田村枝津子(田村江つ子)の立志伝

ファミリアの創業者・坂野惇子の生涯を描く小説「べっぴんさん-坂野惇子の生涯」の登場人物の紹介編「田村枝津子(たむら・えつこ)の立志伝」です。

田村枝津子(田村江つ子)はファミリアの創業メンバーの1人で、主にファミリアの手芸部門を担当し、付加価値の高い手芸商品を世に送り続けた人物です。

田村枝津子(田村江つ子)の生涯

田村枝津子(田村江つ子)の画像田村枝津子(田村江つ子)は大正8年(1919年)2月に、兵庫県神戸市須磨区で、榎並充造の次女として生まれた。旧姓は榎並枝津子(榎並江つ子)である。

榎並家は兵庫県神戸市で質屋を営む旧家で、父・榎並充造は阪東式調帯合資会社(東証一部上場「バンドー化学」)や内外護謨合資会社(非上場の「内外ゴム」)などを創業し、神戸のゴム産業の基礎を築いた。

母「榎並てる」は、男は外で働き、女は家を守るものと考えてり、娘を箱入り娘として育てるという明治時代の実業家の典型的な考えをもった女性だった。

父・榎並充造は安岡正篤を尊敬しており、いつでもメモできるようにノートと鉛筆を枕元に置き、夜中でも電気を付けてメモを取るので、母「榎並てる」は眠れないと言って不満を漏らしていた。

このため、父・榎並充造は田村枝津子(田村江つ子)に「どこでも、どんな環境でも眠れるようにならなければならない」と教えた。

父と映画の思い出

田村枝津子(田村江つ子)は箱入り娘として育てられており、1人で映画に行くことも禁止されていた。

父・榎並充造は自分の会社のことだけでなく、神戸商工会議所の会頭などを務めていたので、非常に忙しい人だったが、田村枝津子(田村江つ子)が父・榎並充造の手帖を見つけて、予定の空いていそうな箇所に「エツ子エイガ」と書き込んでおくと、出来るだけ時間を作って一緒に映画を見に行ってくれた。

父・榎並充造は戦後も見守ってくれ、ファミリアを始めるときも「家庭をおろそかに為なければ良いことだ」と言って応援してくれ、銀行の保証も引き受けてくれた。

坂野惇子と出会う

須磨浦小学校を卒業した田村枝津子(田村江つ子)は、昭和6年(1931年)に甲南高等女学校(現在の甲南女子大学)へ入学し、1年生の時に坂野惇子(ばんのあつこ)とクラスメイトとなる。

田村枝津子(田村江つ子)は登校中に坂野惇子と出会い、一緒になって始業ギリギリに教室へ駆け込んだり、放課後の運動部でバスケットボールをしたりして一緒に遊んだ。

以降、坂野惇子と親友となり、田村枝津子(田村江つ子)は、ファミリア関係者の中で、坂野惇子と最も付き合いの長い人物となる。

亀高文子の赤艸社に学ぶ

田村枝津子(田村江つ子)は小学3年生の時に初めてアメリカ人形を買ってもらい、それを書いたクレパス画が毎日新聞社の児童画展で5位に入賞し、アメリカ送りに選ばれた。

それがきっかけで、田村枝津子(田村江つ子)は絵を描く喜びを覚え、甲南高等女学校1年の夏に女流画家・亀高文子の赤艸社女子絵画研究所へ通い、亀高文子や亀高みよ子や渡辺一郎から洋画を学んだ。

田村枝津子(田村江つ子)は娘時代にいくつかの洋画展で入賞しており、上野の森美術館に憧れ、夢を膨らませた。

また、洋裁においては、北島政子や木川章子や田中千代に師事して手芸や縫製を学んだ。

田村寛次郎と結婚する

田村枝津子(田村江つ子)は昭和15年(1940年)に、繊維商社「田村駒」の創業者・田村駒治郎次男・田村寛次郎と結婚する。

ちょうど、坂野美智子が長女・坂野光子を出産し、ベビーナース大ヶ瀬久子から西洋式の育児を学んでいるころ、田村枝津子(田村江つ子)もベビーナース下岡仲子に来てもらい、西洋式の育児を学んだ。

戦時中は、昭和19年(1944年)頃に幼い2人の子供を連れて有馬へ疎開。昭和20年(1945年)8月5日の空襲で芦屋の自宅が被災したため、終戦後、芦屋の海岸沿いに家を借り、出征中の夫・田村寛次郎の帰りを待つ。

昭和21年(1946年)に夫・田村寛次郎が中国から復員。ちょうど同じ頃、坂野惇子の夫・坂野通夫が復員し、再会と無事を喜びあった。

ファミリアの設立へ

戦後は、子供に服を着せようにも、服を売っていないので、田村枝津子(田村江つ子)は姉の子供の古着を貰い、それを型紙にして、自分の着物を解いて子供の服を作った。

しかし、物価も上昇していき、夫・田村寛次郎の会社も不安定だったので、なんどかしなければならないと考えるようになっていた。

そのようななか、親友の坂野惇子から手芸店を開業することを相談される。

すると、田村枝津子(田村江つ子)は、義理の姉(夫の姉)・田村光子にも相談する事を提案する。

義理の姉・田村光子は、洋裁は木川章子の第1の門下生という腕前で、既に人から頼まれて洋裁を介していた。

こうして、坂野惇子・田村枝津子(田村江つ子)・田村光子の3人で、ベビーショップ・モトヤ(後ファミリア)をオープンすることになった。

田村枝津子(田村江つ子)のファミリア時代

田村枝津子(田村江つ子)はベビーショップ・モトヤ(ファミリア)の創業当時、手芸品の責任者であった。

しかし、田村枝津子(田村江つ子)は3人目の子供を妊娠していたので、甲南高等女学校時代の友人・不破孝子に手伝ってもらい、主に取り次ぎを担当した。

ベビーショップ・モトヤ(ファミリア)の開業後も育児があったので、不破孝子に手芸部門を任せていたが、不破孝子が結婚により退社したので、不破孝子の結婚後は田村枝津子(田村江つ子)が手芸部門の責任者を引き継いだ。

ファミリアの手芸を支えた田村枝津子

ファミリアの中で手芸が多い方が客が喜ぶという意見もあったが、田村枝津子(田村江つ子)は「手芸は多ければ良いというものではない。そのデザインに適した手芸を付けなければ、子供達が可愛く見えない」としてガンとして聞き入れず、デザインに適した手芸を作り続け、地味な手芸部門を支え続けた。

田村枝津子(田村江つ子)が作り出す手芸はファミリアの商品の中でも非常に付加価値が高く、皇室の方々からも好評であった。

また、田村枝津子(田村江つ子)は女流画家・亀高文子に師事して絵心があったので、昭和45年(1970年)ごろから、ファミリアのオリジナルプリントの図案にも加わり、子供達に喜ばれる商品を多数作った。

また、田村枝津子(田村江つ子)は画家としても才能を発揮しており、光風会・西宮美術協・西宮芸文に所属したほか、平成11年度の亀高文子記念・赤艸社賞に選ばれた。

なお、小説「べっぴんさん」に登場する登場人物一覧は「小説・べっぴんさん(坂野惇子)-登場人物のまとめ」をご覧ください。

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