清水雅の立志伝

阪急百貨店の初代社長や東宝の社長を務めた清水雅(しみず・まさし)の立志伝です。

清水雅の概要

坂野通夫清水雅は、阪急グループ総帥・小林一三の右腕として活躍し、戦後、阪急百貨店の初代社長を務めた。小林一三と小林冨佐雄の死後、東宝の社長を務め、東宝再建に尽力。その手腕は高く評価された。

清水雅は愛嬌者であり、財界では「阪急のシーさん」「阪急のガーさん」と呼ばれて親しまれたが、マスコミの質問には答えなかったため、マスコミからは「知らんぷり社長」と呼ばれた。

清水家の家系

清水家は阿波国(徳島県)の出身で、清水雅の曾祖父・清水栄蔵が阿波から大阪へ出て砂糖商を始め、清水財閥の基礎を築いた。

そして、清水雅の祖父・清水栄蔵(曾祖父と同姓同名)が、砂糖の中国貿易で財を成し、清水銀行や肥料・鉱山業に進出して清水財閥を発展させた。

祖父・清水栄蔵は莫大な富を築き、堀江川に橋を作り、自分の名前「栄蔵」から阪栄橋と名付けるなどして地元の名士となっていたが、鉱山業を手がけていた関係で、浮き沈みが激しかった。

そして、祖父・清水栄蔵から家督を相続した父・清水栄次郎は、浮き沈みの激しい家業を嫌い、祖父・清水栄蔵が始めた清水銀行や鉱山などを全て売り払い、安全な木材商を始めた。

清水雅の立志伝

清水雅は明治34年(1901年)2月12日に大阪府大阪市で、大阪の実業家・清水栄次郎の次男として生まれた。

父・清水栄次郎は、木材商の他にも手広く商売をしており、阪急鉄道の監査役をはじめ、各企業の要職を務めて実業家として活躍していた。

清水雅の母「清水あい」は、藤林忠太郎の妹である。実家の藤林家は京都で何代も続く名家で、「ぬれがらす」というお歯黒を全国に卸しており、実家・藤林家は裏口から1間半ほどの石畳が内玄関まで30間ばかり続くという豪邸だった。

英語を学ぶ

母「清水あい」が小学校から英語を習わせなければならないと言い、清水雅は小学生の時から、週一回、英語を習っていた。

アメリカ人のウイークリー婦人が自宅にて英語を教えるのだが、清水雅は英語の勉強が嫌で嫌でたまらず、逃げ回っていた。

しかし、母「清水あい」のおかげで、英語がよくでき、天王寺中学でも英語の成績は抜きん出ていた。

貯金に励む

母「清水あい」がもったいない精神の持ち主だった影響で、清水雅は子供の頃から貯金に励んだ。主に継ぎのようにして金を貯めた。

子供の頃に、勝者がコマを貰えるバイという遊びが流行した。清水雅はいつも勝っていたので、勝負で得たコマを負けた者に安く売ると、お金が貯まりはじめた。お金が貯まるのが面白くなり、本格的にお金を貯めるようになった。

番頭がコヨリを仕事で使っていたので、「コヨリを作ったら、いくらで買ってくれる?」と尋ねると、番頭は5銭で買うと言ったので、コヨリを作って番頭に買ってもらった。

母親からバスの定期券を貰っていたが、堀江から天王寺中学まで一里(約3.9km)の距離を毎日歩き、バスの定期券を母親に買い取ってもらった。

貯金と言っても商売で稼いだわけでないが、清水雅は、天王寺中学を卒業するまでに100円を貯め、天王寺中学を卒業すると、貯めた100円を持って慶應義塾大学の予科へ進んだ。

慶應義塾大学時代

母親が下宿を嫌って監督者の居る家に預けなければならないというので、浜田の未亡人の家に世話になったが、他人の家に世話になっていると、遊び回ることができなかった。

そこで、貯めた100円を卒業までに1000円にしようと思っていた清水雅は、英語の翻訳して他の生徒に売り始めた。

しかし、買い手の数が限られているので、たいした儲けにはならかったため、2年生の時に行商を始めた。清水雅は、この行商で初めて商売にかかわることになり、これは大きな進歩だったと述べている。

