田村光子の立志伝

ファミリアの創業者・坂野惇子の生涯を描く小説「べっぴんさん-坂野惇子の生涯」の登場人物編「べっぴんさん-田村光子の立志伝」です。

べっぴんさん-田村光子の生涯

田村光子の画像田村光子(たむら・みつこ)は、明治40年(1907年)1月に大阪府大阪市東区安土町4丁目55番地で、田村駒治郎の長女として生まれた。

父・田村駒治郎は、丁稚奉公から身を起こしてモスリン友禅を販売する洋反物販売「神田屋田村駒商店」(後の田村駒)を創業し、数々のアイデアと「意匠の田村駒」と呼ばれる斬新なデザインで、一代にして巨万の富を作り上げて財界立志伝を成し遂げた人である。

長女の田村光子が生まれた年、神田屋田村駒商店は日露戦争後の好景気によって業績を拡大していたころであった。

さて、田村家は古い仕来りの残る商家で、昨夜まで部屋にあふれかえっていた洋反物や土間に積み上げていた木箱が一夜のうちに消えて広々とした部屋や土間が現れ、朝から家族や従業員による正月の挨拶が行われ、すがすがしい正月を迎えるという風であった。

父・田村駒治郎は母・田村フクに仕来りを守るように厳格に言いつけており、こうした仕来りに苦労した母・田村フクは、田村光子が梅田女学校(大手前高校)へ入学した正月に、流行性感冒にかかり、わずか4~5日の横臥で死去した。

父・田村駒治郎も、子育て・田村駒の社長・政治家として多忙を極め、貴族院議員在任中の昭和6年(1931年)3月31日に死去した。享年66だった。

田村陽(飯田陽)と結婚

田村光子は、厳しい仕来りが残る商家で苦労した母を目の当たりにしていたため、サラリーマンと結婚する事を望み、安田信託に勤務していた田村陽(飯田陽)と昭和4年(1929年)に結婚する。

田村光子は、ひとまず、サラリーマンと結婚するという願いが叶い、4人の子供を儲けて幸せな生活を送っていたが、戦争によってその生活が破壊されてしまう。

第2次世界大戦のとき、夫・田村陽(飯田陽)は徴兵を免れたが、空襲によって兵庫県神戸市東灘区岡本の自宅を焼かれたため、田村光子は夫・田村陽(飯田陽)と4人の子供を連れて甲子園に住む兄の自宅に疎開した。

その後、住吉川の知人宅を借用したが、再び空襲によって被災したため、兵庫県神戸市東灘区岡本にある自宅に戻り、焼け残っていた土蔵の中で終戦を迎えた。

田村光子の生涯-戦後

木川章子の第1の門下生として洋裁に覚えのある田村光子は、戦後、早くから、洋裁の仕事を開始していた。

その後、坂野惇子(ばんのあつこ)が親友の田村枝津子(田村江つ子)にベビーショップ・モトヤ(後のファミリア)を開業する話をもちかける。

田村枝津子(田村江つ子)は、田村光子の義理の妹(弟の嫁)である。

相談を受けた田村枝津子(田村江つ子)は、田村光子が既に洋裁の仕事を始めていたので、坂野惇子に田村光子にも相談することを提案した。

田村光子は、2人からの相談を受けて、家計の助けになればと思い、ベビーショップ・モトヤ(後の子供服ブランド「ファミリア」)の創業メンバーに加る。

こうして、坂野惇子・田村枝津子(田村江つ子)・田村光子の3人が7万円ずつ出し合い、計21万でベビーショップ・モトヤを創業した。

べっぴんさん-田村光子は頼れる存在

田村光子は繊維商社「成田駒」を創業した田村家に生まれたので、ファミリア創業メンバーで唯一、商売を理解していた。また、創業メンバーの最年長ということもあり、頼れる存在であった。

坂野惇子は商売のド素人で、原価よりも高い値段で売る事に罪悪感を覚えたので、適正な価格を付けられなかったが、商売を理解している田村光子が作る商品には値段が付いていたので、坂野惇子は田村光子の自宅で生産された商品については安心して売る事ができた。

父・田村駒治郎の商才を引き継ぐ

父・田村駒治郎は「西與の知恵駒」「駒さんが腕組みしたら、どれだけ知恵がでるかわからん」と言われたほどのアイデアマンで、数々のアイデアで成田駒を築き上げた知恵者であった。

田村光子は田村駒を創業した父・田村駒治郎から商才を受け継いでおり、ファミリアが選択を迫られたとき、度々、鋭い嗅覚を発揮してファミリアを成功に導いた。

ファミリアを成功に導く田村光子

子供服ブランド「ファミリア」の前身となるベビーショップ・モトヤを開業するとき、出店候補は2店舗あった。

当初、坂野惇子は、神戸・三宮センター街にあるモトヤ靴店の店主・元田蓮から、モトヤ靴店の一角を提供してもらうという提案を受けていた。

その後、坂野惇子の夫・坂野通夫が、妻が仕事を持つことに賛成し、知り合いの店を当たり、お洒落な元町商店街で店舗の一角を貸しても良いという小綺麗な店を見つけてきた。両店とも条件は同じだった。

