2代目・田村駒治郎の立志伝

田村駒の2代目社長で、プロ野球団のオーナーとして活躍した2代目・田村駒治郎の立志伝です。田村駒を創業した初代については「初代・田村駒治郎」をご覧ください。

2代目・田村駒治郎の概要

2代目・田村駒治郎の画像2代目・田村駒治郎(田村駒太郎)は、亡き父の後を引き継いで田村駒商店の社長に就任し、古い船場の風習を廃止して、田村駒商店の近代化に励み、総合商社を目指して企業を拡大した。その一方で、プロ野球団のオーナーとしても活躍し、野球界にも貢献した。

2代目・田村駒治郎の情報
生年月日明治37年(1904年)2月21日
生まれ大阪府大阪市東区安土町4丁目55番地
死没昭和36年(1961年)1月21日
没年齢享年58
初代・田村駒治郎
田村フク

2代目・田村駒治郎の立志伝

2代目・田村駒治郎(田村駒太郎)は明治37年(1904年)2月21日に大阪府大阪市東区安土町4丁目55番地で、初代・田村駒治郎の長男(2男4女)として生まれた。

父の初代・田村駒治郎は丁稚奉公から身を起こして、洋反物問屋「神田屋田村駒商店」(後に田村駒商店と改称)を創業し、田村駒商店を一代にして三大洋反物問屋へと成長させ、貴族院議員としても活躍した人である。

2代目・田村駒治郎(田村駒太郎)は、船場尋常小学校を経て、大阪市立天王寺商業学校へと進み、在学中は野球に熱中した。鈍足であったがバッティングセンスは良く、代打として活躍した。また、勉強の方も成績は優秀だった。

2代目・田村駒治郎(田村駒太郎)は、天王寺商業学校を卒業して、大正10年(1921年)3月に田村駒商店に入社する。

ほかの従業員と同様に丁稚から始まり、一通りの見習い業務を覚え、2年後に九州・東海地区の販売担当となると、個人売り上げ記録を更新するなど、優秀な成績を収めて才覚を現した。

田村駒治郎(田村駒太郎)は田村駒商店で働くかたわらで、外国語と経済学を学んでおり、大正元年(1912年)8月には宿願が叶って欧米への視察旅行へ出る事が許された。この欧米旅行で大きな刺激を受ける。

帰国後はモスリン友禅部の責任者となり、父親譲りのアイデアを次々と打ち出し、売り上げを拡大していく。

結婚と父の死と社長就任

2代目・田村駒治郎は、昭和2年(1927年)11月2日に、安田財閥の一門・安田善助(安田火災および帝国製麻の社長)の次女・安田禮子と結婚。媒酌人は加賀前田家出身の子爵・前田利定が務めた。不況の中でも順風満帆な生活を送っていた。

しかし、昭和2年(1927年)3月14日、大蔵大臣・片岡直温が「東京渡辺銀行が、ただいま休業しました」と発言した事を切っ掛けに、銀行の取り付け騒ぎが起き、未曾有の不況に発展する。世に言う「昭和恐慌」である。

田村駒商店の主力商品だったモスリンの相場が昭和恐慌の影響で市場最安値まで下落し、田村駒商店も大打撃を受ける。

父・田村駒治郎は、こうした状況を打開するために、海外に活路を見いだし、中国から満州・台湾・東南アジア諸国へと積極的に進出し、海外への販路を拡大していった。

父・田村駒治郎は貴族院議員をしていたこともあり、激務が続き、帝国議会に出るために上京して時に倒れ、昭和6年(1931年)3月31日に聖路加病院で死去した。享年66だった。

父・田村駒治郎の死後、長男・田村駒治郎(田村駒太郎)が父親の名前を襲名して、2代目・田村駒治郎となり、昭和6年(1931年)5月13日に田村駒商店の社長に就任した。

田村駒商店の近代化

時の大蔵大臣・高橋是清は、昭和6年(1931年)12月に金輸出再禁止と管理貨幣制への復帰を宣言するとともに、軍事費拡張路線を取り、日本は軍需要拡大によって昭和恐慌を脱出していく。