結局、貯金は1000円に届かなかったが、お金を貯めるのは初めが難しく、後になると楽という事を学んだ。

また、清水雅は木材商をしている父・清水栄次郎の命令で方々の山林の視察や買い付けに行ったほか、山林・株式投資・手形などの知識を学んでいった。

清水雅の遊学

なんとか慶應義塾大学の理財科(経営学部)を卒業した清水雅は、留学することにした。

行き先はアメリカのハーバード大学とドイツの大学があり、両方に問い合わせたところ、先にドイツの大学から返事が来たので。ドイツに留学することにした。

外国留学することを「遊学」と言うが、まさに遊びを学ぶための留学であった。

阪急電鉄に入社

父が阪急電鉄で監査役を務めいた関係で、阪急電鉄の小林一三とも親しかった。このため、遊学から帰国した清水雅は、小林一三から阪急電車に誘われる。

清水雅は銀行に就職が決まっており、銀行の方が給料が良かったが、小林一三の誘いを受けて昭和4年(1929年)に阪急電車に入り、阪急電車の阪急マーケット(阪急百貨店)で百貨店畑を歩むことになる。

イジメの原因は父親

清水雅は阪急百貨店に就職すると、父親が原因で上司に虐められた。

実は、ある人が他社から有能な人材を引き抜き、カンカン帽の会社を設立することになり、父・清水栄次郎に社長就任を要請していた。

しかし、父・清水栄次郎が計算に問題があると言って断ってしまったため、会社設立の話は流れてしまった。

そして、清水雅を虐めている上司は、カンカン帽の会社を設立するために集まったメンバーの1人で、会社を設立する話が流れた事を恨みに思っており、清水雅を虐めていたのである。

ライバル店の近鉄百貨店を作る

父・清水栄次郎が大鉄電車に出資していたので、三井銀行から大鉄電車の整理を頼まれて、父・清水栄次郎は大鉄電車の社長を務めた。

このとき、阪急百貨店で働いていた清水雅は、父・清水栄次郎に百貨店を作る案を提出したのだが、どうやら父・清水栄次郎は興味が無かったらしく、百貨店を作る案は無視されてしまった。

ところが、どういう経緯かは不明ながら、岸本という人が清水雅の案に出資して大鉄百貨店を作った。この大鉄百貨店は後に近鉄電車と合併して近鉄百貨店となった。

商品券で錬金術

百貨店は商品券を発行しており、10円券・20円券・50円券などが販売されていたのだが、阪急百貨店だけは50銭券を販売しており、50銭以下のお釣りは現金でくれた。

そして、当時から金券屋が存在しており、金券屋へ行けば、1割5分引きで阪急百貨店の金券が買え、大口購入ならもう少し安く買えた。

そこで、父・清水栄次郎から金利、金利で追いまくられて鍛えられていた清水雅は、金券屋で安く買った50銭券を使い、阪急百貨店で5銭のコーヒーを飲むと、コーヒー代がタダになるうえ、儲けが出る事に気づいた。

清水雅が阪急百貨店に入社して1年目か2年目のことで、給料が60円だったため、この儲けは大きく、清水雅は大量の金券を買い込み、毎日、阪急百貨店で5銭のコーヒーを飲で儲けを出していた。

清水雅は誰にも言わずに、せっせと金券屋に通っていたのだが、こういう抜け穴は余り長く続くものではなく、1~2年後に、どこからか50銭券の話が社長・小林一三の耳に入り、50円券は廃止されてしまった。

