東京オリンピックを招致した田畑政治の立志伝

NHK大河ドラマ「いだてん」のモデル・田畑政治(たばた・まさじ)の生涯を描く立志伝の後半です。

前半は「田畑政治の立志伝」をご覧ください。

国際舞台への復帰-フジヤマのトビウオ

日本がオリンピックに参加するためには、各種競技が国際連盟に復帰し、日本オリンピック委員会が国際オリンピック委員会(IOC)に認められなければならなかった。

そこで、昭和24年、永井松三がIOC総会に出席して日本のオリンピック復帰を訴えると、IOC総会はオリンピック復帰の前提として、各競技の国際連盟への復帰を勧告した。

この勧告を受けた田畑政治は国際水泳連盟に強く働きかけた。これに協力してくれたのが、水泳の日米交流で田畑と親交のあるアメリカ水泳のキッパス監督である。

キッパス監督は「日本水泳連盟は戦時中、会費を払っていなかったので資格停止となっただけでとなっただけなので、会費を納めれば、自動的に国際水泳連盟に復帰するのではないか」と言い、資格停止処分を会費滞納へとすり替えるという詭弁で、国際水泳連盟に働きかけてくれたのだ。

田畑政治は戦前から国際水泳連盟と親密にしていたことも功を奏し、国際水泳連盟が親書で決議を取るという特別な計らいをしてくれ、日本水泳連盟は昭和24年6月に国際水泳連盟へ復帰した。

これに喜んだハワイの日系人が、日本水泳連盟の国際水泳連盟を記念して、日本チームをハワイに招待したい誘ってくれた。

田畑政治は、これを利用して、アメリカ本土まで足を伸ばし、ロサンゼルスで開催される水泳大会への参加を計画する。

しかし、日本はアメリカの占領下にあり、色々な規制を受けており、外貨おなく、メリカ遠征など夢の又夢という話だった。

ところが、田畑政治は、GHQの総司令官ダグラス・マッカーサーはアムステルダム・オリンピックで選手団長を務めるほど、スポーツに理解がある事を知っいた。

そして、方々に働きかけた結果、マッカーサー元帥の許可がおり、マッカーサー元帥から直々に「徹底的にアメリカ選手をやっつけろ。手心を加えるな。真剣な態度で立ち向かい、これを打ち破ることこそ、スポーツマンにとって最高の礼儀である」と激賞されて、日本水泳チームはロサンゼルスの大会に出場することだが出来た。

さて、ロサンゼルスで協力してくれたのが、アメリカ在住の日系2世フレッド・イサム・ワダ(和田勇)である。フレッド・イサム・ワダ(和田勇)はスーパーの経営で成功しており、日本水泳チームを自宅に泊めてくれた。

そして、フレッド・イサム・ワダ(和田勇)のおかげで、日本人選手は日本食を食べることができ、日本水泳チームはロサンゼルス大会で本領を発揮し、古橋廣之進と橋爪四郎が同大会で数々の世界記録を樹立。特に古橋廣之進は「フジヤマのトビウオ」としてアメリカを驚愕させた。

日本水泳の活躍によって、日本人はアメリカ人に認められ、日系二世への差別も無くなっていった。日本水泳は日系人に大きな勇気と希望を与えた。

一方、マッカーサー元帥はオリンピック委員に日本のIOC復帰を要請していた。また、日本水泳の活躍によって世界の日本に対する世論が代わり始めたので、国際オリンピック委員会(IOC)は、態度を一転させ、「日本を除名した事実は無い」と表明し、日本はIOCに復帰したのである。

さて、古橋廣之進と橋爪四郎の活躍もあり、田畑政治は日本での水泳大会の招致に成功し、昭和25年に日本で水泳大会が開催された。

この大会で日本はアメリカに惨敗してしまうが、大勢の観客が訪れたことにより、日本水泳連盟はオリンピックに向けての潤沢な資金を得ることが出来た。

そして、日本は昭和27年のサンフランシスコ平和条約によって独立国となり、同年のヘルシンキ・オリンピックで、オリンピックに復帰を果たす。

ヘルシンキ・オリンピックでは、レスリングの石井庄八が戦後日本初となる金メダルを取得したが、日本水泳陣は銀メダル止まりと振るわず、「フジヤマのトビウオ」の異名をもつ古橋廣之進も不調でメダルを逃がした。

