わろてんか-北村藤吉のパーマ機械の実話

NHKの朝ドラ「わろてんか」で発生する北村藤吉(松坂桃李)とキース(大野拓朗)のパーマ機械事件の実話を紹介します。

わろてんか-北村藤吉(松坂桃李)のパーマ機事件

米問屋「北村屋」に多額の借金がある事を知しった北村藤吉(松坂桃李)は、借金を返済して米問屋「北村屋」を立て直すことで、結婚を反対する母・北村啄子(鈴木京香)に、藤岡てん(葵わかな)との結婚を認めさせようとした。

しかし、新規開拓も上手くいかないうえ、安売りをするライバル「天野屋」に次々に従業員や客を奪われていき、米問屋「北村屋」の経営は傾いていった。

そのようななか、北村藤吉(松坂桃李)は、芸人仲間のキース(大野拓朗)から儲け話を持ち込まれる。

イギリスから輸入したパーマの機械(電気式髪結い機/電髪)を安く買えるので、パーマの機械を買って一儲けしろというのである。

北村藤吉(松坂桃李)は、パーマの機械に半信半疑だったが、芸人仲間のキース(大野拓朗)と万丈目吉蔵(藤井隆)が「絶対に流行る」と言うので、その気になり、米問屋「北村屋」を担保にして高利貸しから金を借りて、パーマの機械を購入した。

ところが、このパーマの機械を試してみると、頭から煙が出る始末で、使い物にならない。北村藤吉(松坂桃李)は、大量の不良品を掴まされたのである。

しかも、北村藤吉(松坂桃李)は、英語が分からないので、契約書の内容も理解しないまま契約書にサインしており、取引相手を訴える事も出来なかった。

こうして、北村藤吉(松坂桃李)は、不良品のパーマ機と多額の借金が残ってしまい、米問屋「北村屋」を売って借金を清算することになってしまうのであった。

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わろてんか-パーマ機械事件の実話

「わろてんか」に発生する北村藤吉(松坂桃李)のパーマ機械事件のモデルは、横山エンタツのエピソードです。

横山エンタツは、ハワイに住んでいるマネージャーに誘われ、万歳(漫才)や浪花節など総勢9人の一座「瓢々会」を率いて、昭和4年(1929年)8月31日にアメリカ巡業へと旅立ちました。

そして、横山エンタツは、アメリカで「チャップリン」「ローレル&ハーディ」「ハロルド・ロイド」などの映画を観て衝撃を受けます。

日本の芸人は下品で低俗であり、差別される存在だったのですが、アメリカではお笑いが民衆に認められており、芸術と同様に評価されていたのです。

アメリカと日本違いに衝撃を受けた横山エンタツは、日本の芸能界に失望し、3ヶ月に亘るアメリカ巡業も失敗に終わったことから、帰国後は芸人を引退してパーマ機の販売という事業を始めます。

横山エンタツは、アメリカ巡業をした時にアメリカで流行していたパーマに目を付け、これは日本でも流行すると考え、有り金を叩いてパーマの機械を購入して日本に持ち帰っていたのです。

そして、横山エンタツは職人にパーマの機械を作らせ、実用新案登録まで登録したのですが、髪を冷やす道具を買って来るのを忘れたため、パーマ機は使い物にならず、事業は失敗に終わりました。

次に横山エンタツは、「買い物袋」事業を開始します。

横山エンタツは、アメリカのデパートで「買い物袋」を見て、これは当たると思い、「買い物袋」を大量に作って、日本のデパートに持ち込んだのですが、日本には風呂敷があると言われて全く売れず、「買い物袋」事業も失敗してしまいます。

そのようななか、万歳(漫才)の発掘と育成に力を入れていた吉本興業の横山エンタツが、横山エンタツに目を付け、吉本興業にスカウトします。

横山エンタツは日本の芸能界に失望していたので、林正之助の誘いを断ったのですが、林正之助も諦めません。

そこで、横山エンタツは、吉本興業に所属している花菱アチャコとコンビを組むことを条件に、吉本興業に入り、花菱アチャコとコンビを組んで、昭和5年5月に「エンタツ・アチャコ」を結成したのです。

なお、一般的に日本初の国産パーマ機を開発したのは、山野愛子となっています。

山野愛子はアメリカから持ち帰ったパーマ機を分解して、昭和9年(1934年)に国産パーマ機を開発したことでにより、パーマが本格的に普及していきます。

このころ公務員の初任給が45円だったの対し、昭和10年のパーメントウエーブの料金は10円から15円という高額でしたが、昭和10年にパーメントウエーブが大流行します。

しかし、昭和12年に日中戦争が勃発し、物資不足から、昭和14年に電力を消費するパーマに対する批判が高まり、パーマは自粛されました。パーマを掛けると非国民扱いされたので、天然パーマの人は、とばっちりを食ったといいます。

ちなみに、日本初の国産パーマ機を作った山野愛子は、吉本興業のお笑いコンビ「品川・庄司」の品川祐(「ミキティー」と叫ばない方)の祖母です。

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