清水雅は、何の迷いも無く50銭券を廃止した社長・小林一三を偉いと思った。

京阪神急行電鉄の誕生と阪神電鉄との合併

昭和18年(1943年)に阪神急行電鉄が京阪電気鉄道を合併し、京阪神急行電鉄が誕生した。

このとき、清水雅は阪神急行電鉄の重役だったが、阪急百貨店業務に専念していたので、鉄道方面には関係していなかった。

また、京阪の百貨店部門は小規模だったので、阪急百貨店に影響は無く、清水雅は合併を単純に喜んでいた。

さて、阪神急行電鉄が京阪電気鉄道と合併してからしばらくすると、清水雅は社長・小林一三から呼び出され、「君はたしか、阪神の今西社長を知っていると聞いた。どういう知り合いなのか」と尋ねられた。

父・清水栄次郎が杉村倉庫の社長代理をしていたとき、今西与三郎は杉村倉庫で支配人をしていた関係で、今西与三郎が毎日のように清水家に出入りしていたため、清水雅は「親しくさせてもらっている」と答えた。

それを聞いた社長・小林一三は、京阪神急行電鉄と阪神電鉄が合併する話が進んでいる事を明かし、清水雅に今西社長から意見を聞いてきて欲しいと頼んだ。

清水雅は鉄道事業の事は全く分からなかったが、これを引き受けて深夜にこっそりと阪神電鉄の社長・今西与三郎の自宅を訪れ、昔話をしながら、合併についての意見を聞いた。

翌日、清水雅が社長・小林一三に報告すると、社長・小林一三は非常に満足そうだった。

その後、京阪神と阪神は、合併に向けて話し合いが進み、調印日まで決まっていたのだが、ある日、清水雅は社長・小林一三から呼び出され、阪神との合併が破談にったことを教えられた。

京阪神急行電鉄は、京阪神急行電鉄の佐藤社長が新会社の社長に就任する事を絶対条件に出していたのだが、阪神電鉄は阪神電鉄の社長・今西与三郎が新会社の社長する事を条件として出してきたため、京阪神と阪神は合併の3日前に合併が破談になってしまったのである。

阪急洋行の撤退

昭和12年に支那事変(日中戦争)が事変が勃発し、日本の占領都市が増えてくると、商工省が百貨店に中国進出を推奨した。

これを受けて、阪急百貨店で事業部長をしていた清水雅は、板垣和雄を連れて中国の天津へとわたり、昭和13年に中国の天津で「阪急洋行」を設立した。

ある日、清水雅は「不思議なことに、上海で外国人がスイスの金貨を買っている」という話を聞き、「スイスの金貨を買えば戦争は終わる」というフランスの諺を思い出した。

阪急洋行は戦争の特需で利益が伸びる一方だったが、清水雅は金貨の話がどうしても気になった。

実は、中国の天津で設立した阪急洋行は、当時の法律的な問題から、現地で資金を調達しており、日本の阪神百貨店が保証人となっていた。

しかし、日本と天津の通貨価値の違いから、もし、天津の阪急洋行に問題が起きれば、日本の阪神百貨店は莫大な額を弁済しなければならなかった。

阪急洋行は儲かる一方で、1年もすれば借り入れは全額返済する事が出来そうだったので、清水雅もなかり迷ったが、万が一が起きても日本の阪神百貨店に負担が及ばないよう、足袋工場の1つを売却して借金を全て返済する事を決めた。

しかし、上司が「どうして、こんなに儲かっているのに売却するのだ」と言って取り合ってくれないため、小林一三に直訴すると、小林一三は「偉いね、お前は」と褒めてくれ、売却に賛成してくれた。

後にも先も、清水雅が小林一三に褒められたのは、これが初めてだった。

それから1年足らずで終戦を迎え、日中戦争の特需が終わってしまったが、中国事業は足袋工場を売却して全て借入金を返済していたので、阪急は保証金問題で苦労しなくて済んだ。

阪急百貨店が独立する

日本の敗戦後、GHQにホイットニーというアメリカ人が居て、ホイットニーが日本の事業関係を担当しており、財閥解体などにあたっていた。

清水雅はアメリカ育ちの知人が居て、その知人宅がホイットニーと知り合いだった関係で、知人宅でホイットニーと会った事がある。

このとき、ホイットニーが仕事を尋ねたので、清水雅が阪急百貨店で働いている事を話すと、財閥解体に関与していたホイットニーは阪急百貨店の事もよく知っており、現在、法律を研究中で、鉄道会社が百貨店を経営できなくなるだろうと教えてくれた。