2代目・田村駒治郎は、一族の平松健一郎を代表取締役に抜擢し、2代目・田村駒治郎、平松徳三郎、平松健一郎の3人代表取締役体制をとった。

そして、景気回復を背景に、繊維問屋から商社への転換を図るべく、世界各地に販路を形成し、積極的に輸出を行った。

さらに、国内自主生産が可能である人絹の将来性に着目して昭和9年(1934年)1月に太陽レーヨンを設立。翌年の昭和10年に岡山県児玉に工場を建設し、人絹糸・スフ綿の生産を開始した。

愛国第84号(田村号)の寄贈

父・田村駒治郎の2回忌にあたる昭和8年(1933年)5月、2代目・田村駒治郎は戦闘機「愛国第84号(田村号)」を陸軍に寄贈した。

愛国第84号(田村号)は、当時、最新鋭の91式戦闘機で、満州に配属され、制空や掩護に活躍した。

さらに、第二次世界大戦中の昭和18年に(1943年)は、陸海軍に50万円を寄付したほか、海軍に艦上戦闘機「田村号」4機を寄贈した。

新社屋の建設、プロ野球のオーナー

田村駒商店は事業拡大によって年々、社屋が狭くなっており、これまでは隣接地を買い増していたが、追いつかず、昭和8年(1933年)には本社の向かいに田村駒商店北店を開設していたが、それでも社屋は手狭になっていた。

そこで、2代目・田村駒治郎は、繊維問屋「伊藤萬(イトマン)」に対抗して堂筋沿いへ進出する計画を建てた。伊藤萬(イトマン)は同業のライバルというだけでなく、野球部同士もライバルだった。

しかし、「先代が田村駒を築いた地を離れるべきではない」という年配幹部の意見があり、堂筋沿いへ進出は断念を余儀なくされた。

そこで、2代目・田村駒治郎は昭和11年(1936年)11月に新社屋として6階建てのビルを建設した。6階建てのビルは、少々のことでは驚くこと無い船場の商人を驚かせ、古い商家が多く残る船場でひときわ目立つ存在となり、新しい田村駒の象徴となった。

また、2代目・田村駒治郎は新社屋の完成に先だって、社員寮を完成させており、伝統となっている住み込み制を廃止。さらには、新社屋の完成に伴い、丁稚や番頭制を廃止して役職を定め、服装も着物から洋服へと変えた。

さらに、昭和11年(1936年)、2代目・田村駒治郎はプロ野球団「大東京軍」への経営参加を打診される。

一部の幹部は球団経営に反対したが、野球が好きだった2代目・田村駒治郎は、幹部の反対を押し切って大東京軍を買い取り、同年11月に大東京軍のオーナーとなった。

しかし、こうした2代目・田村駒治郎は社内の軋轢を生んだ。

初代・田村駒治郎の実弟・平松徳三郎は、堂筋沿いへ進出問題や、プロ野球団問題が原因で、昭和13年(1938年)3月に退社。平松徳三郎に続いて平松系の幹部も退社した。

こうして、田村駒商店は、初代・田村駒治郎の参謀として活躍した平松徳三郎を失ってしまう。

第二次世界大戦

昭和16年(1941年)12月に日本が真珠湾攻撃を行い第二次世界大戦に参戦する。やがて、繊維は完全に配給制となったため、田村駒商店は繊維を扱えなくなった。

繊維という本業を失った田村駒商店は、化粧品から文房具まで、扱える物は何でも扱うようになった。

さらに、7・7禁止令(贅沢禁止令)の影響で、意匠室も閉鎖に追い込まれたうえ、戦時体制の影響で金儲けを連想させる言葉も不適格となり、株式会社田村駒商店から「商店」を削除し、「田村駒株式会社」へと変更した。

また、設立した大洋レーヨンは戦時中の企業整理により、帝国製麻と合併して帝国繊維となり、2代目・田村駒治郎は帝国繊維の副社長に就任した。

戦後と公職追放

田村駒は昭和20年(1945年)3月13日の大阪空襲で田村駒の本社社屋を全焼したが、本社社屋は洋式ビルだったので、外壁が焼け残っており、戦後は焼け残った本社ビルで業務を再開した。戦争で全てを失い、裸一貫での再スタートだった。

