わろてんか-武井風太(濱田岳)の実在のモデル

NHKの朝ドラ「わろてんか」に登場する武井風太(濱田岳)の実在のモデルを紹介します。

武井風太(濱田岳)のあらすじとネタバレ

武井風太(濱田岳)は、藤岡てん(葵わかな)の従兄で、薬問屋「藤岡屋」で使用人として働いていた。

武井風太(濱田岳)は、幼い頃から藤岡てん(葵わかな)と一緒に育ったので、まるで兄弟のような感じだったが、密かに藤岡てん(葵わかな)のことを好きになっており、命を賭けて藤岡てん(葵わかな)を守ることを決意したのだった。

武井風太(濱田岳)の実在のモデル

事前情報だけでは、モデルの特定が難しいのですが、武井風太(濱田岳)の実在のモデルは、吉本せい(林せい)の実弟・林正之助だと考えられます。

林正之助は、林豊次郎の3男で、吉本せい(林せい)の10歳年下の弟である。

林正之助は、北野中学校の受験に失敗して、長姉「林きく(白井きく)」夫婦が経営する兵庫県明石市の太物屋「紀伊國屋」に奉公へ出て、女工や女郎を相手にモスリンなどを販売し、男性としての喜びに目覚める。

そして、林正之助が奉公が開けて実家の林家に戻ってきたとき、吉本せい(林せい)と吉本泰三(吉本吉兵衛)夫婦に呼ばれ、半強制的に吉本興行部(吉本興業)で働く事になった。

初めは下足番で、直ぐに「総監督」という役職を与えられたが、仕事内容は雑用で、自転車で小屋を廻って従業員を叱咤したり、集金したり、ヤクザとのトラブル解決をさせられたりした。

そうした一方で、林正之助は、舞台の下から芸人をライトアップする演出を考案したり、事業提携している反対派(岡田興行部)の乗っ取りを提案したり、多彩な才能を発揮した。

林正之助の活躍も有り、吉本興行部(吉本興業)は事業提携している反対派(岡田興行部)を乗っ取り、一気に勢力を拡大し、さらには、「桂派」「三友派」と言ったライバルを飲み込み、大正11年(1922年)に大阪の演芸界を制覇して吉本王国を築いた。

しかし、その矢先に創業者・吉本泰三(吉本吉兵衛)が死去してしまい、吉本興行部(吉本興業)の運命は泰三の妻・吉本せい(林せい)にかかってきた。

林正之助は、吉本せい(林せい)から吉本興業の運営を任され、吉本せい(林せい)の為に奔走し、汚れ役に徹した。

林正之助が芸人を怒ると、吉本せい(林せい)が後で芸人に謝罪し、そっとお金を握らせてやるのである。

そのようななか、演芸の中心にあった落語が衰退の一途をたどっており、吉本興業は落語に変わる演芸の発掘を迫られる。

吉本せい(林せい)は、三流の寄席で流行し始めていた安来節に着目しており、林正之助は吉本せい(林せい)の命令で島根県へ行き、オーディションを開催して安来節の新人をスカウトして、大阪へと送った。

そうした一方で、林正之助は、落語に変わる演芸として、三流の寄席で流行っていた「万歳」(後の漫才)を発掘し、万歳を育てた。

さらに、林正之助は、花菱アチャコ横山エンタツをスカウトして「エンタツ・アチャコ」を結成さえたほか、ミスワカナをスカウトして漫才を繁栄させた。

やがて、昭和不況によって景気が悪くとなると、林正之助は、みんなの反対を押し切って、入場料10銭で漫才が見られる「10銭漫才」を断行し、成功させた。

これがきっかけで、10銭で食べたり、買えたりできる「10銭○○」が流行し、「テン銭ブーム」が起きた。

そして、戦争が始まると、林正之助は、朝日新聞と提携して戦地慰問団「わらわし隊」を派遣した。

その後、林正之助は、阪急グループの総帥・小林一三に招かれて、東京宝塚劇場(東宝)の取締役に就任したことから、東宝と松竹の争いに巻込まれる。

松竹は、東宝と吉本興業が関係を深めたことに危機感を覚え、松竹系の新興キネマに演芸部を設立し、莫大な資金力を背景に吉本興業からミスワカナら漫才コンビを引き抜いて、演芸界に進出したのである。

林正之助はミスワカナなど大物漫才コンビを引き抜かれてしまうが、花菱アチャコの流出を阻止して、被害を最小限に抑えて迎え撃ち、演芸での争いで新興キネマ演芸部を撃沈した。

こうして、吉本興業は新興キネマ演芸部との争いに勝利したが、結局は大阪大空襲で全て寄席を失ってしまう。

寄席を失った林正之助は、戦後、芸人の借金を退職金代わりに棒引きして、全ての芸人を解雇し、演芸を捨てた。

ただ、花菱アチャコだけは頑として首を縦に振らず、どこにも行くところが無いので残して欲しいと懇願し、吉本興業に残った。

そして、演芸を捨てた吉本興業は、映画館の経営とアメリカ将校用のキャバレー「グランド京都」の経営で戦後の復興を果たした。

林正之助は、吉本興業の経営を任されているだけで、吉本興業の後継者は吉本せい(林せい)の次男・吉本穎右(吉本泰典)だったが、次男・吉本穎右(吉本泰典)は結核で死去し、吉本せい(林せい)の男系は途絶えてしまう。

このため、昭和23年(1948年)1月に吉本興行株式会社へと改組したとき、吉本せい(林せい)が代表権の無い会長へと退き、林正之助が社長に就任し、名実ともに吉本興業の経営権は林正之助に託された。

その後、テレビの登場で映画業界が下火になっていくと、林正之助は演芸復帰派に押し切られ、昭和34年(1959年)3月1日の民放テレビ局「毎日放送」の開局に合せて、「うめだ花月」を劇場へと変えて、演芸に復帰し、「吉本ヴァラエティ(後の吉本新喜劇)」を開始した。

しかし、松竹や東宝が既に演芸界に進出しており、吉本興業の演芸部門は長らく苦しむことになる。

そのようななか、林正之助は、膀胱炎で入院するため、昭和38年(1963年)に吉本興業の社長を弟・林弘高に譲ったが、弟・林弘高が不採算部門の演芸を軽視したため、林正之助は激怒して社長への復帰を目指した。

林弘高が脳軟化症で倒れ、社長を退任する事になったが、林正之助は昭和43年(1968年)1月にマーキュリーレコード乗っ取り事件で兵庫県警に逮捕されており、直ぐには社長に復帰できず、昭和45年(1970年)になって吉本興業の社長に復帰した。

その後、林正之助は、昭和48年(1973年)に社長を退いたが、昭和61年(1986年)に三度目の社長に復帰した。

この間に空前絶後の漫才ブームが到来しており、吉本興業は漫才ブームとテレビのバラエティー番組の需要によって演芸部門を立て直し、松竹などを抜いて再び演芸界のトップに返り咲いた。

こうして、林正之助は長きに亘り吉本興業を支配し、演芸界のドンとして君臨したが、平成3年(1991年)4月24日に心不全で死去した。享年93だった。

なお、朝ドラ「わろてんか」の登場人物のモデル一覧については、「わろてんか-登場人物の実在モデル」をご覧ください。

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