帰宅した清水雅は、法律が出来てからでは色々と規制されるので、法律が出来るまでに自主的に独立しようと考え、小林一三に相談すると、小林一三も賛成したので、急ピッチで阪急百貨店独立の話し合いを進めた。

清水雅はビルを安く譲ってもらい、完全独立を希望したのだが、小林一三は考えが正反対で、「事業は身軽な方が良い」と言い、金利の事など考えず、家賃だけ払って百貨店事業に専念するように命じた。

清水雅は資産の無い会社は軽々しく思えたので、ビルを譲って貰うように何度も頼んだのだが、小林一三は最期まで応じてくれなかった。

結局、清水雅は自社ビルではなく、賃貸で阪急百貨店を独立させることになったので、ビルの代わりに現金を貯めようと思い、せっせと現金を貯め込んだため、阪急百貨店の事業はほとんど自己資本でまかなえるようになった。

また、小林一三は、阪急百貨店が独立するときに取得した株の一部を社員にも分け与えたので、株が離散してしまい、資本の小さい阪急百貨店は他の資本に狙われれば買収される恐れがあった。

そこで、清水雅は市場で阪急百貨店の株を買い集め、株価100円の阪急百貨店の株を社員に額面の50円で販売し、差額50円は社員へのボーナスとした。

労働組合の幹部が「自分たちの手柄にならない」と言って相当、怒ったが、社員株の販売を2回、3回と続けていった。そして、阪神百貨店の業績も伸びたので、株価も上がり、社員には相当、喜んでもらえた。

このような経緯から、阪急百貨店は社員株の割合が大きかったので、十合百貨店(そごう)が敵対的買収されそうになったときも、阪急百貨店は敵対的買収の心配が無かった。

白木屋買収事件

小林一三の長男・小林冨佐雄が東京で東京製鐵の社長をしていたので、清水雅は東京へ行くと、大阪の状況を報告するため、小林冨佐雄の元を訪れ、小林冨佐雄と一緒に寿司を食べに行っていた。

あるとき、小林冨佐雄が、「白木屋の株が下がっているので、白木屋の株を買い集めて、東京にも百貨店を作ってはどうか」と提案した。

このころ、白木屋の業績が悪化しており、株価は72~73円程度まで下がっていたので、たしかに新たに百貨店を建設するより、白木屋を買収した方が安かった。

清水雅は小林冨佐雄の提案に賛成し、白木屋の株を30%ほど買い集めて阪急から重役を何人か送り込んでおけば、将来、共同仕入れなど面白いことが出来るだろうと考え、大阪へ帰って阪急電鉄の社長・太田垣に相談した。

すると、阪急電鉄の社長・太田垣も賛成したので話がまとまり、東京製鐵の社長・小林冨佐雄に白木屋の株を買い集めてもらう事になった。

急ぐ話でも無いので、目立たないように時間を掛け、社長・小林冨佐雄が少しずつ白木屋の株を買い集めていき、少し株が集まったという時期に、清水雅は何かの用事で小林一三の元を訪れたので、白木屋の件を話した。

すると、小林一三は、みるみる顔色を変えて、「人間はどうする。将来、買収しようと考えているのかどうか。買収するなら人間が大きな問題となる。あそこまでいってるなら、人間は腐っている。ワシならやらん」と告げた。

小林一三は、お金は事業で儲ければ良いと考えており、人の弱みにつけ込んで株で儲けようという気は一切なかったのだ。

清水雅は役員を送り込む考えを小林一三に説明したが、取り付く島も無かったので、阪急電鉄の社長・太田垣に報告すると、太田社長は「オヤジがいうのなら、できないだろう」と言い、結局、白木屋買収の計画は打ち切りとなり、阪急百貨店は白木屋から撤退することになった。