そのようななか、昭和21年(1946年)2月9日、MPが田村駒に突入し、社内で銃を乱射した。

田村駒の本社4階に綿布が1万5000反と進駐軍の缶ビールの空き缶が山のように積まれており、これに隠退蔵物資(物資隠匿)の嫌疑がかけられたのである。

これは法的に問題の無い物だったが、2代目・田村駒治郎と田村駒の幹部は弁解する時間も与えられず、そのままGHQが入る天王寺美術館へと連行された。

この事件は最終的に無罪となるが、一審で有罪となってしまう。配給制で物資の無い時代だったので、隠退蔵物資(物資隠匿)は非常にイメージが悪く、田村駒は信用が失墜し、社内にも動揺が広まった。

このため、2代目・田村駒治郎は事件の責任を取る形で昭和21年(1946年)8月10日に社長を辞任し、弟・田村寛次郎が田村駒の社長代行に就任した。

また、GHQによる公職追放は当初、政治家が対象だったが、財界の要人にまで及びんだ。2代目・田村駒治郎は田村駒の社長を辞任後も帝国繊維の会長を務めていたため、公職追放となり、昭和22年1月に帝国繊維の会長も辞任し、プロ野球チームのオーナーとしての地位だけが残った。

その後、隠退蔵物資(物資隠匿)は無罪となり、昭和24年に公職追放も解除されたため、2代目・田村駒治郎は昭和24年(1949年)9月19日に田村駒の社長に復帰した。

田村駒の粉飾決算と倒産の危機

昭和25年6月に勃発した朝鮮戦争による特需により、繊維業界は空前の好景気を迎えていた。世に言う「ガチャマン景気」「糸へん景気」である。

ところで、2代目・田村駒治郎のプロ野球チームは、松竹の経営参加により「松竹ロビンス」となっていた。

昭和25年にプロ野球が分裂して2リーグ制となり、この年、松竹ロビンスは、セントラル・リーグ(セリーグ)に加盟し、2リーグ制となった初シーズンを制して初代セントラル・リーグのチャンピオンとなる。

2代目・田村駒治郎は、「ガチャマン景気」「糸へん景気」による業績拡大とリーグ初優勝によって最盛期を迎えた。

しかし、「ガチャマン景気」「糸へん景気」は長くは続かなかった。

昭和26年(1951年)7月に朝鮮戦争は停戦交渉に入ると、好景気の反動で株価は大暴落。繊維相場も急落し、手形の不渡りと倒産が相次ぐことになる。

2代目・田村駒治郎は好景気まっただ中の昭和26年(1951年)3月11日にアメリカへと渡り、毛糸の原料となる毛屑を大量に買い付けた。

しかし、アメリカから取り寄せた毛屑が日本に到着した時には「糸へん景気」が終演しており、相場が暴落し、半値以下になってしまう。

さて、田村駒は昭和25年(1950年)に大日産業を引き継いで田村駒東京店を設立しており、田村駒東京店から毛屑を購入して紡毛糸を製造する和泉毛糸という会社があった。

和泉毛糸は田村駒の子会社的な存在であり、2代目・田村駒治郎はアメリカで買い付けた毛屑の損失を和泉毛糸に押しつけた。

このため、損失を押しつけられた和泉毛糸は倒産し、田村駒も3億3800万円の不良債権を抱えることになった。

一方、和泉毛糸の倒産で資金繰りに行き詰まった田村駒東京店は、手形の乱用によって資金繰りを付けるという危ない道を進んだ。しかも、相手を見ずに売っていたため、倒産に遭い、田村駒東京店は雪だるま式に損失を膨らませていった。

やがて、田村駒東京店の損失は、田村駒本店の経営を圧迫するようになった。

この問題を解決するため、2代目・田村駒治郎は弟・田村寛二郎を田村駒東京店へと派遣して財務内容を徹底的に調査したところ、事業の失敗や白地手形や融通手形の乱発が判明した。