このため、坂野惇子らは、モトヤ靴店で店を開くか、坂野通夫が見つけてきた元町商店街で店を開くか、を決めなければならなかった。

そのとき、最年長の田村光子が、最終的に「元町のお店の方が、なるほど、店構えが良くて結構だけれど、整いすぎて面白くないわ。モトヤさんの方が、惇子も何かと相談しやすいと思うし、将来もきっと良くなると思うわ」と言い、モトヤ靴店で店を開くことを決めた。

この決断はファミリアの運命を左右する大きな決断だった。田村光子がモトヤ靴店に出店する事を選んだおかげで、ファミリアを設立することにあり、阪急百貨店の清水雅の目に止り、阪急百貨店へ出店することになる。

ファミリアの命名秘話

坂野惇子・田村枝津子(田村江つ子)・田村光子が創業したベビーショップ・モトヤは、創業してまもなく、会社組織へと発展させることになり、社名を決めなければならなくなった。

このとき、「ベビーショップ・コウベ」という意見が出たのが、大きな視野を持っていた田村光子が「いい名前だと思うけど、神戸という地名に限定してしまうのはどうかしら。将来、大阪や東京にも発展できるような大きな名前をつけられないからしら」と意見した。

これに坂野惇子・田村枝津子(田村江つ子)も賛成した。

そこで、坂野惇子・田村枝津子(田村江つ子)・田村光子は、改め、赤ちゃんやママのためになる商品を作る事を決意し、暖かくて家族的な社名を付けることにした。

その後、社名を考えていた坂野惇子が外国人に、フランスで「家族」は何というのか尋ねると、「ファミリア」と教えてくれた。

坂野惇子は「ファミリア」という響きをとても気に入ったが、店名に「ベビーショップ」を入れると決めていたので、フランス語と英語の混合になってしまうため、「ファミリア」という名前を諦めた。

しかし、坂野惇子が念のために英語の辞書を調べてみると、英語でも「家族」は「ファミリア」だったので、喜んで、みんなに「ファミリア」という名前を提案した。

それを聞いた田村光子は、「ア」で終わる名前は縁起が良いと言って賛成し、株式会社ファミリアが誕生した。

木川章子と亀高文子

田村光子は娘時代、「甲南家政のオシャレ番長」と呼ばれる木川章子に師事して洋裁を習い、木川章子と一緒に神戸で洋服やアクセサリーを買い、ファッションセンスを磨いた。

また、ファミリア創業後は、色彩感覚を学ぶため、女流洋画家・亀高文子のアトリエ「赤艸社女子絵画研究所」へ通い、亀高文子や文子の長男・渡辺一郎に油を学んだ。

田村光子は、ファッションには関係の無い亀高文子や渡辺一郎の色彩感覚が、世界流行色研究会から発表させる翌年の流行色と一致していることに驚いている。

父・田村駒治郎の教え

父・田村駒治郎は、長女・田村光子が商売を始まるなどと思いもしていなかったのか、田村光子に商売の事を教えなかった。

その代わり、父・田村駒治郎は田村光子に「安いからと言っていい加減な物を買うな。直ぐに飽きる。高くても気に入った良い物を買え」「これは好みの良い食器だが、普通の家庭で使う物ではない」などと消費者としての心構えを教えていた。

それが功を奏し、父・田村駒治郎の教えは田村光子を通じて子供服ブランド「ファミリア」に引き継がれ、高品質な商品が生産されることになる。

また、生産部門の責任者・田村光子により、ファミリアブランドやファミリア品質が守られた。

ファミリアブランドを守った田村光子

創業して間もないファミリアが、阪急百貨店の社長・清水雅の目に止り、阪急百貨店から取引を申し込まれる。

阪急百貨店はファミリアに「特別に阪急特選のマークを差し上げますので、早速にマークを付け替えて納品してください。価格も好条件で買い取りましょう」と破格の好条件を提示する。

創業して間もないファミリアが百貨店から取引を申し込まれ、破格の好条件を提示されるということは、異例中の異例であった。しかも、阪急特選マークは価値があった。

しかし、坂野惇子が「ファミリアの名前で売らせて頂けないのなら遠慮します」と言って、阪急特選マークを拒否する。

田村光子も、海外にまで名の通る大倉陶園を引き合いに出し、「阪急さんは、大倉陶園の食器をそのままの名前で売っているでしょ」と指摘し、阪急特選マークを拒否した。

結局、阪急百貨店の部長・鳥居正一郎が「阪急ファミリアグループ」という名前を提案してくれたので、田村光子も坂野惇子も阪急ファミリアグループで納得し、ファミリアは阪急百貨店へ出店した。