それから1年ほどすると、横井商店の横井英樹が白木屋の買収に乗り出し、さらには東急電鉄の五島慶太が白木屋買収に乗り出したので、白木屋の株価が一気に跳ね上がり、暴騰した。

清水雅は父親に株のことを仕込まれていたので、あの時に株を買って、買収騒動の時に売っておけば、かなりの儲けが出たと残念に思った。

東京進出-東京大井店の出店

阪急電鉄から独立した阪急百貨店は順調に業績を伸ばしていたので、阪急百貨店の社長・清水雅は東京進出を考えていた。

このころ、東京も復興が進んでおり、東京から阪急百貨店を誘致しようという声がいくつかあった。

そうしたなか、昭和28年に鐘淵紡績(カネボウ)の武藤絲治(武藤山治の次男)から小林一三に、国電・大井町駅の前にある鐘淵紡績(カネボウ)のビルを使用してはどうかと打診された。

このころ、東京都品川区大井町は空襲の影響で荒廃しており、鐘淵紡績(カネボウ)のビルも空襲避けの迷彩が塗られたままであった。

しかし、大井町には国電・大井町駅の他にも、東京急行大井線の終点があり、立地条件は良かったので、小林一三がこれに賛成し、阪急百貨店は鐘淵紡績(カネボウ)の提案を受けて東京・大井町に進出する事になった。

清水雅は東京大井店の出店に先だって、アメリカの百貨店を視察し、東京進出にはかなり力を入れ、昭和28年(1953年)11月28日に東京大井店をオープンして関西の百貨店で初の東京進出を果たした。

しかし、大井町は復興とはほど遠いような状況だったので、清水雅は「百貨店はお客様に来てもらう商売で、出かけていく商売ではない。百貨店がいくら努力しても、街が大きくならなければ、百貨店は大きくならない。百貨店はあくまでも街に付随した物である」と考え、大井町に東京一の名物になるようなものを作ろうと考えた。

そこで、阪急百貨店の社長・清水雅は、1年ほど前に九州の福岡県で見た「博多どんたく」のことを思い出した。

前年、阪急百貨店の社長・清水雅は、九州の百貨店組合から講演を頼まれ、福岡県・小倉の井筒屋百貨店で講演をした。

やがて、講演や宴会が終わると、清水雅が帰ろうとしたが、「博多どんた」くが始まっているので「博多どんたく」を見てから大阪に帰れと熱心に勧められたので、福岡県の博多に泊り、博多どんたくを見ることにした。

余り祭りに縁の無い清水雅は、博多どんたくを見て驚き、どうして3日間も街全体が熱狂的になるのかと不思議に思い、色々と話を聞いてみると、その昔、福岡藩・黒田家に偉い家老が居て、その家老が街の声を聞かなければ良い政治はできないと言って、3日間だけ無礼講にして、町人を待ちに入れた、それが「博多どんたく」の由来だと教えてくれた。

東京大井店を出店して、このことを思い出した清水雅は、大井町に東京一の名物になるような物を作ろうと思い、博多どんたくのような祭りやることにした。

本来なら、「博多どんたく」のように町人が踊ったり、歌ったりするのが良いのだが、最初から、そう上手くはいかないだろうと思い、阪急グループの伝で宝田明や東宝の女優を呼んでステージで歌わせた。

こうして、昭和29年(1954年)8月21日・22日の2日間にわたわり阪急百貨店の主催で「第1回・大井どんたく」が開催された。これが「大井どんたく・夏祭り」の始まりである。

