田村駒の田村駒治郎を逮捕!田村寛次郎の立志伝

朝ドラ「べっぴんさん」のモデルとなる坂野惇子の立志伝を描いた「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」の第12話「田村駒の田村駒治郎を逮捕!田村寛次郎の立志伝」です。

このページは立志伝の第12話です。これより前の話は、目次「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」からご覧ください。

田村駒の隠退蔵物資事件と田村寛次郎

初代・田村駒治郎は丁稚から身を起こして洋反物問屋「田村駒」を創業し、田村駒を大阪の三大洋反物問屋の1つにまで成長しさせて、巨万の富を築き、多額納税者議員として貴族院議員となり、財界立志伝と政界立志伝を成し遂げた。

そして、初代・田村駒治郎が昭和6年(1931年)3月31日に死去すると、長男の田村駒太郎が田村駒治郎を襲名して2代目・田村駒治郎となり、田村駒の社長に就任した。

さて、2代目・田村駒治郎は、欧米を遊学した時に、通訳からベースボール球団オーナーが社会的に尊敬されている事を教えてもらった。

また、2代目・田村駒治郎自身も学生時代に野球をやっていたこともあり、野球に熱を入れた。

田村駒の野球部は、同業ライバルの繊維問屋「伊藤萬(イトマン)」「丸紅」と三店舗リーグを結成して激しく争っており、2代目・田村駒治郎は野球でも仕事でも「伊藤萬(イトマン)」「丸紅」をライバル視していた。

このころ、ライバルの「伊藤萬(イトマン)」「丸紅」は総合商社へと転換を図ってたため、2代目・田村駒治郎は、ライバルの「伊藤萬(イトマン)」「丸紅」に対抗する形で、田村駒を総合商社へと発展させるべく、田村駒の近代化に努め、業容を拡大していった。

このようななか、ライバルの伊藤萬(イトマン)が御堂筋へと進出を決定すると、2代目・田村駒治郎は伊藤萬(イトマン)に対抗して御堂筋に本社を建設する計画を立てた。

しかし、古参の幹部から「先代が田村駒を築いた地を離れるべきではない」と反対され、御堂筋への進出を断念し、大阪・船場に6階建ての洋式ビルを建設した。

そうした一方で、2代目・田村駒治郎は昭和11年(1936年)11月、幹部の反対を押し切り、プロ野球団「大東京軍」を取得し、プロ野球団のオーナーとなる。

こうした行為が社内での軋轢を深めた。2代目・田村駒治郎は、自分の方針に異を唱える者を遠ざけるようになっており、昭和13年(1938年)に幹部の平松徳三郎と平松一族が田村駒を退社してしまう。

平松徳三郎は初代・田村駒治郎の実弟で、田村駒の参謀として田村駒の堅実経営を支えていた要人であった。田村駒は平松徳三郎を失い、田村駒の手綱を退く者が居なくなってしまう。

このようななか、2代目・田村駒治郎は、昭和16年(1941年)に実弟・田村寛次郎を田村駒に招き入れる。

田村寛次郎は、初代・田村駒治郎の次男として生まれ、京都帝国大学経済学部を卒業して大日本紡績(ユニチカ)に就職し、昭和15年(1940年)に田村江つ子(榎並江つ子)と結婚していた。

田村寛次郎を得た田村駒は、国策に沿う形で海外へと進出して業容を拡大し、総合商社への道を歩んでいたが、日本が第二次世界大戦で負けたため、全てを失うことになる。

田村駒の隠退蔵物資事件

田村駒は、大阪船場で有数の洋反物商としての地位を築いていたが、第二次世界大戦の大阪空襲で社屋を全焼したうえ、日本の敗戦に伴い、海外資産も全て接収され、全てを失った。

さいわい、田村駒の社屋は洋式ビルだったので外壁は焼け残ったので、社屋を補修して拠点とし、戦後の活動を再開させた。

ところが、終戦後の昭和21年(1946年)2月、MPが田村駒に突入しするという事件が発生する。

実は、田村駒の4階に綿布1万5000反と進駐軍の缶ビールの空き缶が積まれており、これらに隠退蔵物資(物資隠匿)の容疑が掛けられたのである。

MPは社内で銃を乱射。2代目・田村駒治郎や幹部は反論する余地も与えられず、逮捕され、連行されてしまった。

4階に置いていた綿布などは預かり物で、法的に問題は無く、最終的に隠退蔵物資(物資隠匿)事件は無罪となるが、一審では有罪となってしまう。

配給制の時代に隠退蔵物資(物資隠匿)の容疑は市民からの信用を落とし、田村駒は繊維製品の配給代行店としての指定資格まで危うくなってしまう。

2代目・田村駒治郎は、この騒動を鎮めるため、隠退蔵物資事件の責任を取る形で、昭和21年(1946年)8月10日に田村駒の社長を辞任。同日、弟の田村寛次郎が田村駒の社長代行に就任した。

さらに、当初は政治家だけが対象だった公職追放が、財界にまで及んだ。2代目・田村駒治郎は田村駒の社長を辞任後も帝国繊維の会長を務めていたので、公職追放の対象となり、昭和22年1月に帝国繊維の会長を辞任した。

このため、2代目・田村駒治郎はプロ野球チームのオーナーとしての地位だけが残った。

田村駒の社長代行・田村寛次郎

日本政府は昭和22年(1947年)8月に戦後補償を打ち切ったため、続々と企業が倒産していった。

田村駒は、2代目・田村駒治郎を失ったうえ、戦後補償の打ち切りや特別経理会社指定を受けて厳しい時期を迎えたが、こうした苦しい時代を田村寛次郎が支えた。

「生産会社と違って、商社の経営は砂上の桜閣(ろうかく)のように感じた」

元々、田村寛次郎は大日本紡績(ユニチカ)で働いていたので、畑違いの洋反物商「田村駒」の経営には苦労したが、柔軟な経営手腕を発揮し、田村駒の窮地を乗りきっていく。

やがて、田村駒の隠退蔵物資事件が無罪となり、公職追放も解除されたたため、2代目・田村駒治郎が昭和24年(1949年)9月19日に田村駒の社長に復帰した。

これによって、田村寛次郎は社長代行の役目を終えるととに、田村駒の代表取締役専務に就任した。

さらに、田村駒は昭和24年(1949年)10月に再建準備計画を完了し、特別経理会社を解除され、戦後の危機を乗りきることに成功したのであった。第13話へ続く。

第13話は、目次「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」から、お進みください。

スポンサードリンク

ブログ内検索

スポンサードリンク