東明商行の張国文と「長寿麺」の立志伝

第1次南極観測隊にインスタントラーメン(即席麺)を提供した東明商行の張国文(華僑・在日台湾人)の立志伝です。

東明商行の張国文の立志伝

東明商行の張国文(ちょう・こくぶん)は日本統治下の台湾で、日本国籍を持つ台湾人として生まれ、歯科技工士として日本に来て、戦後、大阪アベノで中華料理店を経営し、1杯50円で中華そば提供していた。

蕎麦の汁を作るのは比較的簡単で、家庭でも作れたが、中華そば(支那そば)のスープは手が込んでおり、家庭で作るのは難しい。

そこで、張国文は、家庭でも中華そばを食べられるように、インスタントラーメンを開発したという。

ただし、別説によると、台湾に素麺を油で揚げた「鶏糸麺(ケーシーメン)」という料理があり、在日台湾人が台湾から取り寄せ食べていたが、やがて、在日台湾人が日本で「鶏糸麺」を作るようになった。張国文はこれを商品化したらしい。

張国文は、登山を趣味にしていたので、インスタントラーメンが登山の携帯食(保存食)にもなるように、湯をかけなくても食べられるように工夫し、ビタミンB1やカルシウムも添加した。

そして、中国では年寄りの誕生日に長寿を祝って「長寿麺」を送る風習があることから、中国の「長寿麺」から取って、インスタントラーメンを「長寿麺」と名付け、昭和33年(1958年)の春ごろに発売した。

「長寿麺」とほぼ同時期に、大和通商の陳栄泰が東京で「鶏糸麺(ケーシーメン)」を発売しており、それから数ヶ月後に日清食品の安藤百福(呉百福)が「チキンラーメン」を発売したため、インスタントラーメンの元祖争いが起きることになる。

ただし、東明商行の張国文が開発したインスタントラーメン「長寿麺」は、発売こそ昭和33年の春だが、2年前の昭和31年(1956年)の第1次南極観測隊に採用されている。

張国文のインスタントラーメン「長寿麺」が第1次南極観測隊に採用された経緯は不明だが、第1次南極観測隊は学者・登山家・船員の三グループで形成されており、張国文が登山を趣味にしていたことから、登山関係のルートから第1次南極観測隊に採用されたのではないかと考えられる。

なお、日清食品の安藤百福(呉百福)も南極観測隊にインスタントラーメン「日清焼そば」「和風チキンラーメン」などを寄贈しているが安藤百福が初めて寄贈したのは、第9次南極観測隊のことである。

日清食品の安藤百福との関係

日清食品の創業者・安藤百福(呉百福)は、張国文と同じ在日台湾人で、戦後、華僑(中国人)登録をして戦勝国民となり、戦勝国民としての特権を得て財を成し、「日本一の大金持ち」と呼ばれた。

そして、安藤百福(呉百福)は戦勝国民としての特権を利用して、PX(米軍向け販売店)で仕入れた物を売りさばいており、中華料理店を経営していたの張国文は安藤百福(呉百福)から小麦などを仕入れる関係だったという。

その後、安藤百福(呉百福)は中国人向け信用銀行「大阪華銀」の理事長を務めていたが、大阪華銀が倒産し、その責任を追及され、全財産を失い、なんと確保した借家の庭に小屋を作ってチキンラーメンの開発を始めたとされる。

ただし、在日台湾人の鄭江明によると、チキンラーメンの発売前に日清食品の幹部を長寿麺の工場へ案内したと言い、安藤百福(呉百福)は張国文の「長寿麺」をヒントにして、チキンラーメンを開発したという。

なお、「長寿麺」の製法が麺をスープに浸して味付けするのに対して、「チキンラーメン」の製法は麺にスープを噴霧して味付けするという点は異なるが、味付け麺を油で揚げるという点は共通していた。