やがて、町人がステージにあがるようになり始めたので、清水雅は当初の考え通り、「大井どんたく」の開催から手を引き、運営を大井町に任せた。

小林一三の構想

大阪の阪急百貨店は業績が好調だったので、清水雅は東京進出を考え、小林一三に東京進出を度々、お願いしていた。

すると、ある日、小林一三から「東京・有楽町に高速道路が出来るので、その会社の株を買え」と命じられた。

小林一三は、百貨店の中に高速道路を通過させる構想を持っており、この構想を実現させるには自分自身が指揮を執らなければ、実現しないと考えていた。

そこで、会社の株を買って、自らが重役として乗り込み、百貨店の中に高速道路を通過させる構想を実現させようというのである。

清水雅は言われたとおり、会社の株を買い、小林一三が重役となって、高速道路の計画に加わった。

しかし、東京人は問題を先延ばしにするため、一向にラチが開かず、しばらくすると、小林一三は構想を諦め、清水雅に「もう株を売って良い」と言った。

数寄屋橋阪急の出店

東京から出店の誘いはいくつかあったが、小林一三は百貨店だけではなく、東宝の映画館などを含めた総合レジャー構想をもっていたらしく、小林一三からの許可が出ず、断念するという事が続いた。

さて、このころ、阪急百貨店は東芝からたくさん仕入れていたこともあり、東芝と親しくしていた関係で、ある日、清水雅は東芝の石坂泰三(東芝を再建した社長)と会食した。

この会食で、東芝の石坂泰三が「十合百貨店(そごう)が東芝の数寄屋橋ビル(マツダビル)を狙っているが、十合(そごう)に貸すくらいなら、阪急に貸したい。私もあそこに事務所があるのはどうかと思う」と提案した。

東芝の数寄屋橋ビル(マツダビル)は昭和21年(1946年)9月にGHQに接収され、アメリカ空軍の将校宿舎として使用された後、下士官の宿舎となっており、1階はジャズクラブやダンスバーになっていた。

しかし、昭和27年に日本がサンフランシスコ平和条約に調印してGHQによる統治も終わり、数寄屋橋ビル(マツダビル)は昭和31年(1956年)5月にGHQの接収が解除されることになっていた。

数寄屋橋ビル(マツダビル)は銀座のメインストリートにあり、東芝の石橋秦三は銀座の発展を考え、数寄屋橋ビル(マツダビル)を東芝の事務所として使うよりも、百貨店にしが方が良いと考えていたのである。

それを聞いた清水雅は、小躍りして喜び、「十合(そごう)には完全に断ってください」と頼んだ。

そして、翌日、小林一三に相談すると、小林一三は即答でOKし、東京へ行き、色々と動いてくれた。

清水雅は全館の借り受けを希望したのだが、東芝側の都合もあり、全館を借りる事は無理で、当初の話通り、阪急百貨店は地下3階から地上1階までを借り受けることになった。

しかし、地上1階だけで百貨店をオープンするのは不可能なので、子供服専門のマーケットをやることにして、大阪の阪急百貨店に出店していた坂野惇子の子供服ブランド「ファミリア」に東京出店を要請した。

清水雅は子供服ブランド「ファミリア」に1階の大半を任せようと考えていたのだが、ファミリアは人気ブランドで生産が追いついていない状況だったので、1階の大半という話は丁重に断り、東側の一角を受けもった。

そして、東芝の数寄屋ビル(マツダビル)は昭和31年5月21日に正式に接収解除となり、阪急百貨店は5月23日に東芝と正式な賃貸契約を結び、昭和31年5月29日に数寄屋橋阪急がオープンした。

数寄屋橋阪急の開店準備期間はわずか1週間しかなく、賃貸契約を交わした5月23日の夜から、清水建設が工事を始め、昼夜を問わない突貫工事で、なんとかオープン予定日に間に合わせた。

清水建設が「本来なら2ヶ月の工事です」と驚くほど、前代未聞の突貫工事であったが、昭和31年(1956年)5月に数寄屋橋阪急をオープンすることができ、阪急百貨店は東京の中心部に拠点を作る事が出来た。

髭を生やした理由

清水雅は41歳のとき、散髪屋で髭を剃ってもらったのだが、カミソリ負けで、肌が荒れて口のまわりにブツブツが出来てしまった。マスクをして過ごし、4~5日もすると、意外と髭が伸びていた。

