佐々木営業部(レナウン)の立志伝

佐々木八十八が創業した佐々木営業部がレナウンとなり、東証1部上場を果たすまでを描いた「佐々木営業部(レナウン)の立志伝」です。

佐々木営業部(レナウン)の立志伝

佐々木営業部(現在のレナウン)は、佐々木八十八が明治35年(1902年)に繊維・雑貨の卸売業として創業した。

佐々木八十八は、明治7年(1874年)5月2日に滋賀県で佐々木源三郎(佐々木家の婿養子・宮原源三郎)の次男として生まれた。

母方の佐々木家は、近江源氏の流れを汲む鎌倉時代の武将・佐々木高綱を祖とする名家で、11代にわたり商家を営む豪商であった。

佐々木八十八は次男だったので、雑貨輸入業を志して私塾で英語などを学び、大阪の唐物問屋(雑貨輸入販売業)「大由」に就職した。

しかし、明治31年(1898年)に佐々木家を相続するはずの異父兄・佐々木友次郎が夭折したため、佐々木八十八が佐々木家の家督を相続し、明治35年(1902年)4月に独立して大阪で繊維・雑貨の卸売業「佐々木営業部」(現在のレナウン/東証一部上場)を創業した。

佐々木営業部-社名の由来

佐々木営業部というのは、少々変わった社名であるが、この社名には佐々木八十八の大いなる野望が秘められている。

佐々木八十八は先見の明に優れた人物で、創業時から既にグループ企業を形成する構想をもっており、製造業・加工業・不動産業などを展開していくためには、まず、その営業部が必要である、という理由で「佐々木営業部」と名付けた。

日露戦争の特需

創業から2年後の明治37年(1904年)2月に日露戦争が勃発する。ロシアは寒いこともあり、日露戦争で防寒シャツなどの需要が増加し、佐々木営業部は防寒シャツなどを中心に日露戦争の特需で売り上げを伸ばしていった。

支配人・尾上設蔵を得る

その後、兵庫県から銀行家を目指して大阪に出てきた尾上設蔵が佐々木営業部に入社する。

尾上設蔵は計算に秀でて聡明だったため、佐々木八十八は尾上設蔵に帝王学を教え、26歳という若さで佐々木営業部の支配人(番頭)に抜擢。以降、尾上設蔵は佐々木八十八の右腕とした活躍する。

レナウンの商標を取得

当初、佐々木営業部は輸入品に頼っていたが、取引が増加すると、輸入品だけでは間に合わなり、次第に国産の高級メリヤスの取扱量が増えていった。

そこで、創業者・佐々木八十八は、国産メリヤスに付ける良いブランド名はないかと考えるようになっていた。

そのようななか、皇太子裕仁親王(昭和天皇)が大正10年(1922年)3月からヨーロッパ外遊を行い、その返礼として翌年の大正11年にイギリスのエドワード・アルバート皇太子が来日する。