朝日新聞から追放される

戦後の戦争責任問題で朝日新聞の幹部が退陣したため、田畑政治は、みんなに推されて、昭和22年に朝日新聞の取締役に就任して朝日新聞東京本社の代表を勤め、昭和24年には常務取締に就任していた。

しかし、昭和26年に公職追放を解除された村山長挙が朝日新聞の会長に復帰すると、村山長挙は社長の長谷部忠に田畑政治の解任を要求した。

社長・長谷部忠は不当を訴えて、田畑の解任を拒否し、昭和26年に退陣した。田畑も翌年の昭和27年に朝日新聞を辞めた。

そして、昭和27年、田畑政治は選手団長として日本人選手を率いてヘルシンキへと乗り込んで、レスリングの石井庄八が戦後初となる金メダルを取得したが、日本水泳陣は振るわず、銀メダル止まりとなった。しかし、その一方で、田畑は大きな収穫を得ていた。

東京オリンピックの野望

ヘルシンキ・オリンピックから帰国した田畑政治は、突拍子も無い事を提案する。東京オリンピックの開催するというのだ。

田畑政治は終戦直後から、オリンピックの開催を考えており、ヘルシンキ・オリンピックは規模が大きくなかったので、この程度の規模なら日本でもやれるという勇気を得て帰国したのだ。

しかし、東京でオリンピックを開催するには莫大な金が要る。田畑政治は金の問題でオリンピック招致について口を閉ざした。

このようななか、昭和28年、ヘルシンキ・オリンピックの組織委員会の会長を務めたフレンケルが来日して、田畑政治・東竜太郎と会談する。

フレンケルは、田畑らがオリンピックの開催を考えていることを見抜いており、「オリンピックは金になる」と言い、ヘルシンキもオリンピックの開催で観光収入が増えて儲かっていることを明かし、熱心に2人に東京での開催を勧めた。

これを受けて田畑政治は、東京都知事の安井誠一郎や総理大臣の岸信介を説得し、東京オリンピックの招致は都議会で可決、衆議院でも可決され、東京オリンピックの招致が国家事業として動き始めたのであった。

高石勝男の反乱

田畑政治は、昭和31年のメルボリン・オリンピックでも選手団長として日本人選手を指揮したが、日本水泳は金メダルを確保したものの、全体的に成績は悪かった。

そのようななか、水面下で動いていた関西支部長・高石勝男が反旗を翻したのである。

元々、高石勝男は兄と事業をしていたが、現役時代は水泳の名選手として名を馳せてお入り、田畑はその経歴を買われて、関西支部長を任されていた。

戦前の栄光もむなしく、戦後の水泳界は成績が低迷していたことから、日本水泳連盟は高石勝男にメルボリン・オリンピックの監督を要請したのだが、高石勝男は耳病を理由に断った。

しかし、これが高石勝男を刺激したのか、高石勝男は田畑政治の中央集権体制など、蓄積していた数々の不満を爆発させ、水面下で打倒田畑を画策したのである。

そして、高石勝男は、メルボルン・オリンピックの翌年の昭和32年に、日本水泳連盟の会長選に立候補したのだ。

現職会長の田畑政治が再選すると考えられていたので、高石勝男の立候補によって、水泳界は真っ二つに分かれて大混乱に陥った。これは「日本水泳界の汚点」となった。

結局、田畑政治が1年で辞任するという密約によって事態の収拾が図られ、田畑が再選するが、田畑は1年後に混乱の責任を取る形で日本水泳連盟の会長を辞任し、東京オリンピックの招致に専念するのであった。

東京招致に向けて

昭和30年にIOC会長ブランデージが来日して、東京にオリンピックを招致したいのであれば、昭和35年のオリンピックに立候補して、昭和39年のオリンピックを狙いなさいと助言した。

ヨーロッパ諸国は遠征費の関係で、2度続けてヨーロッパ以外でオリンピックを開催する事を嫌っており、昭和35年のオリンピックはローマ開催が濃厚だった。

このため、東京が立候補しても負けは確実だが、立候補しておくことで、東京もオリンピックを開催する意向があるというアピールになり、昭和39年のオリンピックが狙えるのだという。

