辻阪信次郎の立志伝

吉本興業の顧問格で吉本せい(林せい)の愛人とも言われた大阪の資産家・辻阪信次郎の生涯を描く立志伝です。

辻阪信次郎の立志伝

辻阪信次郎の画像辻阪信次郎(つじさか・しんじろう)は、明治18年(1885年)1月28日に大阪市南区畳屋町で両替商・辻阪作二郎の次男として生まれた。(注釈:10月に生まれたという資料もある)

辻阪家は先々代(祖父)・大和屋作二郎のときから、両替商を営んでいる大阪市でも屈指の資産家で、辻阪信次郎は小学校しか出ていないが、大阪財界の大物・松本重太郎に学んで商機に明るく、大正2年(1913年)に分家した。

兄・辻阪芳之助も金融業で成功しており、辻阪信次郎は兄・辻阪芳之助から喜久屋食料品店を譲り受けて社長に就任する一方で、兄・辻阪芳之助と共に虎尾信託(虎尾銀行)の重役を務めた。

そして、辻阪信次郎は市議会議員に4度当選し、皆に推されて大阪府会議員に選出され、民政党の有力議員として活躍し、昭和3年には大阪府議会議長に就いた。

また、辻阪信次郎は、大阪ミナミの茶屋(高級料亭)「大和屋」の主人・阪口祐三郎と親友であり、「南五花街土地建物」の社長も務めた。

大和屋の主人・阪口祐三郎は、芸妓学校を創立して、大正4年に「あしべ踊り」を考案した人物で、大阪の芸者を牛耳っており、「花街の怪物」「大阪花街の独裁者」として君臨した人である。

辻阪信次郎も阪口祐三郎も小学校しか出ていないたたき上げで、ともに大阪財界の大物・松本重太郎に学び、お互いに小学校しか出ていないことを自慢して、兄弟のな関係を築いていていた。

そうした一方で、辻阪信次郎は、大阪の演芸界を制した吉本興業の女主・吉本せい(林せい)とも親密にしており、吉本興業の顧問格になっていた。

真偽は不明だが、辻阪信次郎と吉本せい(林せい)の交際は非常に親密であり、「吉本せい(林せい)は辻阪信次郎の愛人だった」と書く資料もある。

吉本せい(林せい)の弟・林正之助は、2人の関係については「知らない」と話しており、肯定も否定もしていない。

さて、吉本せい(林せい)は多額の寄付を行っており、昭和9年(1934年)2月11日に、大阪府から表彰されている。この表彰も辻阪信次郎に寄付をした見返りだとされており、愛人だったかは不明だが、相当に親密だったことは確かなようである。

一方、辻阪信次郎も、吉本興業が昭和9年(1934年)にアメリカの「マーカス・ショー」を招聘したさいに、ビザの取得で奔走している。

また、辻阪信次郎は、伝説の相場師・伊東ハンニと手を組み、伊東ハンニに大相場をはらせ、相場で巨万の富を築かせたなどして、政界でも財界でも活躍した。

辻阪事件

昭和10年(1935年)7月に京都で発生した脱税汚職事件が大阪に飛び火し、昭和10年11月6日に大阪市南区の税務代弁人・新生民蔵が検挙された。

これが切っ掛けで、大阪でも続々と脱税・収賄の容疑で逮捕されていき、大阪府議会議長・辻阪信次郎も、昭和10年11月16日脱税汚職事件で逮捕された。

辻阪信次郎は、「所得調査委員」「所得税審査員」を務めており、賄賂を受け取った見返りとして、税金の査定で温情をかけていたのだ。

大阪地検は僅かな贈収賄しか掴んでおらず、辻阪信次郎の逮捕には見切り逮捕的な部分があったが、幸いにも辻阪信次郎がアッサリと余罪を認めたので、吉本興業の女主・吉本せい(林せい)、茶屋「大和屋」の主人・阪口祐三郎、松竹の創業者・白井松次郎、新興キネマの取締役・福井福三郎、カフェー赤玉の支配人など、大物の逮捕に繋がった。

この事件は、大物が次々と逮捕されて世間を賑わせたが、昭和11年(1936年)1月23日に辻阪信次郎が獄中でハンカチ2枚をつなぎ合わせて首を吊ったて自殺したため、尻すぼみで終わりを迎えた。享年52だった。

吉本せい(林せい)は辻阪信次郎と非常に親密な関係だったため、吉本せい(林せい)の逮捕は吉本興業存亡の危機だった。

しかし、辻阪信次郎が自殺したため、吉本せい(林せい)は僅かな罪で起訴されただけで、ほぼ無傷に終わり、吉本興業は救われた。

これは、あまりにも吉本興業に都合の良い幕切れとなったため、辻阪信次郎は刺客に暗殺されたのではないかという説もある。

また、一連の事件で逮捕された松竹の創業者・白井松次郎は、世間から厳しく糾弾されたが、辻阪信次郎に最も近い吉本興業の吉本せい(林せい)がほぼ無傷で済んだため、吉本せい(林せい)を激しく怨み、松竹と吉本興業の遺恨に繋がったという。

辻阪信次郎の死後

辻阪信次郎が獄中で死去した後、吉本興業の女将軍・吉本せい(林せい)は、辻阪信次郎が重役を務めていた虎尾信託(虎尾銀行)にかなりの財産を信託している。

また、吉本せい(林せい)は、六女・吉本邦子(辻阪邦子)と辻阪信次郎の長男・辻阪昌一を結婚させ、辻阪昌一を吉本興業に迎え入れた。辻阪昌一は吉本興業の重役に就き、林正之助の参謀として活躍した。

なお、「今の高島屋から日本橋3丁目の方に行くようになっている右側、あの辺は辻阪の土地でした」と言うので、辻阪家はなかりの土地を持っていたが、吉本邦子(辻阪邦子)が大阪市に寄付した。

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