このとき、エドワード・アルバート皇太子の御召艦が巡洋戦艦「レナウン」で、水平の帽子に「レナウン」という横文字が入っていた。

西洋好きの佐々木八十八はこれを見て、「レナウン」という横文字を気に入り、「レナウン」を商標にする事を思いついた。

そして、支配人・尾上設蔵が商標の取得に奔走し、佐々木営業部は大正12年(1923年)に「レナウン」の商標を取得することに成功した。

また、エドワード・アルバート皇太子の供奉艦が巡洋艦「ダーバン」だったので、後に佐々木営業部は関連会社「ダーバン」を設立することになる。

取引の拡大

大正7年(1918年)11月に第1次世界大戦が終結すると、戦争特需が無くなり、戦争特需の反動で日本は不況に見舞われた。通称「1920年恐慌」である。

大正12年(1923年)9月、不況の日本に追い打ちを掛けるように、関東大震災が発生する。関東大震災の影響で関東の金融機能が麻痺し、経済は大混乱に陥った。

これまでは手形取引が慣習であったが、手形の決済不能を恐れた問屋は、一方的に手形取引を中止し、百貨店に対して現金取引を要求したため、問屋と百貨店の関係が悪化する。

しかし、支配人・尾上設蔵はこれを好機と見て、従来通りの手形取引を続けたので、問屋に不信感を抱いた百貨店からの注文が殺到し、一気に取引を拡大した。

経済の混乱で手形が不渡りになるというリスクがあったが、尾上設蔵は製材混乱期を乗りきって、百貨店の信頼を勝ち取り、百貨店の復興と共に業績を拡大していった。

経営と資本の分離

一方、創業者・佐々木八十八は、経営と資本の分離するという先進的な考えを持っていたので、佐々木営業部を支配人・尾上設蔵に任せて政界へ進出し、大正12年(1923年)に大阪市東区区会議員となった。

その後、佐々木八十八は1931年(昭和6年)8月31日に貴族院議員になり、貴族院が廃止される昭和22年(1947年)5月2日まで貴族院議員を務めた。

不況の中で飛躍

佐々木営業部は百貨店の復興によって取引量が増加すると、国産のメリヤスを仕入れるだけでは、間に合わなくなってきた。

そこで、昭和元年(1926年)、東京都の目黒で製造部門「レナウン・メリヤス工業(株)」を設立し、高級メリヤスの自社生産を開始する。

関東大震災で発生した莫大な不良債権の影響で、日本は不況に見舞われており、昭和2年(1927年)に東京渡辺銀行が破綻すると、全国的な取り付け騒ぎが起り、昭和金融恐慌(1927年不況)へと突入する。

有名な総合商社「鈴木商店」も、昭和金融恐慌(1927年不況)で資金調達が困難となり、倒産へと追い込まれた。

このころ、メリヤス製造業が大学卒業者を採用するような時代では無かったが、不況の影響で仕事に就けない大学卒業者が溢れており、支配人・尾上設蔵は不況を逆手に取って大学卒業者を採用し、積極的に投資を行った。

こうした不況下に、支配人・尾上設蔵の長男・尾上清のほか、本間良雄・鈴木達雄・尾上俊郎といった後のレナウン最高幹部が入社した。

さて、支配人・尾上設蔵の手腕によって佐々木営業部は不況を乗りきり、昭和6年(1931年)には、東京日本橋に「東京佐々木営業部」を設立する。

さらに、昭和13年(1938年)には東西の会社を統合して大阪で「(株)佐々木営業部」を設立し、名実ともにメリヤス界のトップへと成長し、「むかし舶来、今レナウン」と呼ばれた。

また、佐々木営業部は日中戦争にともなう国策により、天津や上海に子会社を設立して海外進出を果たした。

このようななか、支配人・尾上設蔵は忙しく各地を飛び回っていたが、昭和15年(1940年)に死去した。享年54だった。

佐々木営業部の消滅

昭和16年(1941年)12月8日に日本が真珠湾攻撃を行い、日本は太平洋戦争(第二次世界大戦)へと突入すると敵性語(横文字)が取り締まられるようになる。

このため、レナウン・メリヤス工業は、軍部の命令で社名変更を余儀なくされ、「東京編織」へと改称し、陸軍被服本省の監督工場となり、各地へ疎開して軍事関連衣料の生産を手がけた。

また、佐々木営業部も、「営業部」という言葉にクレームが付き、「佐々木実業」へと改称を余儀なくされた。

やがて、佐々木実業は徴兵などの影響で実質的に機能を停止し、戦時中の国策による企業整理によって、江商(現在の兼松)に吸収合併され、消滅した。

江商からの独立

戦後、支配人・尾上設蔵の長男・尾上清は、復員すると、江商の社長・駒村資正からの要請もあり、江商の衣料部長に復帰した。

しかし、佐々木八十八の頼みを受け、昭和22年(1947年)9月に江商から独立し、「佐々木営業部」を設立した。

尾上清は、佐々木八十八の長男・佐々木隆一を社長にしようと考えたが、このとき、長男・佐々木隆一は事業意欲を喪失していたので社長を断ったという。

(ただし、長男・佐々木隆一は後に佐々木不動産を設立する。)