ファミリア品質を守った田村光子

洋裁が得意だった田村光子は、創業当時より、兵庫県神戸市東灘区岡本の自宅に裁断台やアイロンやミシンを持ち込み、縫製の責任者を担当した。

田村光子は、縫製が得意な池田富恵(宮本富恵)に協力を要請したほか、兵庫県神戸市東灘区岡本の自宅横に岡本研究所を築いてファミリアの製造部門の基礎を築いた。

また、義理の妹・田村枝津子(田村江つ子)が手芸を担当いており、田村家がファミリアの製造部門を支えた。

ファミリアの商品が飛ぶように売れ、量産化が迫られたときも、田村光子はファミリアが導入することにしたアメリカ式の生産体制を「画一的で潤いの無い商品が増えてしまう」として良しとせず、アメリカ式の良いところだけを取り入れ、ファミリア品質を維持しつつ量産化する体制を築き、ファミリア品質を守った。

また、田村光子はファミリアの将来を見据え、ロンドンのロウズ社と提携し、男子社員を留学させて本格的な縫製を学ばせなるなど、人材育成にも尽力した。

さらに、商品1点1点の出来映えをチェックする商品審議会を主催し、ファミリアの品質を守り続けた。

ファミリア-皇室御用達の架け橋

田村光子の次女・田村安佐子が聖心女子大学時代に、正田美智子(後の皇后・美智子)と同級生だった(注釈:当時はまだ皇后ではありません)。

この関係で、正田美智子が昭和31年(1956年)の春に関西旅行をしたさい、友達と一緒にファミリアの創業者・坂野惇子が所有する六甲山の別荘に遊びに来ており、坂野惇子が正田美智子にお茶を振る舞った。

その後、正田美智子が昭和34年(1959年)4月にに皇太子・明仁親王(平成の今上天皇)と結婚して皇后・美智子となり、昭和38年(1963年)に第1子・浩宮徳仁親王をご懐妊する。

このご懐妊を受けて高島屋が皇室にファミリアの出産用品を納品する。

皇后・美智子は、ファミリアの商品に興味を持っており、翌日、高島屋を訪れ、ファミリアの商品を見学した。

このとき、ファミリアの坂野惇子は高島屋から、皇后・美智子に直接お答えする事を禁じられていたが、皇后・美智子のご要望により、皇后・美智子さまの質問に対して、坂野惇子が直接、お答えした。

このとき、皇后・美智子は、田村光子の次女・田村安佐子の事についても尋ねた。

こうして、ファミリアは、高島屋を通じて皇室に出産用品・ベビー用品を納めていたが、やがて、皇室から直接、注文を受けるようになり、皇室御用達ブランドとなった。

ファミリアから現役を引退

昭和52年(1977年)1月に夫・田村陽(飯田陽)が怪我をして再起不能の宣告を受けたが、幸いにも2ヶ月間の入院療養で退院できた。

ファミリアの創業時から生産部門の責任者と務めてきた田村光子は、夫・田村陽(飯田陽)の怪我と満70歳(数え71歳)なったことを機に、昭和52年(1977年)3月29日の株主総会で専務取締役を辞任し、ファミリアの名誉顧問へと退いた。

同時に、田村光子の次男・田村友彦が田村光子の後を継いで専務取締役に就任し、ファミリアの生産部門の責任者となった。

そして、田村光子は、阪神大震災が起きた年の平成7年(1995年)10月26日に入院加療中の病院で死去した。享年88。

田村光子の家族と子供と子孫

田村光子の家族と子供と子孫
笹部九兵衛父方祖父有名な酒造店を経営していたが、笹部九兵衛の代で経営が傾く。
田村駒治郎丁稚奉公から身を立てて、洋反物商「田村駒」を創業して一代で財を築いた。
田村フク古い仕来りの残る商家で苦労する。
田村駒太郎田村駒治郎の死後、2代目・田村駒治郎を襲名。田村駒の近代化させ、プロ野球球団「ライオン軍(松竹ロビンス)」に資本参加してプロ野球界でも活躍した。
田村照子
田村房子
田村寛次郎田村駒の監査役/ファミリアの取締役/大誠化工の代表取締役。
ファミリアの創業メンバー田村江つ子(榎並江つ子)と結婚。
田村和子大正7年(1918年)7月生まれ
田村泰邦長男
田村友彦次男昭和11年生まれ/早稲田大学理工学部卒/ファミリアの専務取締役
田村多美子長女
田村安佐子次女聖心女子大学卒/皇后・美智子とご友学

なお、小説「べっぴんさん」の登場人物一覧は「小説・べっぴんさん(坂野惇子)-登場人物のまとめ」をご覧ください。

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