清水雅が東芝・石坂泰三の要請で数寄屋橋阪急を出店

朝ドラ「べっぴんさん」のモデルとなる坂野惇子(佐々木惇子)の生涯を描いた「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」の第34話「清水雅が東芝・石坂泰三の要請で数寄屋橋阪急を出店」です。

これより前の話は、目次「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝の目次」からご覧ください。

ブリジストンビルを狙う清水雅

阪急百貨店の社長・清水雅は、東京大井店をオープンして東京進出を果たして以降も、東京の拠点となるような百貨店を作るため、熱心に土地を物色していた。

ちょうど、このころ、戦争で社屋を失い仮事務所で営業を続けていたブリジストンが、東京の京橋に地上9階建て、当時の最高層ビルを建設する計画を立てていた。

阪急百貨店の社長・清水雅は、ブリジストンの社長・石橋家と親戚関係にあったので、ブリジストンビルの建設計画を入手し、ブリジストンからブリジストンビルの1階を賃貸する約束を取り付ける事に成功した。

ところが、阪急グループ総帥・小林一三に報告すると、小林一三が「そんなものを作ってどうなる。せいぜい、権利料の値上がりで儲けるくらいが関の山だ」と言って賛成しなかったので、清水雅はブリジストンに頭を下げて、約束を無かったことにしてもらった。

その後も、清水雅は何度も小林一三に東京店の出店をお願いしたのだが、小林一三は地域一帯を含めて開発する壮大な構想をもっていたので、なかなか条件が合わず、候補地が現れては消え、現れては消え、という状態であった。

そのようななか、東芝の社長・石坂泰三(東芝を再建した社長)が清水雅に阪急百貨店の銀座進出を打診した。

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東芝の社長・石坂泰三からの要請

ある日、阪急百貨店の社長・清水雅は、京都の料亭に招かれて、東芝の社長・石坂泰三と会食した。このとき、石橋秦三から思わぬ提案があった。

「十合(そごう)が東芝の数寄屋橋ビル(マツダビル)に触手を伸ばしているのだが、十合(そごう)に貸すくらいなら、阪急に貸したい」

東芝の数寄屋橋ビル(マツダビル)は昭和21年(1946年)9月にGHQに接収され、アメリカ空軍の将校宿舎として使用された後、下士官の宿舎となっており、1階はジャズクラブやダンスバーになっていたが、昭和31年(1956年)5月にGHQの接収が解除される予定になっていた。

しかし、東芝の社長・石橋秦三は、銀座の一等地を会社の事務所に使っては銀座の発展にならないと考えていた。

これを察知した百貨店の十合(そごう)が銀座進出を狙って、東芝の数寄屋橋ビル(マツダビル)に触手を伸ばしていたのだが、東芝の社長・石坂泰三としては十合百貨店(そごう)ではなく、阪急百貨店に貸したいというのである。

清水雅は全館を借りたかったが、東芝側の事情で全館は借りられず、地下3階から地上1階を借り受ける事になった。

さらに、清水雅は東芝の社長・石坂泰三から、東芝が新しくビルを建てた暁には、阪急百貨店が数寄屋橋ビル全館を借り入れるという約束を取り付ける事に成功した。

東京店出店の話が一気に進展したため、小躍りして喜んだ清水雅は、翌日、小林一三に報告すると、小林一三も即答でOKしたので、正式に東芝の数寄屋ビル(マツダビル)を賃貸する事が決まった。

さて、阪急百貨店が東京・数寄屋ビルに数寄屋橋阪急を出店することになったが、地下は食品売り場にするとしても、地上1階だけでは「百貨店」をやるのは不可能だった。

そこで、清水雅は、地上1階で子供服専門の百貨店を開くことに決め、坂野惇子の子供服ブランド「ファミリア」に数寄屋橋阪急への出店を要請したのである。

35話「坂野通夫の社長就任とファミリアが数寄屋橋阪急へ出店」へ続く。

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