レナウンの創業者・佐々木八十八の立志伝

子供服ブランド「ファミリア」を創業した坂野惇子の生涯を描く小説「べっぴんさん-坂野惇子の生涯」の登場人物の紹介編「レナウンの創業者・佐々木八十八の生涯」です。

佐々木八十八の概要

佐々木八十八の画像佐々木八十八はレナウンの創業者で、ファミリアの創業者・坂野惇子(佐々木惇子)の父にあたる人物です。

佐々木八十八の生涯

佐々木八十八(ささき・やそはち)は、明治7年(1874年)5月3日に京都府京都市のべっ甲商「和泉屋」で佐々木源三郎(宮原源三郎)の長男として生まれた。八十八夜に生まれたので、「八十八」と名付けられた。

実家の佐々木家は母方の家系で、父・佐々木源三郎(宮原源三郎)は後夫として佐々木家に入った。

母方の佐々木家は近江源氏の流れを汲む鎌倉時代の武将・佐々木高綱(源頼朝の側近)を祖とする名家であり、11代にわたり商家を営む豪商だった。

佐々木八十八は、14歳の時に父・佐々木源三郎(宮原源三郎)が死去したため、舶来雑貨の輸入業を目指して、1890年(明治23年)に大阪の唐物問屋(輸入雑貨販売店)「大由」に就職し、働きながら浪速英学校に通い、漢字や英語を学んだ。

そして、佐々木家を相続するはずの異父兄・佐々木友次郎が死去したため、明治31年年(1898年)に佐々木八十八が佐々木家の家督を相続した。

その後、佐々木八十八は雲川五兵衛の妹・雲川倆子と結婚し、明治35年(1902年)4月に27歳という若さで独立して大阪で繊維・雑貨の卸売業「佐々木営業部」(現在のレナウン/東証一部上場)を創業した。

佐々木営業部という社名は一風変わっているが、佐々木八十八はこの時から既に不動産業などの会社を設立するグループ企業構想を持っており、その中心となる営業部が必要というユニークな発想から「佐々木営業部」と名付けられたものである。

社名がユニークなだけでなく、佐々木八十八は西洋文化を愛していたので、洋館の事務所を開き、番頭にも洋服を着せた。大阪・船場で最初に洋館の事務所を開いたのが、佐々木八十八だったという。

これは、単に西洋文化が好きだったというだけでなく、目立つことによって宣伝効果を狙ったものだという。

さて、佐々木八十八は非常に記憶良く力が良く、先見の明に優れた人物で、日露戦争の特需に便乗してメリヤス業界へと進出し、戦争特需でで業績を伸ばした。

そして、尾上設蔵の才能を見抜き、26歳という若さの尾上設蔵を佐々木営業部を支配人(番頭)に抜擢した。この人事が佐々木営業部を飛躍させることになる。

大正12年9月1日に関東大震災が発生すると、尾上設蔵は船をチャーターして関西の物資を関東へと運び、相当な値段で売りさばいて大儲けした。

さらに、関東の問屋が震災不況の影響で手形取引を中止し、百貨店に現金取引を要求し、関東の百貨店と問屋が対立すると、尾上設蔵は関東の百貨店と手形取引を続けた。

このため、関東の百貨店が一気に佐々木営業部との取引を開始し、佐々木営業部は百貨店向けの繊維問屋としての成長していき、メリヤス業界のトップへと成長することになる。

また、大正11年にイギリスの皇太子エドワードが来日したさい、佐々木八十八は、皇太子エドワードの御召艦「レナウン」に乗っている水兵の帽子に「RENOWN」と書かれたのを観て気に入り、大正12年に「レナウン」という商標を取得する。

この商標の取得に奔走したのも支配人(番頭)・尾上設蔵だった。

その後、佐々木八十八は、大正12年(1923年)に大阪市東区区会議員となり、日本赤十字社の大阪支部事業費として1万円を寄付して、大正14年(1925年)に金杯一組を下賜され、大正15年には紺綬褒章を賜わった。

以降は支配人の尾上設蔵に佐々木営業部(レナウン)の経営を任せ、佐々木八十八は政界へ進する。

佐々木八十八は多額納税者の互選によって多額納税者議員として選出され、貴族院議員となり、会派「同和会」に所属し、1931年(昭和6年)8月31日から貴族院が廃止される昭和22年(1947年)5月2日まで貴族院議員を務めた。

この同和会は、第44代内閣総理大臣・幣原喜重郎の実質的な与党で、佐々木八十八は政治家としても高く評価されており、幣原喜重郎総理から文部大臣への就任を要請されたという逸話も残っている。

