岡本太郎が「太陽の塔」と命名した理由と由来

芸術家の岡本太郎が「太陽の塔」と命名した経緯と理由を紹介します。

岡本太郎が「太陽の塔」と命名した理由

昭和45年(1970年)に大阪で日本万国博覧会(大阪万博)が開催されることになり、昭和40年10月に「日本万国博覧会協会」が発足したが、テーマ館のプロデューサーの人選に揉めに揉めて決まらなかった。

このため、日本万国博覧会は昭和42年(1967年)に、岡本太郎にテーマ館のプロデューサーを引き受けて欲しいと頼んだ。

岡本太郎は、「僕は一匹狼だ。組織の中では仕事が出来ない」と言い、断ったが、日本万国博覧会協会は「他に頼める人が居ない」と言い、何度も頼みに来た。

日本万国博覧会については、日米安保協定の改定から国民の目をそらすためのイベントという批判があり、学生運動が美術界へと飛び火して、反博運動が起きており、岡本太郎の周りの人は断るべきだと反対した。

しかし、それが岡本太郎の反骨イズムに火を付けてしまい、岡本太郎はプロデューサーを引き受けることにして、中南米の取材から戻ったら、正式に返事をすることにした。

ところが、日本万国博覧会協会は、もう断らないだろうと思い、岡本太郎が引き受けたという感じの発表をしてしまった。

こうして、テーマ館のプロデューサーを引き受けた岡本太郎は、俺は日本万国博覧会の「進歩と調和」というテーマに反対していると言い、「太陽の塔」を企画した。

頭の固い役人が、こんな企画を通すはずがなく、日本万国博覧会協会から反対の声があがったが、日本万国博覧会協会の会長・石坂泰三の鶴の一声で企画が認められた。

こうして、「太陽の塔」が制作されることとなり、岡本太郎は模型を作って建築家と打ち合わせをするようになるのだが、まだ名前が付いていなかったので、建築家らが便器上、「太郎の塔」と呼ぶようになった。

インテリやマスコミは、国の金を使って岡本太郎の作品を作る事に対して批判的だったので、名前まで「太郎の塔」では炎上することは明らかだった。

そこで、岡本太郎は余計な批判を避けるため、とっさに「太陽の塔」と命名した。これが「太陽の塔」と名付けた由来である。

なお、岡本太郎の生涯については「岡本太郎の立志伝」をご覧ください。

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