こうして社長に就いた尾上清は、販売部門となる「有信実業」を設立し、大阪・心斎橋のビルを買い取り、ビルの1階に「レナウン・サービス・ステーション」と「田中千代デザインルーム」を開設した。

戦時中に中国・天津に大川洋行という有名な小売店あり、戦後、天津から引き上げてきた大川洋行の大川正雄・大川照雄・石津謙介がレナウン・サービス・ステーションの設立に加わっていた。

石津謙介は後にメンズファッションブランド「VAN」を創業し、「メンズファッションの神様」と呼ばれる人物である。

一方、田中千代デザインルームの田中千代は、後に皇后陛下の衣装相談役となり「皇后様のデザイナー」と呼ばれるようになるデザイナーである。

実は、佐々木営業部と田中千代とは戦前から関係がある。

長男・尾上清の妹・尾上寿美子が田中千代の洋裁教室「皐会(さつきかい)」に通っており、父・尾上設蔵は尾上寿美子の洋裁があまりにも本格的だったので驚き、田中千代の洋裁教室「皐会」を観に行った。

父・尾上設蔵は洋裁教室「皐会」の生徒があまりにも熱心だったので感心し、三越百貨店で発表会をする事を薦めた。

これが縁で皐会は三越百貨店で発表会を開くようになり、田中千代は佐々木営業部で子供服のデザインを手がけていた。

さて、戦後に大規模な洋裁ブームが起きており、田中千代の提案で、尾上清は大阪の文楽座で戦後初となるファッションショーを開いた。戦後の洋裁ブームも手伝い、戦後初のファッションショーは大成功を治めた。

有信実業の撤退

翌年の昭和23年(1948年)、製造部門「東京編職」は、戦争中に各地へ疎開していた設備を東京に集約して本格的に再開する。

大阪の佐々木営業部は、ファッションショーの大成功や東京編職の再開でビルが手狭になっており、神戸に「レナウンサービスステーション」を建設し、1階の販売部門「有信実業」を神戸へと移すことにした。

実は、販売部門「有信実業」を神戸へ移転するのには、ちょっとした裏話がある。

創業者・佐々木八十八の娘・坂野惇子(佐々木惇子)は、坂野通夫と結婚していた。

坂野通夫は海外勤務を希望して大阪商船(商船三井)に就職していたのだが、大阪商船(商船三井)は第二次世界大戦中に船を失っていたので、海外勤務は望めなくなっていた。

そこで、坂野通夫は佐々木八十八と尾上清の勧めを受け、大阪商船(商船三井)を辞めて、尾上清が再開した佐々木営業部に就職していた。

一方、妻の佐々木惇子(坂野惇子)は、親友の田村江つ子(榎並江つ子)らと共に神戸・三宮センター街にある靴屋「モトヤ靴店」の一角を間借りして、「ベビーショップ・モトヤ」をオープンしていた。

靴屋「モトヤ靴店」の店主・元田蓮は、靴屋「モトヤ靴店」の南側に隣接する木造店舗の家主で、この木造店舗を運動具店に貸していたのだが、運動具店が移転し、空き店舗になってしまったため、坂野通夫に相談していた。

そこで、尾上清はビルが手狭になっていたこともあり、木造店舗を壊して、大金を投じて新しく店舗を建設し、販売部門「有信実業」を神戸へと移して、神戸で「レナウン・サービス・ステーション」と「田中千代デザインルーム」を開設したのである。

ところが、綿が配給制だった時代なので、繊維卸の佐々木営業部が小売りに進出することに対して強い反発があり、神戸に進出した販売部門「有信実業」は撤退を余儀なくされてしまう。

なお、撤退した販売部門「有信実業」の店舗(レナウン・サービス・ステーション)は、佐々木惇子(坂野惇子)が引き継ぎ、子供服ブランド「ファミリア」を創業した。

一方、佐々木営業部の販売部門「有信実業」は解散し、販売部門「有信実業」に居た石津謙介は昭和26年(1951年)に大阪でメンズファッションブランド「石津商店(バンジャケット)」を創業した。

