笠置シヅ子が吉本穎右と結婚する実話

ブギの女王となる笠置シヅ子が、吉本興業の御曹司・吉本穎右(えいすけ)と結婚する実話の紹介です。

笠置シヅ子が吉本穎右と結婚する実話

笠置シヅ子(本名は亀井静子)は戦前から「ジャズの女王」として活躍していたが、戦時中のジャズ反対運動の煽りを受けて敵性歌手に指定された。このため、海外の戦地慰問などには参加できず、国内で地方巡業や工場慰問を続けていた。

このようななか、戦時中の昭和16年6月28日、愛知県・名古屋の太陽館に出演していた笠置シヅ子は、名古屋の御園座に出演していた辰巳柳太郎の楽屋へ挨拶に行った。

このとき、辰巳柳太郎の楽屋は女性で一杯だったので、楽屋に入るのをためらう男性が居た。

笠置シヅ子は出入り口に居る男性に気付いたので、中に入るように促そうとしたが、男性が余りにもイケメンだったので、どぎまぎしているうちに、吉本穎右は諦めたのか立ち去ってしまった。

ところが、翌日、笠置シヅ子は宿泊している愛生旅館で、あのイケメンを目撃する。

さらに、その翌日、笠置シヅ子が太陽館の舞台を終えて楽屋でウガイをしていると、吉本興業の名古屋主任・一田治があのイケメンを連れてやって来た。

あのイケメンが笠置シヅ子のファンだといい、一田治に紹介を頼んだのだ。

そして、一田治の紹介により、このイケメンの正体が、吉本興業の創業者「吉本せい」の跡取り息子(次男)にして、吉本興業の御曹司・吉本穎右(よしもと・えいすけ)だと判明する。

実は、笠置シヅ子が宿泊していた愛生旅館は吉本興業が定宿にしている旅館で、吉本穎右も愛生旅館に宿泊していたのだ。

さて、吉本穎右は夏休みで和歌山県の加太へ釣に行く途中に名古屋に立ち寄ったと話すと、笠置シヅ子は神戸の相生座に出演する予定になっていたので、「明日の晩、名古屋を発ちますねん。どうだす。ご一緒に乗りまほか」と誘った。

吉本穎右は照れて、ハッキリした答えを言わないうちに、笠置シヅ子の出番が来たので、「神戸に出られているうちに、1度お尋ねします」と言って帰っていった。

翌日の夜、笠置シヅ子は神戸に向かうため、名古屋駅に行くと、開札のところで、名古屋花月劇場の支配人に会った。支配人は吉本穎右を見送りに来たのだという。

このとき、笠置シヅ子は荷物を運ぶのに困っていたので、支配人に吉本穎右を呼んでくるように頼むが、支配人は「冗談じゃ無い。僕の口からそんなことが言えるもんですか」と拒否した。

しかし、笠置シヅ子が「ボンとはもう約束済みだんねん」と言い、無理強いすると、支配人は渋々、既に汽車に乗っていた吉本穎右を呼びに行った。

やってきた吉本穎右は「やっぱり、道連れさせてもらおうと思い、この汽車にしました。もうアンタの席は取ってある」と言い、荷物を運んだ。

こうして、汽車に一緒に乗った2人は、色々な話をした。吉本穎右は吉本興業の後継者だけあって芸人や役者との交友も広く、鋭い洞察力を持っており、笠置シヅ子も感心した。

さて、吉本穎右は和歌山県の加太に釣に行く予定だったが、荷物を下ろすのが大変だろうと言い、神戸まで一緒に汽車に乗り、笠置シヅ子を下ろしてから、大阪へと戻った。

やがて、2人が東京に戻ると、お互いに家を行き来する間柄になっていたが、笠置シヅ子の方が9歳も上だったこともあり、2人とも恋愛感情は無く、姉と弟という感じだった。

しかし、それは、やがて、恋愛感情へと変わり、名古屋での出会いから1年半後の昭和19年の暮れに相思相愛になって結ばれ、結婚を誓い合った。

さて、昭和20年5月25日の東京大空襲で、2人ともそれぞれの自宅を焼失してしまう。

吉本穎右の叔父にあたる吉本興業の東京支配人・林弘高が、自宅の隣にあったフランス人・オダンの家を借りて、空襲で被災した関係者を受け入れた。

自宅を焼失した笠置シヅ子は、京都に疎開する予定だったのだが、林弘高が誘ってくれたので、言葉に甘えて林家の隣にあるフランス人宅へと移った。

吉本穎右も自宅を空襲で焼失して、フランス人宅の2階に移っていたので、2人は初めて同棲することになり、幸せな時間を過ごした。ただし、2人切りでは無く、身内や関係者何人かが同居している。

