田中千代が皇后陛下のデザイナーになる経緯

朝ドラ「べっぴんさん」のモデルとなる坂野惇子(佐々木惇子)の生涯を描いた「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝」の第37話「田中千代が皇后陛下のデザイナーになる経緯」です。

これより前の話は、目次「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝の目次」からご覧ください。

田中千代が皇后陛下のデザイナーになる経緯

皇族は宮中服を着ており、戦時中の昭和19年(1944年)に香淳皇后(昭和天皇の妻)が物資不足を鑑み、簡易な宮中服を考案した。戦後も、国民の物資不足に配慮して、皇族は簡易な宮中服を着続けていた。

戦前は天皇・皇后に手を触れることが出来なかったため、服の採寸が出来ず、皇后はダボダボの宮中服を着ており、見た目が悪かった。

しかも、簡易な宮中服はデザインが悪かったので、戦後、宮中服に対して国民から批判が殺到していた。

戦後、天皇は人間宣言をして、開かれて皇室を目指しており、宮中服は早急に解決しなければならない問題の1つだった。

昭和26年(1951年)9月8日にサンフランシスコ平和条約に調印、翌年の昭和27年4月にサンフランシスコ平和条約が発効した。

日本はGHQによる占領時代に終わりを迎え、国際社会に復帰しており、外交的な面からも簡易な宮中服では相応しくないとして問題となっていた。

こうして、戦時中に香淳皇后(昭和天皇の妻)が考案した簡易な宮中服は、皇室的にも、外交的にも問題になっていた。

このようななか、秩父宮妃・勢津子が、神戸のデザイナー田中千代に宮中服のデザインを相談することになる。

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田中千代の戦後

田中千代は、神戸の洋裁学校が空襲を逃れていたこともあり、戦後いち早く洋裁学校を再開するが、栄養失調による網膜剥離で左目を失明してしまう。

片目を失った田中千代は、デザイナーからの引退を考えたが、周囲に支えられ、独眼竜デザイナーとして復帰し、佐々木営業部(レナウン)でファッションショーを開催して大成功を収めた。

これが、日本人による戦後初のファッションショーであり、戦後の洋裁ブームに拍車を掛けた。

以降も田中千代は精力的に活動し、ニューヨーク大学へ留学したとき、アメリカでニュー・着物ショーを開催して大成功を収める。

そして、凱旋帰国した田中千代は、日本人モデルのレベルの低さに歎き、アメリカからプロのファッションモデルを呼び寄せ、日本初のプロモデルによるファッションショー(毎日新聞の主催)を開催して大成功を収めた。

(注釈:当時は日本にプロのモデルは存在しておらず、田中千代らが日本人のプロモデルを誕生させることになる。)

そして、昭和27年(1952年)4月、田中千代が産経新聞主催で本格的なファッションショーを成功させた直後、秩父宮妃・勢津子から電話がかかってきた。宮中服の相談に乗って欲しいというのである。

秩父宮妃・勢津子からの要請

秩父宮妃・勢津子は、戊辰戦争で朝敵とされた会津藩主・松平容保の孫で、会津藩・平松家から皇族に輿入れしたため、朝敵となった会津藩復権の象徴となった人物である。

秩父宮妃・勢津子の父・松平恆雄は、外交官をしており、デザイナー田中千代の父・松井慶四郎も外交官をしていた関係で、両家は家族ぐるみの付き合いをしていた。

こうした関係で、秩父宮妃・勢津子は直接、田中千代に電話を掛けてきたのである。

秩父宮妃・勢津子は、簡易な宮中服が時代遅れだと心配しており、デザイナー田中千代に宮中服について相談し、新しい宮中服について相談した。

田中千代は、日本のトップデザイナーというだけではなく、ヨーロッパ外遊時代に、フランスの王室デザイナー「ラビーニュ」に師事して、特殊なマナーやエチケットを学んでいたこともあり、皇室衣装を手がけるには最適だった。

しかし、このときは、秩父宮妃・勢津子からの個人的な以来だったため、その後、宮内庁を交えて話し合いが行われ、正式に田中千代は宮内庁から依頼された。

また、田中千代の弟・明が吉田茂総理大臣の秘書をしており、外交的に簡易な宮中服は相応しくないと考えていた政府筋からも要請が来た。

これはデザイナーとして非常に名誉なことであったが、田中千代は特別な肩書きは辞して、自由な相談役という立場で皇室デザイナーを引き受け、「皇后様のデザイナー」となったのである。

新たな皇室の幕開け

皇后様のデザイナーとなった田中千代は、昭和天皇に鳩の間違いを指摘されて青ざめる場面もあったが、肩と裾に平和の象徴「鳩」を描いた和服を制作する。

(田中千代が昭和天皇に鳩の間違いを指摘される立志伝は「昭和天皇が田中千代に鳩の間違いを指摘」をご覧ください。)

そして、香淳皇后(昭和天皇の妻)は、宮中服ではなく、田中千代が作った鳩の和服を着て、昭和27年(1952年)10月10日に行われた順宮(池田厚子)の婚儀に出席し、世間に宮中服から脱却した新しい皇室を印象づけた。

さらに、昭和34年(1959年)4月10日、皇太子明仁親王(平成の今上天皇)が民間の正田美智子(美智子皇后)と結婚し、開かれた皇室時代が幕を開けるのであった。

坂野惇子の立志伝-第38話「ファミリアが皇室御用達ブランドになった経緯」へ続く。

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