そこで、昭和27年(1952年)3月に田村駒東京店を本店直轄の東京支店へと変更し、再編を行ったが、時は既に遅く、巨額の損失を計上することになってしまう。

田村駒は赤字だったが、銀行から融資を得るため、粉飾決算で利益を計上し、銀行からの融資で生きながらえた。

しかし、不況の影響で赤字は数倍に膨れあがっていき、昭和29年(1954年)9月には進退窮まり、三和銀行に粉飾決算の実態を告白し、援助を願い出た。

三和銀行は支援に対して慎重であり、田村駒に対して再建策の提示と実行を求めた。

これに対して、2代目・田村駒治郎は昭和29年(1954年)10月1日に希望退職者を募ったので、その影響で同年10月11日に田村駒に労働組合が発足した。

さらに、2代目・田村駒治郎は私財を投じて田村駒の存続に動いたこもあり、三和銀行は田村駒の救済に動き、昭和31年(1956年)3月に田村駒に特別融資を実行した。

三和銀行の動き早く、田村駒は昭和31年(1956年)に第一物産(三井物産)を業務提携し、昭和32年(1957年)1月26日には常盤鋼材の金属部門の営業権を譲り受け、社名を「田村駒常盤株式会社」へと変更した。

第一物産(三井物産)との業務提携によって田村駒の信用は回復。常盤鋼材から譲り受けた営業部門は大きな利益を上げ、田村駒の立ち直りに寄与した。

これに伴い、常盤鋼材の黒田宗次郎が田村駒常盤の代表取締役に就任。さらに、三和銀行の直原一雄、第一物産(三井物産)の斎藤静夫も田村駒常盤の代表取締役に就任した。

2代目・田村駒治郎は田村駒常盤の社長に留まったが、支援企業の黒田宗次郎・直原一雄・斎藤静夫を代表取締役として受け入れたことにより、名目上社長となった。

2代目・田村駒治郎は、その後も田村駒再建に向けて奔走。昭和34年(1959年)頃から、呼吸困難を伴う心臓発作を繰り返しながら激務を続けていたが、昭和36年(1961年)1月21日早朝に心臓発作で死去した。戒名は龍光院達誉浄雲居士。享年58。

死後

2代目・田村駒治郎の死後、田村駒常盤は社長を置かず、支援企業から来た黒田宗次郎・直原一雄・斎藤静夫の代表取締役3人によって運営され、「田村駒トロイカ体制」へと突入する。

田村駒トロイカ体制に突入し、幹部の一色大二郎・田村寛次郎田村陽(飯田陽)は田村駒を去り、田村光子田村江つ子(榎並江つ子)が創業した皇室御用達の子供服ブランド「ファミリア」へと移った。

しかし、3代目・田村駒治郎を襲名した長男・田村忠嗣は、田村駒常盤の取締役に就任して、田村駒常盤に残った。

そして、田村駒トロイカ体制の元で再建が進み、昭和38年(1963年)には累積赤字を一掃した。

2代目・田村駒治郎の死後、長らく社長は空白だったが、昭和44年(1969年)に三和銀行出身の直原一雄が田村駒常盤の3代目社長に就任して田村駒トロイカ体制が終わった。

そして、昭和51年(1976年)2月に直原一雄が会長へと退き、三和銀行の江藤善七郎が田村駒常盤の4代目社長に就任し、昭和52年(1977年)3月1日に社名を「田村駒常盤」から「田村駒」へと変更した。

プロ野球のオーナーとして

昭和11年(1936年)、2代目・田村駒治郎はプロ野球団「大東京軍」への経営参加を打診される。一部の幹部は球団経営に反対したが、2代目・田村駒治郎は反対を押し切って大東京軍を買い取り、大東京軍のオーナーとなる。

昭和12年(1937年)には小林商店(ライオン)をスポンサーに迎えて「ライオン軍」と改称し、本拠地も大阪に移した。

このため、球団の取得に反対していた叔父・平松徳三郎は、昭和13年3月に退社。平松徳三郎に続いて平松系の幹部も退社した。

その後、ライオン軍は英語使用禁止により、朝日軍へと改称したが、戦況の悪化により、昭和19年(1944年)にプロ野球自体が廃止された。

戦後、2代目・田村駒治郎はプロ野球の復活に奔走し、リーグが復活すると、昭和21年(1946年)に「太平パシフィック」としてリーグに復帰。昭和22年には2代目・田村駒治郎の名前から「太陽ロビンス」へと球団名を改称。昭和23年には「大陽ロビンス」へと改称した。