坂野通夫を失う

尾上清は「佐々木営業部(レナウン)は佐々木家からの預かり物」「佐々木家とは主従の関係になる」と公言し、佐々木家に感謝しており、後々は佐々木営業部を佐々木八十八の娘婿・坂野通夫に任せようと考えていた。

しかし、佐々木惇子(坂野惇子)が設立したファミリアで社長を務めてくれていた元田蓮が辞意を漏らし、ファミリアに社長が必要になり、ファミリア創業メンバーから要請されて坂野通夫が社長に就任する事になった。

尾上清は何度も坂野通夫を引き留めようと説得したが、坂野通夫の意思は堅かったため、尾上清も根負けし、佐々木営業部からの出向という扱いにして、坂野通夫をファミリアへと送り出した。

後に、このファミリアは皇室御用達ブランドへと成長する。

佐々木営業部からレナウン商事へ

昭和26年(1951年)に民間放送(民放)が開始されると、尾上清は新聞・週刊誌・ラジオに宣伝を掲載し、「レナウン」をブランド化していった。

昭和27年(1952年)に製造部門「東京編織(株)」を「レナウン工業(株)」へと改称し、昭和30年(1955年)には「(株)佐々木営業部」を「レナウン商事(株)」へと改称した。

さらに、昭和31年(1956年)には、札幌・仙台・名古屋・広島・福岡の全国5カ所に会社を設立した。

創業者・八十八の死

こうして、佐々木営業部がレナウン商事となり、全国展開するなか、創業者・佐々木八十八は昭和32年(1957年)に死去する。享年83だった。

佐々木八十八は死際に「カマドの火が燃えている。早く閉めなさい。早く閉めなさい」と言うので、家族が「閉めました」と答えると、安心して安らかに他界した。

火葬するときに、火葬炉に棺桶を入れて、火葬炉が燃え始めたが、火葬炉の扉がなかなか閉まらず、佐々木八十八が死際に言ったことが本当になったので、関係者を驚かせた。

佐々木営業部が東証1部上場へ

さて、レナウン商事(佐々木営業部)は、関東大震災直後の経済混乱期に関東の百貨店と取引を書く出した経緯もあり、百貨店を主要取引先として成長してきたが、小売店への販売強化を開始する。

昭和34年(1959年)、尾上清は、問屋を通さずに直接小売店と取引するレナウン・チェーンストアを開始し、全国の小売店との取引を拡大していった。

さて、昭和33年(1958年)に皇太子・明仁親王(平成の今上天皇)が正田美智子(皇后・美智子)と婚約。昭和34年4月にご成婚パレードが行われた事を切っ掛けに、全国的にテレビが普及し始めた。

すると、尾上清はテレビの時代が来ると考え、昭和36年(1961年)に小林亜星が作曲を手がけたテレビCM「レナウン・ワンサカ娘」(通称「レナウン娘」)を開始する。

また、尾上清は既成の婦人服が流行することを見越し、昭和36年(1961年)に女性の既製服ブランド「レナウンルック(後のルック)」設立。昭和45年(1970年)には男性の既製服ブランド「ダーバン」を設立した。

昭和38年(1963年)には「レナウン商事」「レナウン工業」が揃って東証2部に上場を果たす。

昭和38年(1963年)、スーパー向けの関連会社「ルノン」を設立する。

昭和43年(1968年)1月に、「レナウン商事」と「レナウン工業」と合併して「(株)レナウン」を設立し、同年4月には女性服チェーン「レリアン」を設立した。
そして、レナウンは数々のグループ企業を形成して、昭和44年(1969年)に東証1部上場・大証1部上場を果たし、名実ともに一流企業の仲間入りを果たした。

創業者・佐々木八十八は、創業時にグループ企業の形勢を夢見て、販売部門・製造部門・不動産部門などを設立するには、それらの「営業部」が必要であるという発想から「佐々木営業部」と名付けた。

創業から68年後、佐々木営業部はレナウンと名を変えてグループ企業を形成し、東証一部上場を果たして一流企業となり、創業者・佐々木八十八の夢が実現したのであった。

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