こうして、東京は昭和35年のオリンピックに立候補して、アピールに徹し、予定通りにローマに負けて、昭和39年のオリンピック開催を狙うのだった。

東京オリンピック招致活動

祖国思いの日系2世フレッド・イサム・ワダは、田畑政治に請われ駐米委員となっており、東京開催に向けて並波ならぬ情熱を燃やしていた。

その熱意を受けた総理大臣・岸信介は、フレッド・イサム・ワダを東京オリンピック準備委員会の委員に任命して、投票の要所である中南米訪問の全権を委任した。

こうして、フレッド・イサム・ワダは中南米10カ国11都市を私費で訪れて、各国のIOC委員に東京開催への協力を依頼し、確実に9票、上手くいけば10票が得らるだろうという好感触を得た。

一方、ヨーロッパでは貴族が投票権を持っていたことから、「プリンス・タケダ」こと竹田恒徳(日本オリンピック委員会会長)は、元皇族という経歴を活かし、ヨーロッパ方面で東京招致活動に活躍する。

さらに、竹田恒徳は、ブリュッセル(ベルギー)から、今回の立候補はアピールであり、本当に狙っているのは次ぎのオリンピックという本心を引き出し、事実上のベルギーからの投票の確約を得ることにも成功する。

東京オリンピックを勝ち取る

オリンピック招致を勝ち取るには、国際オリンピック委員会(IOC)総会のプレゼンテーションでIOC委員に好印象を与えなければならない。

そこで、田畑政治は、IOC委員にはフランス語が分かる人が多いことから、フランス語で東京招致のプレゼンテーションを行おうと考え、フランス語が堪能でスポーツにも理解がある外務省官房総務参事・北原秀雄にプレゼンテーションを依頼した。

北原秀雄は、プレゼンテーションを引き受けたが、運動会のリレーでアキレス腱を切って負傷してしまったので、代わりとして、NHK解説委員として活躍している先輩・平沢和重を紹介した。

平沢和重は、オリンピック招致を時期尚早として批判していたため、簡単には引き受けてくれなかったが、北原秀雄の後押しもあり、自分で原稿を作ることを条件に、プレゼンテーションを引き受けた。

こうして、日本は昭和34年のIOC総会に出席し、平沢和重がプレゼンテーションを行った。

幸運なことに、東京の前にプレゼンテーションを行ったデトロイトが、45分の持ち時間を超過して1時間もプレゼンテーションを行ったうえ、原稿を棒読みするという失態を犯しており、IOC委員たちは辟易していた。

そこへ、平沢和重がわずか15分という短いプレゼンテーションで、見事に東京開催のメリットをアピールしたのである。

オリンピックの五輪は五大陸を表しているが、まだアジアではオリンピックは開催されていなかった。そこに日本の勝機があった。

このプレゼンテーションが功を奏し、日本はライバルの「デトロイト」「ウィーン」「ブリュッセル」に圧勝し、日本は東京オリンピックを勝ち取ったのだった。

さて、東京オリンピックの開催が決定すると、田畑政治は早々に東京オリンピック組織委員会を発足し、事務総長に就任した。

そして、田畑政治は、東京オリンピック開催に向けた準備を開始し、昭和35年のローマオリンピックでは、選手団長を譲り、東京オリンピックを成功させるために視察に専念した。

女子バレーと柔道の採用

田畑政治は、日本のメダルが増えるように、柔道と女子バレーボールをオリンピックの競技に採用するように強く訴えた。

男子バレーボールは既に競技に採用されているので、田畑の熱意を受けて、「東京だけの特例」として女子バレーボールは採用された。

このころ日本女子バレーボールは全盛期で、東京オリンピックで「東洋の魔女」として世界を恐れさせることになる。

一方、柔道は、柔道の創始者・嘉納治五郎が日本人初の国際オリンピック委員会(IOC)の委員として活躍しており、嘉納治五郎が昭和3年に柔道の採用を訴えて以降、柔道はオリンピック競技の候補になり続けていた。

そして、世界31カ国に柔道が普及しており、今回はヨーロッパ各国が田畑政治に柔道の採用を熱望したのである。

こうした経緯があり、日本が柔道を申請すると、反対者も居たが、各国の擁護が入り、柔道はオリンピック種目に採用されたのである。

第4回アジア競技大会事件

オリンピック大臣・川島正次郎は、池田総理も同意と言い、田畑政治にオリンピック組織委員会の会長・津島寿一を辞めさせるように求めたが、田畑は津島会長を守った。

そのようななか、東京オリンピックの2年後に控えた昭和37年(1962年)、インドネシアのスカルノ大統領(デビ婦人の夫)が国家の威信を賭けて、アジア17カ国から1400人を集め、首都ジャカルタで大々的に第4回アジア競技大会を開催した。