知人から「41歳の前厄がカミソリ負けならいいじゃないか。お前の厄は軽く済むよ」と言われたとき、清水雅は「このまま髭を生やして見た目が老ければ、神様が勘違いをして42歳の本厄と43歳の後厄を見逃してくれるのではないか」という冗談を言った。

ところが、その冗談が本当になり、清水雅は髭を伸ばし初め、43歳の後厄が終われば、髭を剃ることにした。

母親は髭を嫌っていたらしく、「それよりも、高松の仙竜寺へ行って厄払いをしておいで」と言うので、清水雅は忙しい合間を見て、高松の仙竜寺で厄払いをした。

そのおかげか、本厄も後厄も何事も起らず、無事に過ごせたので、決めていた通り、44歳になって髭を剃り、久しぶりに若返ったと自己満足していたのだが、髭を剃ってから、10日ほどして急に熱が出た。

医者は「風邪だろう」というが、清水雅は誰かが「一度伸ばした以上、剃ってはいけない」と言ったのを思い出し、熱が出たのは髭のせいではないかと思い、妻に話してみた。

すると、妻は「髭なんか伸ばすからよ」と言って、髭について初めて不満を漏らしたので、清水雅は妻が髭に不満を持っていたことを初めて知った。

しかし、清水雅はカミソリ負けをして髭を伸ばすようになったのも運命の神様の命じた事だと思い、「山の神(妻)」より「運命の神」ということで、再び髭を伸ばすことを決めた。

新日本放送(NJB)の設立

民間放送が出来る1年前、何かの用事で大阪毎日新聞の本田社長を尋ねたら、本田社長から「東京で民間放送を始める動きがある。全国で一本の会社に統一しようという声もあるが、大阪毎日新聞として、大阪の財界人を動員して独立した放送会社を作りたい。手伝わないか」と持ちかけられた。

それからしばらくして、阪急電鉄の社長・太田垣がやってきて、「清水君、面白い話があるが、どうかね。実は住友から一緒に民間放送会社をやらんかと言ってきてる。アメリカでは非常に成績が良いので、初めは損をしても将来は伸びると思う」と持ちかけられた。

清水雅が太田社長に、大阪毎日新聞の本田社長から民間放送の設立に誘われた件を話すと、太田社長は大阪毎日新聞の件は知らなかった。

どうやら、各会社が個別に民間放送会社の設立を狙って動いていたようだ。

そこで、清水雅が仲介する形で、大阪毎日新聞の本田社長と阪急電鉄の太田社長が合い、大阪毎日新聞・日本電気(住友系)・阪急電鉄の3社で、大阪財界の重鎮・杉道助を社長にして、新日本放送(毎日放送)を設立する事になった。

こうしたいきさつがあったので、阪神百貨店の社長・清水雅も新日本放送(NJB)の重役に加わりった。そして、清水雅の中学時代の親友・高橋信三が大阪毎日新聞から派遣されてきて新日本放送(NJB)を主導した。

清水雅は一貫して百貨店畑を歩んできており、放送のことなど何も知らなかったので、心配して親友・高橋信三に「放送局なんて、本当に大丈夫なのか?」と尋ねたが、高橋信三はニヤニヤするだけで何も答えてくれなかった。

その後、昭和25年(1950年)に新日本放送株式会社(毎日放送)を設立。昭和26年(1951年)9月1日から阪神ビル西館の屋上でラジオ放送を開始した。

東宝の社長になる経緯

戦後、東宝でも労働紛争が起きたうえ、東宝の経営が悪化し、倒産の危機を迎えた。しかも、小林一三は公職追放の影響で行き場を失ったので、阪急百貨店の社長・清水雅の社長室を拠点とした。