やがて、2人の関係は吉本興業の林弘高の知るところになったようで、笠置シヅ子は正式に結婚の話を持ち出すまでは大人しくしていた方が良いと思い、終戦後の昭和20年12月にフランス人宅を出た。

一方、吉本穎右は早稲田大学を中退して、吉本興業の東京支店で働き始めていた。これは結婚への足場固めだったようだ。

そのようななか、昭和21年の春になると、大阪の吉本興行から大阪に戻ってくるように強く要請してきた。

吉本穎右は、迷っていたが、ようやく、大阪へ帰ることを決め、笠置シヅ子と箱根温泉旅行をした後、大阪へと戻った。このとき、笠置シヅ子は吉本穎右を琵琶湖まで送り、琵琶湖の宿で別れた。

琵琶湖から戻った笠置シヅ子は、体調の変化に気付いて桜井産婦人科病院を訪れ、昭和21年10月に妊娠3ヶ月と判明したのだった。

さて、子供が生まれるとなると、籍の問題が発生するため、桜井産婦人科病院の桜井医師は、人を立てて吉本家と交渉するように勧めた。

吉本穎右は結婚が許されなければ、家出をしてでも結婚すると言っていたが、笠置シヅ子は老い先短い吉本せいを苦しめるのを悪いと思い、駆け落ちは避けなければならないと考えていた。

マネージャーの山内義富に相談すると、山内義富は「手紙では要領を得ないので、直接会って相談しなければならない」と助言したので、笠置シヅ子は山内義富の助言に従い、大阪へ行く事にした。

ちょうど、関西での仕事が入ったので、笠置シヅ子は仕事を利用して、吉本穎右と会って籍の問題を相談した。

吉本穎右は、「僕が頑張れば、家出を恐れて結婚を認めてくれるだろうが、そんな割り切れない気持ちで入籍しても、かえって破綻を招く恐れがある」と言い、外堀を埋めながら、条件が整ったところで、結婚を切りすと言った。

このとき、大阪の実家・吉本家は戦後の財産税を申告するために財産整理をしており、少しごたついていたので、吉本穎右は財産整理が終わって吉本家が落ち着いてから、結婚を切り出すことにした。

そして、吉本穎右は子供が生まれ次第、子供を認知して吉本の籍に入れ、笠置シヅ子との入籍は急がずに吉本家の理解を得てから、入籍することを約束した。

さて、東京に残った笠置シヅ子は、妊娠6ヶ月で大きなお腹をしていたが、桜井産婦人科病院の桜井医師の助言もあり、昭和22年(1947年)1月19日の舞台「ジャズカルメン」に出演した。

そして、笠置シヅ子は、吉本穎右から舞台を降りて欲しいと頼まれていたので、「ジャズカルメン」が終わると、芸能界を引退し、一緒に暮らす新居を購入した。

ところで、吉本穎右は、「ジャズカルメン」の公演中に上京する予定になっていたのだが、結核を悪化させたため、上京できなくなっていた。

笠置シヅ子は心配で大阪に行こうとしたが、お腹も大きかったことから、桜井医師やマネージャーの山内義富に止められ、大阪行きを思い止まる。

そして、大阪行きを思い留まったことを伝えると、吉本穎右から「来るには及ばない。良い子を産んでくれ。早く子供を見に行けるように養生するから」という返事が来た。

しかし、吉本穎右の様態は日に日に悪化していき、ついには危篤状態に陥ってしまう。

吉本興業の林正之助は、船をチャーターして笠置シヅ子を呼び寄せようとしたが、吉本穎右が身重では大変だと気づかって断った。

しかし、吉本興業の林弘高は、昭和22年5月18日、東宝の杉原貞雄を通じて、笠置シヅ子に「見舞いに行くかどうかは、そちらの判断に任せる。知らせるには忍びないが、後で怨まれると困るから、お知らせだけしておく」と、吉本穎右の危篤を知らせた。

笠置シヅ子がその伝言を聞いたのが5月18日の夜で、吉本穎右は翌日の昭和22年5月19日に死去した。

そして、笠置シヅ子は、翌日の昭和22年5月20日にマネージャーの山内義富から、吉本穎右が危篤になってから死ぬまでの経緯を聞かされたのだった。

それから3日後の5月23日に吉本興業の営業部長・前田米一が病院に来た。前田米一は大卒のインテリで、吉本穎右の家庭教師を務め、吉本穎右から全幅の信頼を得ていた人物である。

