阪急百貨店の社長・清水雅が東宝の社長になる経緯

朝ドラ「べっぴんさん」のモデルとなる坂野惇子(佐々木惇子)の生涯を描いた「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」の第36話「阪急百貨店の清水雅が社長から東宝の社長になる経緯」です。

これより前の話は、目次「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝の目次」からご覧ください。

阪急百貨店の社長・清水雅が東宝の社長になる経緯

ファミリアが東京に出店した翌年の昭和32年(1956年)1月25日に、阪急電鉄・阪急百貨店・東宝などの創始者・小林一三が死去。さらに、同年10月1日には小林一三の長男で東宝の社長・小林冨佐雄が死去した。

このため、阪急百貨店の社長・清水雅は会長へと退き、東宝の社長に就任するのだが、この経緯を説明にするには少し時間を遡って、東宝の経営悪化から説明しなければならない。

小林一三の公職追放と東宝の経営悪化

昭和25年(1950年)、阪急グループの東宝の経営が悪化していたが、小林一三は公職追放を受けて東宝へいけないので、阪急百貨店の社長・清水雅の社長室を拠点としていた。

清水雅は朝が苦手なので10時半に出勤したいたのだが、清水雅が出勤すると、もう小林一三が出勤していた。

しかし、清水雅は驚いたが、小林一三に気を遣っていては毎日、早起きして出勤しなければならないと思い、小林一三のことを知らんぷりすることにして、毎日、10時半出勤を続けた。

清水雅は10時半出勤については何も言われなかったが、小林一三は東宝の件で非常に機嫌が悪く、清水雅は全く関係の無い東宝の事で小林一三に怒られていた。

さて、経営が悪化している東宝の事で色々なやりとりあがり、東宝の救済策として帝国劇場を分離する案が出た。

阪急系が出資して新会社「株式会社帝国劇場」を設立して、東宝が帝国劇場を新会社社「株式会社帝国劇場」へ譲渡。東宝はその金で事業を整理。東宝の業績が回復したら、株式会社帝国劇場と東宝を合併させるという案である。

この帝国劇場を分離するという案で話が進んだが、問題は新会社「株式会社帝国劇場」の社長を誰にするかであった。公職追放のせいで適当な人物が残っていなかったのだ。

ある日、清水雅が阪急百貨店に出勤すると、阪急グループの重役が揃っており、「新しく作る帝劇の社長が居ないので、百貨店の社長はそのままでよいから、兼任で帝劇の社長を引き受けてくれ」と言われた。

清水雅は断ったのだが、重役連中は清水雅の言葉を無視して「それは良い。それは良い」と言い、小林一三も清水雅が良いと言って聞かない。

清水雅は一貫して百貨店畑を歩き続けており、芸能方面には全く無知だったので、平謝りで断ると、小林一三は「そんなに嫌か。それなら、他にやる者が居るのか」と言いだした。

このとき、小林一三の長男・小林冨佐雄が東京で東京製鐵の社長をしていたので、清水雅が「東京に居る小林冨佐雄に見てもらえば万事、上手く収まると思います」と意見したが、小林一三は「冨佐雄はいかん」と言って語気を強め、終いには「お前達で相談して適当な人物を探してこい」と怒ってしまった。。

その後、阪急電鉄の太田垣が東京へ行って東宝関係者と話し合うと、みんな、小林冨佐雄が適任だと言った。小林冨佐雄も株式会社帝国劇場の社長を引き受けて良いと言っている。

これはどうしても小林一三を説得しなければならないと思い、清水雅と太田垣は小林一三の自宅へ行き、何度も何度も説得すると、終いには小林一三が癇癪を起こし、「好きにしろ」と吐き捨てた。

関係者は小林冨佐雄で意見が一致しており、小林冨佐雄本人も承諾しているし、小林一三も「好きにしろ」と言っているのだから、反対している者は誰も居ないということになる。

そこで、清水雅は「後で私が怒られれば良い」と思い、小林冨佐雄を帝国劇場の社長にして、既成事実を作ってから、小林一三に事後報告することにした。

そして、小林冨佐雄が帝国劇場に社長に就任してから、清水雅が報告に行くと、小林一三は気が変わったのか、怒らなかったが、その代わりに「お前も帝劇へ付いて行け」と言った。

清水雅は芸能系の仕事は苦手だったが、半ば帝国劇場行きを覚悟していたので、小林冨佐雄の手伝いをするために帝国劇場の重役を兼任し、苦手な芸能系の仕事に足を踏み入れることになった。

やがて、秦豊吉の追放が解け、帝国劇場へ復帰したので、秦豊吉が小林冨佐雄の後任として帝国劇場の社長に就任した。清水雅は帝国劇場の重役を兼任を続けた。

一方、小林冨佐雄も公職追放が解け、東宝に復帰。その後、長男・小林冨佐雄に東宝の社長を譲った。

清水雅が東宝の社長に

やがて、東宝の業績が回復し、配当が出来るようになると、当初の予定通り、東宝と帝国劇場を合併した。

帝国劇場の重役を兼任していた清水雅は合併にともない、横滑りする形で東宝の取締役となり、阪急百貨店の社長と東宝の取締役を兼任した。

清水雅が東京の銀座に数寄屋橋阪急をオープンした翌年の昭和32年(1957年)1月25日に、阪急電鉄・阪急百貨店・東宝などの創始者・小林一三が死去。さらに、同年10月1日には東宝の社長を務めていた小林冨佐雄が死去してしまう。

このため、清水雅は、阪急百貨店の社長から会長へと退き、阪急百貨店の社長を野田孝に譲ると、小林冨佐雄の後を継いで東宝の社長へと就任したのである。

こうして、清水雅は東宝の社長となったが、一向に芸能関係には無知だったので、マスコミの質問に、いつも「知らない」と答えていたため、「知らんぷり社長」と呼ばれた。

さて、阪急百貨店では野田孝が2代目の社長になったが、坂野惇子(佐々木惇子)の子供服ブランド「ファミリア」は引き続き阪急百貨店の元で順調に成長していった。

第36話「田中千代が皇后陛下のデザイナーになる経緯」へ続く。

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