この間、2代目・田村駒治郎は昭和21年(1946年)2月9日に隠退蔵物資(物資隠匿)の嫌疑で逮捕され、同年8月に田村駒の社長を辞任。さらに、公職追放を受け、帝国繊維の会長も辞任した。

2代目・田村駒治郎は公職追放が解け、隠退蔵物資(物資隠匿)事件が無罪になって昭和24年(1949年)9月19日に田村駒の社長に復帰するまでの間、プロ野球団のオーナーとしての地位だけが残っていた。

さて、大陽ロビンスは万年最下位の弱小チームだったが、プロ野球団の創設を考えていた松竹が経営に参加することになり、「松竹ロビンス」と改称。松竹の経営参加により、松竹ロビンスは大型補強を行った。

昭和25年(1950年)にプロ野球が分裂して2リーグ制となる。この年、松竹ロビンスは、セントラル・リーグ(セリーグ)に加盟し、大型補強のおかげで、2リーグ制となった初シーズンを制してセリーグの初代チャンピオンとなる。

しかし、昭和26年(1951年)7月に朝鮮戦争は停戦交渉に入ると、好景気の反動で株価は大暴落。繊維相場も急落。2代目・田村駒治郎はアメリカで毛糸の原料となる毛屑を大量に買い付けたが、相場急落により、大損失を出す。

一方、プロ野球はチーム削減を目指しており、巨額な負債を抱えていた2代目・田村駒治郎は、大洋ホエールズとの合併に合意し、チームは「大洋松竹ロビンス」となる。

しかし、田村駒の赤字が数十億円に膨れあがり、三和銀行に支援を要請する自体に陥ったため、2代目・田村駒治郎は昭和28年(1953年)に球団経営から撤退した。

なお、2代目・田村駒治郎は昭和26年にアメリカ訪問したさい、アメリカの野球協約「ブルーブック」を持ち持ち帰り、このブルーブックが日本の野球協約の基礎となった。

こうした功績を称え、死去から10年後の昭和46年(1971年)に2代目・田村駒治郎は野球殿堂入りを果たした。

家族

2代目・田村駒治郎は、昭和2年(1927年)11月2日に、安田財閥の一門・安田善助(安田火災および帝国製麻の社長)の次女・安田禮子と結婚。媒酌人は加賀前田家出身の子爵・前田利定が務めた。

そして、昭和4年(1929年)2月に長男・田村嘉一郎(田村忠嗣/三代目・田村駒治郎)が生まれたのをはじめ、次男・田村啓二郎、長女・田村知律子、次女・田村江津子の2男2女を儲けた。

結婚当初は大阪府常盤町に居を構えたが、子供が生まれて手狭になり、兵庫県西宮市甲子園に1万坪の土地を購入して豪邸を建設。田能村竹田筆の「亦復一楽帖」から、「一楽荘」と名付けて移り住んだ。この一楽荘は空襲で焼失した。

また、東京では、妻・安田禮子の親族にあたる石油王・小倉常吉の氷川邸を取得して東京屋敷とした。東京の氷川邸は、東京での拠点として8年ほど活用したが、日本銀行総裁に譲り、徳川家の下屋敷を購入して私邸とした。

2代目・田村駒治郎の評価

  1. 2代目・田村駒治郎は、父親譲りのアイデアマンだった。気さくな性格だったので取引先からも「おもろい坊ちゃんや」と気に入られ、有数の実業家だったが、ワンマンなところがあった。
  2. 田村駒・伊藤萬(イトマン)・丸紅は仕事だけでなく、社会人野球でもライバル関係にあり、2代目・田村駒治郎は戦後、伊東万や丸紅を目標に総合商社を目指し、それに反対する社員は遠ざけた。
  3. 新社屋建設問題やプロ野球団オーナー問題で、叔父・平松徳三郎を失った事が最大の失策と言われる。

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