前田米一は、吉本穎右が死ぬ2~3日前に笠置シヅ子へ渡して欲しいと頼まれたと言い、包みを差し出した。

笠置シヅ子が包みを開けると、通帳と印鑑が入っていた。吉本穎右が子供の為に給料から貯金していたのだという。

そして、前田米一は「通帳の名義を見てみなはれ。『吉本静男』となってますやろ。男の子なら『静男』、女の子なら『エイ子』と名付けるのが、ご遺言だす」と告げた。

吉本穎右は、男の子は母親に似れば幸せになり、女の子は父親に似た方が幸せになれると聞いたので、男の子なら笠置シヅ子の本名「亀井静子」の「静」の1字を取って「静男」、女の子なら吉本穎右(えいすけ)の「えい」を取って「エイ子」と決めたのだという。

それを聞いた笠置シヅ子は、生まれてくる子供の名前が入った通帳を抱きしめて泣いた。

もうすぐ出産が迫っているのだから、同じ死ぬにしても、せめて子供の顔を見せてやりたかった。神も仏も無いとは、とはこのことかと、悔しがった。

さて、笠置シヅ子は、出産が迫ると、吉本穎右に死なれ、身内が誰一人居ないという状況で初めての出産に望むことを不安に思った。

吉本穎右が身につけていた物は浴衣と丹前しか残っていなかったので、浴衣と丹前を取ってきてもらい、握りしめながら子供を出産した。その効果があったのか、安産だった。

そして、生まれたのが女の子だったので、遺言に従い、「亀井エイ子」と名付けたのだった(注釈:笠置シヅ子の本名は「亀井静子」)。

その後、東京吉本の林弘高が見舞いに来て、亀井エイ子を引き取ると申し出たが、笠置シヅ子は断り、亀井エイ子を養うために、作詞家・服部良一に新曲を頼み、出産から3ヶ月後の昭和22年(1947年)9月10日に「東京ブギウギ」のレコーディングを行い、歌手として復帰した。

そして、昭和22年(1947年)9月に大阪の梅田劇場に出演した時を利用し、亀井エイ子を連れて、甲子園の吉本家を訪れ、吉本穎右の母・吉本せいに会った。笠置シヅ子が吉本せいに会うのは、これが初めてである。

通説では、吉本せいは2人の結婚を最後まで頑なに反対したと言われるが、色々な資料を見てみると、吉本せいは笠置シヅ子の妊娠を切っ掛けに態度を軟化させ、芸能界からの引退を条件に結婚を容認していたようである。

娘の亀井エイ子も「(父と母は)結婚はしたものの、せいさんを始めとする周囲の人たちには認められず、末入籍のままでした。しばらくして、私がお腹の中にいることがわかり、母は主婦に専念するということで、晴れて正式の夫婦として認めていただける、ということになりました」と証言している。

さて、笠置シヅ子が亀井エイ子を連れて甲子園の吉本邸を訪れると、吉本せいは「穎右がこの世に残して行った一番、大きな置き土産だすよって、大切にしてやっておくんなはれ」「この子のために、みなで、あんじようしましょう」と言い、笠置シヅ子に労りの言葉を書けた。

吉本せいも夫に先立たれ、子供4人を抱えながら、吉本興業を切り盛りしてきた経験があり、笠置シヅ子の立場がよく理解できたのだろう。

吉本せいは、「アンタも難儀なことやな。この先、この子を抱えて舞台に立たなならん。なんやったら、ワテが預かってあげてもよろしいがな」と言い、亀井エイ子を引き取りたいと申し出た。

しかし、その後、マネージャーの山内義富や吉本興業の前田米一に戸籍の問題について調べてもらうと、戦後の新憲法でも、認知するべき父親が死んでいると、入籍は難しいという事だった。

裁判を起こせば、可能かも知れないが、裁判を起こして入籍できたとしても、新判例になるので、新聞などに取り上げられるて世間を騒がせる。そうなれば吉本家の親族も迷惑するだろうから、笠置シヅ子は戸籍の問題を断念した。

そして、笠置シヅ子は自分が生まれて間もなく養子に出され、本当の両親を知らずに育った事から、娘の亀井エイ子に同じ思いをさせたくないと思い、亀井エイ子を自分で育てることにした。

そして、笠置シヅ子は乳飲み子の亀井エイ子を抱えてステージを飛び回り、ブギの女王として、スターダムを歩んでいくのだった。

そのようななか、娘の亀井エイ子に殺人予告が届くのであった。「笠置シヅ子の娘・亀井エイ子に殺害予告事件」へ続く。

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