しかし、スカルノ大統領は、中国と親しいという政治的な理由から、台湾とイスラエルに招待状を出さなかった。

メンバー国に招待状を出さないのは、アジア大会憲章に違反しており、「スポーツと政治は別」という国際スポーツの精神にも違反していた。

事前に情報を得た田畑政治は、ジャカルタの大会組織委員会に問い合わせたところ、台湾とイスラエルに招待状を出さないというのはデマであり、一切のルール違反はしていないという回答だった。

この回答を受けた田畑政治は、時間の猶予が無かったので、確認を取らないまま日本選手団を率いてジャカルタへと向かったが、ジャカルタに付いてから、台湾とイスラエルに招待状を出していないという違反が判明したのである。

こうした事態に対して、国際陸上連盟が各国に警告を送ったが、この警告はあくまでも「出場しても公式大会として認めない」という意味合いのものと考えられた。

しかし、日本では、国際陸上連盟オブザーバーの浅野均一が「台湾、イスラエルが参加しない限り国際陸連としては大会を認めることはできない。したがって、このアジア大会の陸上競技に参加したものは除名する」と表明した。

戦後、日本がオリンピックに復帰する条件として、国際オリンピック委員会は各競技の国際連盟への復帰を勧告しており、日本陸上連盟が国際陸上連盟から除名されれば、東京オリンピックに影響が出ると考えられた。

このため、日本国内では「大会憲章に違反した大会に出場すれば、日本も同罪。オリンピック開催国として世間に示しが付かない」「このままでは日本は国際オリンピック委員会から除名される。そんなことになれば、東京オリンピックを取り消されてしまう」という論調が起きていた。

一方、国際オリンピック委員会は「(特定の国を排除した大会に)オリンピック旗をかかげることは許されない」と表明するに留まった。

兎にも角にも、台湾とイスラエルが参加すれば、大会は正常化するため、田畑政治は大会正常化に向けてジャカルタ側と協議したが、ジャカルタ側は「台湾とイスラエルに招待状を送った」の一点張りで、話し合いは進まなかった。

ジャカルタ入りしたオリンピック大臣・川島正次郎は、スカルノ大統領と故意にしていたことから、スカルノ大統領の顔を潰すことはできないため、厳しい判断を迫られたが、日本国内の世論あり、大会不参加を主張した。

一方、大会に参加するアジア各国は、日本の動向をうかがっており、日本の決定に追従しようとしていた。

既に、インドの大使館に投石が行われたり、日本選手団の幹部が滞在するホテルに暴徒が進入したりしており、日本が撤退すれば、第4回アジア競技大会が中止になり、ジャカルタで暴動が起きることは目に見えていた。

そこで、ジャカルタに居る日本選手団の幹部の大半は、大会に出場しても国際陸上連盟の除名は無いと考え、ジャカルタで暴動が起きそうな事情もあったので、大会への参加を決定する。

最終的に田畑と川島正次郎が話し合い、田畑は「日本がルール違反したわけではないので、罰せられるのであれば、インドネシアだ」と説得し、川島正次郎の最終判断により、日本は第4回アジア競技大会に出場した。

韓国だけは大会から撤退したが、アジア各国は、日本が国際陸上連盟から批難されることがあれば、日本を擁護する方針で一致し、第4回アジア競技大会に出場したのだった。

田畑の失言

第4回アジア競技大会を終えて一足先に帰国したオリンピック大臣・川島正次郎は、マスコミにしたいして、「インドネシア国民は大会に熱狂しており、日本が引きあげれば、とんでもない事態になりかねなかったのが、現地の事情があった」と釈明した。

その後、帰国した田畑政治も「私たちの行動と国民感情の間に大きなギャップがあることは認める。しかし、現地の実情を分かってもらえれば、取る道はあれしかなく、全体的によかったと、納得していただけよう。いま考えてみても、あれが最善のやり方だった」と釈明した。

しかし、国際陸上連盟の意向を無視して出場したことについて、田畑政治は「際競技会(親善試合)として、日本陸上も参加した」と釈明してしまった。

実は、大会開催前に、国際陸上連盟が第4回アジア競技大会を親善試合にするように要請しており、田畑政治の釈明は国際陸上連盟の総会でするべき釈明だったのである。明らかに失言だった。

