田村寛次郎の立志伝

アミリアの創業者・坂野惇子(ばんのあつこ)の生涯を描く小説「べっぴんさん-坂野惇子」の登場人紹介編「べっぴんさん-田村寛次郎の立志伝」です。

田村寛次郎の概要

田村寛次郎の画像田村寛次郎は、2代目・田村駒次郎が社長を辞任したため、社長代行として田村駒を切り盛りし、田村駒の戦後復興の基礎を築いたほか、田村駒が倒産の危機を迎えたときも、田村駒の復興に尽力した。

なお、妻・田村枝津子(田村江つ子)は皇室御用達の子供服ブランド「ファミリア」の創業メンバーである。

田村寛次郎の生涯

田村寛次郎(たむら・かんじろう)は大正3年(1914年)2月に大阪府で、繊維商社「田村駒」を創業した初代・田村駒治郎の次男として生まれた。

父・田村駒治郎は昭和6年に死去すると、兄・田村駒太郎が2代目・田村駒次郎を襲名して、田村駒を引き継いだ。

田村寛次郎は、甲南高校中等部から甲南高校を経て、京都帝国大学経済学部を卒業して大日本紡績(ユニチカ)に就職し、真珠湾攻撃が行われる前年の昭和15年(1940年)に田村枝津子(田村江つ子)と結婚した。

結婚した翌年の昭和16年(1941年)8月、田村寛次郎は、兄の2代目・田村駒次郎に請われてに田村駒の取締役に就任する。

第2次世界大戦のとき、田村寛次郎は陸軍に招集され、中支(中国の中部地方)へ派遣されており、中支で終戦を迎えた。

そして、終戦の翌年、昭和21年(1946年)4月ごろに帰国して、田村駒に復帰する。

田村駒の社長代行を務める

昭和21年(1946年)2月、田村駒の4階に綿布1万5000反と進駐軍の缶ビールの空き缶が積まれていたため、これらに隠退蔵物資の容疑が掛けられてしまう。

MPは田村駒に突入して社内でピストルを乱射し、2代目・田村駒次郎をはじめ管理職は釈明の余地も与えられず、MPに連行された。

後に無罪となるが、第一審は有罪だった。隠退蔵物資の容疑で国民からの信用を失ったうえ、繊維製品の配給代行店としての指定資格まで危なくなり、田村駒の社内にも動揺が広まった。

昭和21年(1946年)8月10日、2代目・田村駒次郎は内外への配慮し、この責任を取る形で田村駒の社長を辞任した。

さらに、追い打ちを掛けるように、2代目・田村駒次郎は昭和22年(1947年)2月に公職追放を受けて帝国繊維の会長も辞任する。

GHQによる公職追放は政治家などに限られていたが、やがて、公職追放の対象者は財界の要人まで広がっていた。

このため、田村寛次郎は、2代目・田村駒次郎の辞任を受けて、昭和21年(1946年)8月10日に田村駒の社長代行に就任した。

「生産会社と違って商社の経営は砂上の桜閣(ろうかく)のように感じた」

田村寛次郎は後に、そう語った。

この頃の田村駒は、海外の資産を凍結されて全てを失い、統制品以外で販売できる物は何でも扱っていた。当時、田村駒の主力製品は化粧品と帆布制のカバンだった。

田村駒は新円切替えや特別経理会社指定を受けて厳しい時代を迎えたが、社長代行に就任した田村寛次郎は卓越した手腕を発揮し、難局を乗りきっていく。

このころ、続々と海外出張所から引揚げてきた社員や戦争から復員した社員が田村駒に復帰したが、田村駒にそうした社員を受け入れる余裕は無かった。

そこで、社長代行・田村寛次郎は、受け入れができない社員に対して、故郷へ戻って田村駒の出張所を作り、商売をするように指示した。

このため、北は新潟から南は福岡まで、全国に15カ所出張所、連絡所が3カ所、荷扱い所が4カ所開設された。

さらに、社長代行・田村寛次郎は昭和22年に公益公団の取扱業者として貿易業務を開始。翌年の昭和23年には外国業者との触接取引の許可を勝ち取り、積極的な貿易によって取引高を10倍に増やし、田村駒再建に向けての基盤を確立した。

こうして繊維の取引高が増えていき、業績が回復すると、各地に散らばっていた社員も本社業務に復帰した。

昭和23年(1948年)には田村駒に掛けられていた隠退蔵物罪は無罪となった。また、公職追放も解除されたため、2代目・田村駒次郎は昭和24年9月に社長へと復帰したので、田村寛次郎は社長代行の任を解かれた。

この間、田村寛次郎は昭和23年(1948年)2月に代表取締役に就任しており、2代目・田村駒次郎の社長復帰に伴い、昭和24年9月に代表取締役専務に就任。大誠化学の社長も務めた。

