田村陽(飯田陽)の立志伝

ファミリアの創業者・坂野惇子の生涯を描く立志伝「べっぴんさん-坂野惇子の生涯」の登場人物編「べっぴんさん-田村陽(飯田陽)の生涯」です。

田村陽(飯田陽)の生涯

田村陽(飯田陽)は、明治34年(1901年)に4代目・飯田新七の五男として生まれた。ただし、庶子(妾が産んだ子)なので、養子として飯田家に入った。

実家の飯田家は高島屋を創業した飯田新七の家系である。

飯田家は代々「飯田新七」の名前を襲名しており、田村陽(飯田陽)の父は4代目・飯田新七で、高島屋の2代目社長を務めた。

田村陽(飯田陽)は京都帝国大学を卒業後、昭和4年(1929年)に繊維販売「田村駒」の創業者・田村駒治郎長女・田村光子と結婚し、田村家へ養子に入った。

第2次世界大戦のとき、田村陽(飯田陽)は兵役を免れたが、終戦間際の昭和20年(1945年)の神戸大空襲により自宅を全焼したため、妻・田村光子と4人の子供を連れ、甲子園に住む妻・田村光子の兄の元へ身を寄せた。

その後、住吉川の知人宅を借用したが、再び空襲によって被災したため、兵庫県神戸市東灘区岡本にある自宅に戻り、焼け残っていた土蔵の中で終戦を迎えた

田村陽(飯田陽)の生涯-ファミリア

戦後、妻・田村光子は、坂野惇子(ばんのあつこ)と田村枝津子(田村江つ子)に誘われてベビーショップ・モトヤ(後のファミリア)を開業する。

田村陽(飯田陽)は、妻が仕事を持つことに賛成しており、大いに応援して、仕事帰りにベビーショップ・モトヤへより、帳簿の付け方などを教えた。

ファミリアの創業当時、田村陽(飯田陽)はファミリアの監査役を務めたが、田村駒の監査役に就任したため、ファミリア創業初期の役員異動でファミリアの監査役を辞任する。

田村陽(飯田陽)の生涯-高島屋で東京進出

坂野惇子・田村枝津子(田村江つ子)・田村光子・村井ミヨ子の4人が創業したファミリアは、創業間もない頃に阪急百貨店へ出店し、阪急百貨店の社長・清水雅のおかげで急成長していた。

そして、昭和27年(1952年)、ファミリアは高島屋で子供用品を紹介する展示会「子供ショー」を開催し、成功させていた。

子供ショーが大成功した影響で、昭和29年(1954年)、高島屋がファミリアに「子供服展」の開催を要請する。

しかし、ファミリアは阪急百貨店のおかげで成長していたので、高島屋からの要請を断ろうとしていた。

ところが、田村陽(飯田陽)は高島屋を創業した飯田家の出身で、高島屋の社長・飯田慶三が親戚にあたり、高島屋の社長・飯田慶三から直接、田村陽(飯田陽)にも子供服展の開催要請がったので、断りにくかった。

そこで、ファミリアの坂野通夫が、阪急百貨店の社長・清水雅に相談したところ、阪急百貨店の社長・清水雅が暖かい言葉で東京進出を応援してくれた。

このため、ファミリアは昭和29年(1954年)4月に高島屋東京支店で子供服展を開催して、東京進出を果し、子供服展を大成功させた。

田村陽(飯田陽)の生涯-皇室との橋渡し

田村陽(飯田陽)の次女・田村安佐子が聖心女子大学時代に正田美智子(後の皇后・美智子)と学友だったことから、正田美智子(後の皇后・美智子)が昭和31年(1956年)の春に関西旅行をしたさい、友達を連れて坂野惇子が所有する六甲山の別荘を訪れた。

昭和38年(1963年)、皇后・美智子さま(平成の今上天皇の皇后)が第1子・浩宮徳仁親王を懐妊したとき、高島屋がファミリアの出産準備用品を献上したことが切っ掛けで、ファミリアは皇室ご調達ブランドなる。

また、坂野惇子は皇室から皇后・美智子さまと直接、会話する事を禁じられていたが、田村安佐子がご学友だったこともあり、皇后・美智子さまの希望で、皇后・美智子さまの質問に対して坂野惇子が直接、答えた。

田村陽(飯田陽)の生涯-退任

田村陽(飯田陽)は再びファミリアの監査を務めたほか、三光汽船の取締役など務めたが、昭和52年(1977年)1月に大怪我をした事が切っ掛けで、ファミリアの監査役を退任した。

なお、小説「べっぴんさん」に登場するその他の人物については「小説・べっぴんさん(坂野惇子)-登場人物のまとめ」をご覧ください。

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