鳥居正一郎の立志伝

阪急百貨店の社長・会長を務めて立志伝を達成した鳥居正一郎(とりい・しょういちろう)の立志伝です。

鳥居正一郎の立志伝

鳥居正一郎の画像鳥居正一郎は、大正2年(1913年)1月4日に東京都で、鳥居政吉(旧姓・水野政吉)の長男として生まれた。母は鳥居静(鳥居しず)である。

父・鳥居政吉は、尾張・水野家の出身で、鳥居静と結婚して、鳥居家の養子に入った。両親は共に尾張藩の出身というので、母方の鳥居家も士族だったのだろう。

さて、父・鳥居政吉は東京に居を構えていたが、大正7年(1918年)に長女・鳥居栄子(天津乙女)が宝塚歌劇団に入団して、単身で兵庫県宝塚市へ渡った。

父・鳥居政吉は足繁く、東京から宝塚に通っていたので、宝塚歌劇団(阪急グループ総帥)の小林一三から「そう度々、大阪と東京を往復していては旅費も馬鹿にならない。いっそ、引っ越してきてはどうか」と勧められた。

大正9年(1920年)10月に次女・鳥居栄子(野かよ子)も宝塚歌劇団に入団した事を機に、父・鳥居政吉は小林一三の勧めを受けて、大正10年に一家揃って兵庫県宝塚市へと引っ越した。

そして、父・鳥居政吉は、小林一三の招きで阪急電鉄に入社し、阪急マーケット(阪急百貨店)の営業主任を務めた。

さて、鳥居正一郎はこうして兵庫県宝塚市へと引っ越し、旧制浪速高等学校を経て京都帝国大学へと進んだ。

そして、昭和11年(1936年)に京都帝国大学経済学部を卒業すると、小林一三の勧めで阪急電鉄に入社。戦後、阪急百貨店が阪急電鉄から独立したさい、阪急百貨店へと移る。

鳥居正一郎は昭和29年(1951年)に企画部長に就任し、昭和37年に取締役に就任、昭和44年に常務、昭和48年に専務、昭和54年に副社長となった。

そして、昭和56年(1981年)に阪急百貨店の社長・野田孝から、社長を引き継いで、阪急百貨店の第3代社長に就任。その後、会長を務め、立志伝を成し遂げた。

ファミリアとの折衝

昭和26年(1951年)、阪急百貨店で課長をしていた鳥居正一郎は、阪急百貨店の社長・清水雅から直々に、創業して間もない神戸の子供服ブランド「ファミリア」の商品を仕入れるように命じられた。

こころ、佐々木営業部(レナウン)坂野通夫が阪急百貨店を担当していた。

坂野通夫は大学時代の後輩でもあるので、鳥居正一郎がファミリアにつて尋ねると、偶然にも、ファミリアは坂野通夫の妻・坂野惇子(佐々木惇子)らが創業した店だった。

驚いた鳥居正一郎は、社長・清水雅からの直々の命令であることを明かして、坂野通夫にファミリアとの仲介役を依頼。坂野通夫は、妻・坂野惇子(佐々木惇子)と田村光子を連れて阪急百貨店を訪れた。

そこで、阪急百貨店の宣伝次長・土岐国彦が「特別に阪急特選のマークを差し上げますので、早速にマークを付け替えて納品してください。価格も好条件で買い取りましょう」と言って好条件を出した。

しかし、ファミリアの坂野惇子と田村光子は「ファミリアの名前で売らせて頂けないなら、遠慮します」と言って取引を拒否した。

そこで、鳥居正一郎が「阪急ファミリアグループ」という名前を提案し、坂野惇子と田村光子に納得してもらい、ファミリアは阪急百貨店に直営店を出店することになった。

家族と子孫

  1. 母・鳥居静(鳥居しず)は非常に明るい性格で話し好きだったので、「静」という名前を不幸に思い、「鳥居しず」と書いていた。
  2. 姉・鳥居栄子は東京採用生徒の第1弾として宝塚歌劇団に入り、「天津乙女」の芸名で、日本舞踊の名手として活躍し、宝塚歌劇団の理事も務めた。
  3. 姉・鳥居華子も姉・鳥居栄子の後を追って宝塚歌劇団に入り、「雲野かよ子」という芸名で、女形の主演クラスとして活躍した。
  4. 弟・鳥居欽也は学徒動員のとき、陸軍を嫌って海軍を志願し、硫黄島の高射砲部隊に配属され、硫黄島で戦死した。

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