田村駒の粉飾決算と倒産の危機

2代目・田村駒次郎は昭和26年(1951年)にアメリカへと渡り、紡毛糸の原材料となる毛屑を大量に買い付けた。

しかし、消費者の需要は紡毛から高級な梳毛へと移っり初めていたうえ、朝鮮戦争終結に伴う繊維相場の乱高下の影響も有り、買い付けた紡毛糸が日本に到着した時には半値まで下落していた。

2代目・田村駒次郎は、この損失を、田村駒の子会社的な和泉毛糸に押しつけたため、和泉毛糸が倒産。田村駒も3億8000万円の損失を出してしまう。

和泉毛糸の倒産により、資金繰りのつかなくなった田村駒・東京店は、手形で糸を買い、現金で売りさばくという自転車操業を開始。相手を選ばずに販売したため、倒産に遭い、更に資金繰りを悪化させていた。

東京店の資金繰りの悪化は田村駒・本社の経営を圧迫するようになり、田村駒の田村寛次郎が東京店に出向いて経理内容を徹底的に調査した。

すると、東京店は海外での事業に失敗して5億円以上の損失をだしていたうえ、国内でも大量の不良債権を抱えていた。さらに、行き先不明の白地手形を発行していたうえ、3億6000万円にも登る融通手形を振り出していた事が判明した。

田村駒は東京店を本社直轄の支店とし、東京店の改革を行ったが、時は既に遅く、既に1億2000万円に登る欠損を出していた。

田村駒は銀行から融資を受けるために、粉飾決算を行い、利益を計上していたが実際は大赤字であった。

昭和29年(1954年)には、田村駒が抱えていた10億円の赤字が数倍にも膨れあがった。経営破綻の危機に追い詰められた田村駒はメーンバンクの三和銀行に粉飾決算の実態を打ち明け、再建のための援助を願い出た。

昭和31年(1956年)には三和銀行から特別融資を受けて倒産を回避し、田村駒は再建を目指した。

そして、再建の一環として、三和銀行の直原一雄、第一物産の斎藤静夫、常磐鋼材の黒田宗次郎が田村駒の代表取締役に就任した。

これにより、田村駒は実質的に三和銀行の支配下に入る。2代目・田村駒治郎は実質的な経営権を失ったが、名目上の社長として田村駒に留まった。

田村駒からファミリアへ

2代目・田村駒次郎は昭和34年(1959年)ごろから、呼吸困難を伴う心臓発作を繰り返すようになっていたが、田村駒の再建に向けて銀行との折衝や再建回収などに奔走していた。

田村寛次郎も昭和32年1月に監査役に就任して田村駒の再建に向けて奔走していた。

そのようななか、2代目・田村駒次郎が昭和36年(1961年91月21日早朝に心臓発作で急死してしまう。

2代目・田村駒次郎の死後、田村駒は社長を置かず、代表取締役の直原一雄・斎藤静夫・黒田宗次郎の3人が田村駒の舵を取った。世に言う「田村駒トロイカ体制」の始まりである。

田村寛次郎は田村駒トロイカ体制の元で監査役を続けていたが、昭和37年(1962年)7月に監査役を辞任し、妻・田村枝津子(田村江つ子)らが創業した皇室御用達の子供服ブランド「ファミリア」へと移り、ファミリアの取締役に就任した。

妻・田村枝津子と坂野家

田村寛次郎は、真珠湾攻撃が行われる前年の昭和15年(1940年)に田村枝津子(田村江つ子)と結婚した。

妻・田村枝津子(田村江つ子)は、阪東式調帯(バンドー化学/東証一部上場)や内外護謨(内外ゴム/非上場)を創業した榎並充造の次女で、ファミリア創業者・坂野惇子の親友であった。

また、田村寛次郎も、坂野惇子の夫・坂野通夫と中学・高校・大学の同窓生で先輩後輩の関係(坂野通夫が後輩)だったので、田村家は坂野家は家族ぐるみで付き合っていた。

戦後、坂野通夫がジャカルタから帰国したとき、妻・坂野惇子を連れて真っ先に訪れたのだが、田村寛次郎・田村枝津子(田村江つ子)の自宅であった。

ファミリアの創業

戦後、子供服ブランド「ファミリア」の創業を志した坂野惇子が、真っ先に相談したのが、親友の田村枝津子(田村江つ子)だった。

田村枝津子(田村江つ子)は、義理姉の田村光子にも相談する事を提案し、坂野惇子・田村枝津子(田村江つ子)・田村光子の3人が子供服ブランド「ファミリア」が創業することになる。

このとき、田村寛次郎は「これからは女性も家庭にジッとしている時代ではない」と言い、妻が働くことに賛成した。

田村枝津子(田村江つ子)がファミリアを創業した昭和23年は、2代目・田村駒次郎が隠退蔵物資の容疑の責任を取って田村駒の社長を辞任し、田村寛次郎が田村駒の社長代行を務めていた時期で非常に多忙だったが、ファミリアに立ち寄って、帳簿の付け方を教えたりしていた。

なお、小説「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」の登場人物一覧は「ファミリア創始者・坂野惇子の立志伝-登場人物のまとめ」をご覧ください。

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