また、張国文の「長寿麺」は発売当初、チキンラーメンのように丸形で、チキンラーメンよりも先に厚生省の特定栄養食品の認定を受けたという。

元祖インスタントラーメンの争い

昭和33年(1958年)の春、東明商行の張国文が「長寿麺」を発売したのと同時期に、東京でも大和通商の陳栄泰(在日台湾人)がインスタントラーメン「ヤマトの鶏糸麺(ケーシーメン)」を発売していた。

それから数ヶ月後の昭和33年(1958年)8月25日に日清食品の安藤百福(呉百福)が「チキンラーメン」を発売した。

そして、チキンラーメンが商業的に成功したことにより、インスタントラーメン製造業者が続々と誕生し、安いだけが売りの粗悪なインスタントラーメンが横行した。

このようななか、チキンラーメンの発売から2年後の昭和35年に、インスタントラーメンの特許論争が勃発したのである。

インスタントラーメンの製造特許を持つのは、張国文・陳栄泰・安藤百福(呉百福)の3人で、それぞれがインスタントラーメンの元祖を主張した。

東明商行の張国文は、特許「味付乾麺製法」を出願しており、島田屋本店・エース食品(エースコック)・スターマカロニなど大手10社と1食2円のロイヤリティーで特許使用契約を結んで足場を固めた。

しかし、対立していた日清食品の安藤百福(呉百福)が「即席ラーメンは華僑(在日台湾人)が日本で建てた金字塔(ピラミッド)だ。粗悪品が出回るのを整理するため、特許を一本化する必要がある」と言い、東明商行の張国文を説得した。

東明商行の張国文は、大規模な投資をして工場を拡張する冒険心が無かったため、安藤百福(呉百福)の説得を受け、昭和36年(1961年)に2300万円(平成17年の価値で約3億円)で公示中の特許「味付乾麺製法」を安藤百福に売却し、インスタントラーメンの元祖争いから退いた。

その後、安藤百福(呉百福)は、自身が取得した特許「即席ラーメンの製造法」と、張国文から買い取った特許「味付乾麺製法」の2特許を確定させると、大和通商の陳栄泰と激しく対立した。

しかし、食糧庁の和解勧告を受け、藤百福(呉百福)と陳栄泰が和解。特許を取得したエースコックが後まで抵抗を続けていたが、最終的にエースコックも日清食品と和解した。

こうして、泥沼の特許紛争を終わらせた日清食品の安藤百福(呉百福)は、業界一本化に向けて動き出したが、各業者は特許の取り扱いに疑心暗鬼になっており、地域ごとに業界を設立して日清食品に抵抗した。

これに対して、日清食品の安藤百福は、「日本ラーメン特許(国際特許管理)」を設立して特許の管理を1本化し、業界の一本化と特許問題を切り離すことで、昭和39年(1964年)6月16日に主要メーカー56社が参加する「日本ラーメン工業協会」を設立して理事長に就任した。

そして、インスタントラーメンの製造業者は、特許が使えるのであれば、誰が元祖でもいいということで、特許紛争に勝利した安藤百福がインスタントラーメンの発明者となったという。

ただ、日清食品の安藤百福は、インスタントラーメンの元祖争いを制したが、安泰とは言えなかった。

東明商行の張国文から特許を購入した翌年の昭和37年4月に、明星食品がスープ別添付方式のインスタントラーメンを発売しており、安藤百福が持つ「味付け麺」に関する2つの特許の価値は低下していた。

しかも、昭和40年(1965年)にインスタントラーメンの需要の伸び率が鈍化したため、日清食品の安藤百福は海外に販路を求めて、昭和41年(1966年)に欧米視察旅行に出た。

このとき、バイヤーにチキンラーメンを食べてもらったとき、アメリカには丼と箸で食べるという文化が無いので、バイヤーはチキンラーメンを2つに折って紙コップの中に入れ、お湯をかけて食べた。

それを見た日清食品の安藤百福(呉百福)は、カップの中に即席麺を入れて販売するカップラーメンというアイデアを思う付き、昭和46年(1971年)に「カップヌードル」を開発するのだった。

スポンサードリンク

ブログ内検索

スポンサードリンク