神戸のレナウン・サービス・ステーションへと移し、昭和24年(1949年)9月に1階に販売店「レナウン・サービス・ステーション」、2階に「田中千代デザインルーム」を開設した。

有信実業の撤退

神戸のレナウン・サービス・ステーションは、昭和24年(1949年)9月に華々しく開店したが、開店直後に撤退を余儀なくされる。

未だに物資統制下にあり、綿なども配給制だったので、繊維卸の佐々木営業部が小売りに進出する事に対し、大きな反発が出たのである。

こうして、佐々木営業部の販売部門「有信実業」の撤退が決まり、建設したレナウン・サービス・ステーションを誰に譲るかという状況になった。

店舗は佐々木営業部が高額を投じて建設した優良物件だったので、東京からも譲って欲しいと権利金を積む会社まであったという。

ちょうど、このころ、坂野惇子(佐々木惇子)が創業した子供服店「ベビーショップ・モトヤ」は、靴屋「モトヤ靴店」の隣に隣接する3坪ほどの店舗を借り、靴屋「モトヤ靴店」から独立していた。

そこで、坂野通夫は妻の坂野惇子(佐々木惇子)に、レナウン・サービス・ステーションで本格的な商売をする事を勧めた。

佐々木営業部の社長・尾上清は、「佐々木家とは主従の関係にある」と公言し、佐々木家に感謝しており、坂野惇子(佐々木惇子)にも仕事を持つように勧めていたので、坂野惇子(佐々木惇子)が本格的に商売をする事に賛成した。

そして、坂野惇子(佐々木惇子)が建物を取得するために佐々木営業部(レナウン)へ払う建設費用を、社長・尾上清が坂野惇子(佐々木惇子)に出資するという形で負担した。

こうして、坂野惇子(佐々木惇子)は、周囲に支えられてレナウン・サービス・ステーションを取得して、株式会社ファミリアを設立し、昭和25年(1950年)4月12日にレナウン・サービス・ステーションで子供服ブランド店「ファミリア」を創業した。

有信実業の解散後

神戸のレナウン・サービス・ステーションで開業した子供服ブランド店「ファミリア」は、創業してまもなく、阪急百貨店の社長・清水雅に見出されて阪急百貨店と取引を開始。その後、東京へと進出し、やがて皇室御調達の子供服ブランドへと成長する。

一方、有信実業の石津謙介は、有信実業の解散に伴い、佐々木営業部(レナウン)へ移籍。その後、佐々木営業部から独立して、石津商店(バンジャケット)を設立し、メンスファッションブランド「VAN」を発売して、「メンズファッションの神様」と呼ばれるようになる。

他方、田中千代は、有信実業の解散後、ニューヨークでファッションショー「ニューキモノショー」を成功させるなど、デザイナーとして活躍し、皇后陛下(昭和天皇の皇后)の衣装相談役を務め、「皇后様のデザイナー」となった。

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