阪急百貨店は10時オープンだが、清水雅は朝が苦手だったので10時半に出勤すると、清水雅が出勤すると、いつも小林一三が既に社長室に居た。

清水雅は、小林一三を見て動揺したが、こんなことで気を遣っていたら、毎朝、早朝出勤しなければならないと思い、知らん顔をして、その後も、10時半出勤を続けた。

さて、東宝の方は資金繰りに行き詰まっていたらしく、小林一三が機嫌の良い日はほとんどなく、清水雅は全く関係の無い東宝のことで怒られてしまう始末であった。

そのようななか、東宝の救済策として帝国劇場を分離する案が出た。

阪急系が出資して新会社「株式会社帝国劇場」を設立し、東宝が帝国劇場を新会社社「株式会社帝国劇場」へ譲渡。東宝はその金で税金滞納分などを支払い、色々と整理する。そして、東宝の業績が回復したら、再び東宝と帝国劇場を合併するという案である。

帝国劇場分離案は実現に向けて進んだが、問題は誰を社長にするかということであった。適任者は追放されており、抵当な人物は残っていなかった。

ある日、清水雅が出勤すると、阪急の重役が揃っており、「新しく作る帝劇の社長が居ないので、百貨店の社長はそのままでよいから、兼任で帝劇の社長を引き受けてくれ」と言った。

清水雅は断ったのだが、重役連中は「それは良い。それは良い」と言って清水雅の断りを無視する。小林一三も清水雅が良いと言って聞かない。

清水雅は芸能界の知識が全くなかったので、平謝りで断ると、小林一三は「そんなに嫌か。それなら、他にやる者が居るのか」と怒った。

小林一三の長男・小林冨佐雄が東京で東京製鐵の社長をしていたので、清水雅が「東京に居る小林冨佐雄に見てもらえば万事、上手く収まると思います」と意見したが、小林一三は「冨佐雄はいかん」と言って語気を強め、最期には「お前達で相談して適当な人物を探してこい」と言った。

その後、阪急電鉄の太田垣が東京へ行って東宝関係者と話し合うと、みんな、小林冨佐雄が適任だと、小林冨佐雄を支持した。

これはどうしても小林一三を説得しなければならないと思い、清水雅と太田垣は小林一三の自宅へ行き、何度も何度も説得すると、終いには小林一三が癇癪を起こし「好きにしろ」と吐き捨てた。

関係者は小林冨佐雄で意見が一致しており、小林冨佐雄本人も承諾しているし、小林一三も「好きにしろ」と言っている。

そこで、清水雅は「後で私が怒られれば良い」と思い、小林冨佐雄を帝国劇場の社長にしてしまい、既成事実を作ってから、小林一三に事後報告することにした。

そして、小林冨佐雄が帝国劇場に社長に就任してから、清水雅が報告に行くと、小林一三は気が変わったのか、怒らなかったが、その代わりに「お前も帝劇へ付いて行け」と言った。

清水雅は文化系の仕事は苦手だったが、帝国劇場行きを覚悟していたので、阪急百貨店の社長はそのままで、小林冨佐雄の手伝いをするために帝国劇場の役員を兼任した。

やがて、秦豊吉の追放が解け、帝国劇場へ復帰したので、秦豊吉が小林冨佐雄の後任として帝国劇場の社長に就任した。

その後、帝国劇場が業績が伸び、配当が出来るようになると、当初の予定通り、東宝と帝国劇場を合併することになった。

そして、阪急百貨店の社長と帝国劇場の重役を兼任していた清水雅は、東宝と帝国劇場の合併に伴って、横滑りする形で東宝の取締役となった。

清水雅が東京の銀座に数寄屋橋阪急をオープンした翌年の昭和32年1月25日に、阪急グループの総帥・小林一三が死去。さらに、同年10月1日には東宝の社長を務めていた長男・小林冨佐雄が死去してしまう。

このため、清水雅は、阪急百貨店の社長から会長へと退き、小林冨佐雄の後を継いで東宝の社長へと就任した。

東宝の社長時代

清水雅は、年を取ってから業界のことを勉強しても身につかないので、映画業界の勉強を諦めていた。

本当に何も知らないので、マスコミの質問に対して「知らない」と答えていたら、マスコミから「シランプリ社長」と呼ばれるようになった。

(注釈:時間が無いので、一端中断しております。続きは後日、更新する予定です。)

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