このチャンスを見逃さなかったのが、オリンピック大臣・川島正次郎である。

以前、川島正次郎はオリンピック組織委員会の会長・津島寿一を排除しようとしたが、田畑政治に抵抗されて、失敗していた。

そこで、川島正次郎は、今回の田畑の失言を利用して、責任問題を煽り立てたのである。

こうして、川島正次郎の画策によって、「日本に追従して大会に参加したアジア各国への責任」「インドネシアを怒らせるのではないか」「こんな優柔不断な人間に東京オリンピックを任せられない」という批判が続出した。

翌日、田畑は「陸上は国際競技として行われたのではない。実際は第四回アジア競技大会の一部門として陸上に出場した」と釈明し、「前日の談話は私の説明不足だった」と前日の談話を撤回した。

しかし、経済界から責任問題を追及された会長・津島寿一は辞任。田畑政治も従兄弟の水野成夫(フジテレビの創業者)からの助言を受けて辞任を決意した。

そして、田畑政治は「レールは敷いた。後は誰が事務総長をやっても、事務局さえシッカリしてくれれば出来る」「東京オリンピックの種は俺がまいたんだ。俺が刈り取りたかった」と言い、我が子を奪われるような気持ちで、昭和37年に東京オリンピック組織委員会の事務総長を辞任したのだった。

後日、田畑政治は、朝日新聞時代の同僚・細川隆元から「あの時のしっぺ返しを受けたんだよ」と言われ、事情を教えられた。

実は、東京オリンピックの予算を話し合う会合で、川島正次郎が予算のことで横槍を入れてきたため、田畑は怒って「スポーツの専門家でもないのに、つべこべ言うな。第一、都知事選の時も資金調達が上手くやれず、よくあれで幹事長が務まるものだ」と批判したことがあった。

川島正次郎は、これを根に持っており、今回の責任問題に繋がったのだ。

さて、田畑政治は、東京オリンピック組織委員会の事務総長を辞任しても、東京オリンピック選手強化対策本部の本部長も兼任していたので、今度は選手の強化に専念するために奔走する。

しかし、「寝業師」と歌われた政治家・川島正次郎の策謀は、それに留まらず、各方面へ根回ししており、田畑政治は選手強化対策本部の本部長からも追い落とされて、常任顧問に就いたが、間もなく常任顧問の肩書も奪われてしまったのである。

田畑は東京オリンピック組織委員会の委員として残ったが、積極的な発言はせず、選手を激賞してまわった。

そして、国際陸上連盟の総会で日本の責任問題は出ず、昭和39年に東京オリンピックは無事に開催され、田畑は東京オリンピック組織委員会の最前列で身を乗り出して選手を応援したのだった。

その後

東京オリンピックは無事に終わったが、水泳ニッポンの栄光は見る影も無く、日本水泳陣は惨敗した。

そこで、田畑政治は、水泳ニッポンの復権を目指し、日本水泳連盟の改革に着手して、10カ年計画を掲げた。室内プールがほとんど無かった昭和43年に東京スイミングセンターを完成させ、水泳選手の育成に励んだ。

その一方で、田畑政治は、昭和40年に日本体育協会の理事に就任、昭和41年には札幌冬季オリンピック組織委員会の顧問に就任。昭和44年には東京オリンピック招致の功績が認められ、勲二等瑞宝章を受章する。

そして、昭和47年開催の札幌オリンピックでも尽力し、昭和48年に日本オリンピック委員会の会長に就任。国際オリンピック委員会(IOC)から離脱していた中国のIOC復帰に貢献した。

晩年の田畑政治は、パーキンソン病を発症しながらも、日本オリンピック委員会を日本体育協会から独立させるために奔走したが実現せず、政治的な背景から、日本体育協会の指示で昭和55年のモスクワオリンピックをボイコットするという事態を招いた。

そして、昭和57年に東京スイミングセンターの会で、食べ物を喉に詰まらせて順天堂医に運ばれたが、酸欠のため脳の一部に障害が残り、車いす生活を送った。

昭和59年7月、ロサンゼルス・オリンピックの直前で危篤状態に陥り、医師から覚悟するように言われるが、田畑安治は奇跡的に復活し、病室のテレビで、ロサンゼルス・オリンピックを開会式から閉会式まで観戦して涙を浮かべた。

そして、閉会式の2週間後の昭和59年(1984年)8月25日に、入院先の順天堂医院で死去した。享年87。死後、正四位勲二等旭日重光章に叙された。

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