(注釈:公文書では貴族院が廃止される昭和22年5月まで貴族院議員として登録されているが、伝記では昭和21年に議員を辞めている。)

戦後-佐々木営業部の再開

佐々木営業部(レナウン)はメリヤス界のトップにまで成長し、戦時中は国策に沿い、海外進出も果たしていたいが、戦争の影響で看板だけとなり、第2次世界大戦中の企業整理によって江商(総合商社「兼松」)に吸収合併されて消滅していた。

しかも、支配人の尾上設蔵が戦時中に病死していた。

戦後、貴族院の解散によって議員の座を退いた佐々木八十八は、支配人の尾上設蔵の長男・尾上清に消滅した佐々木営業部(レナウン)の復活の夢を託した。

そして、意を受けた尾上清が、江商(兼松)から佐々木営業部(レナウン)を独立させ、昭和22年(1947年)9月に佐々木営業部(レナウン)を設立した。

佐々木八十八の死去

佐々木八十八は名前の通りに長生きして、昭和32年(1957年)に83歳で死去した。

佐々木八十八は死際に「カマドの火が燃えている。早く閉めなさい。早く閉めなさい」と言うので、家族が「閉めました」と答えると、安心して永眠した。

葬儀のとき、棺桶を火葬炉に入れたが、火葬炉が燃えているのに、なぜ扉が、なかなか閉まらず、佐々木八十八が死際に言ったことが本当になり、関係者を驚かた。

佐々木八十八の性格

佐々木八十八は、父や異母兄、自身の長女・次男を早くに亡くしていたので、健康に対しては異常なまでに神経質だった。

子供達は、食事は自宅で調理したものしか口にしてはならず、キャラメルなどもアルコールで消毒してから渡された。

佐々木八十八は、三女・坂野惇子(佐々木惇子)を私立の甲南小学校へ入学させたかったが、冬は北風に向かって登校しなければならないため、北風を恐れて甲南小学校へ入学させるのを断念し、自宅近くの魚崎小学校へ入学させた。

さらに、どこへいくにもお伴が付き添ったうえ、風の日や雨の日は、学校を休ませた。

長男・佐々木隆一が子爵の娘を嫁に迎えてからは、神経質な食事については和らいだが、健康については神経質な性格は治らなかった。

兵庫県神戸市住吉の山手に建てた洋館には、まさかに備えて、看護専用の部屋を用意していた。

佐々木八十八の性格2

佐々木八十八は暑がりなうえ、寒がりだったため、夏の暑さを恐れて、部屋のドアを取り外して風通しを良くしたり、洋館の窓に噴水を取り付けたりして、工夫を凝らして暑さ対策をしていた。

また、佐々木八十八は当時では珍しく、非常に民主的な性格だったので、出入りの職人や女中にも家族のように接しており、多くの人から愛された。

佐々木八十八の口癖は「因果応報」で、「贅沢は文化を生むが、浪費は無駄にしか生まない」と言い、贅沢は推奨したが、無駄については厳しく叱った。

佐々木八十八は東京好き

次女・佐々木智恵子は、東京の子爵・三浦義次に嫁いでいたので、東京好きの佐々木八十八は、よく東京の三浦家に滞在した。貴族院議員時代、議会開催中は東京に滞在することはもちろん、議会閉会中も好んで東京に滞在していた。

佐々木八十八は、三女・坂野惇子(佐々木惇子)にも上京を勧めたので、三女・坂野惇子(佐々木惇子)も上京して、東京の三浦家に居候しながら、東京女学館高等科の聴講生となり、2年間を東京で過ごした。

ファミリアへの影響

佐々木八十八が出入りの職人にも親切に対応していたので、佐々木家に出入りしていたモトヤ靴店の店主・元田蓮は佐々木家に感謝していた。

この店主・元田蓮が三女・坂野惇子(佐々木惇子)に手芸店の出店を勧めたことにより、三女・坂野惇子(佐々木惇子)は子供服展「ファミリア」を創業することになる。

佐々木八十八は、佐々木営業部(レナウン)で得た経験から、「小売店をやるのなら、それこそ朝から晩まで泊まり込んで店頭に居なければダメだ。それが出来なければ、他の店には無い、自分の店にしか無い特別な物を作って売りなさい」「他社に売っていない良い商品を作り、商標を大切にするように」と助言した。

佐々木八十八の格言

  1. 因果応報
  2. 贅沢は文化を生むが、浪費は無駄しか生まない

なお、関係者の情報については「小説・べっぴんさん(坂野惇子)-登場人物のまとめ」をご覧ください。

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