わろてんか-北村隼也の実在のモデル

NHKの朝ドラ「わろてんか」に登場する長男・北村隼也(きたむら・しゅんや)の実在のモデルの紹介です。

わろてんか-北村隼也のあらすじとネタバレ

藤岡てん(葵わかな)北村藤吉(松坂桃李)が寄席「風鳥亭」の経営を開始してから4年後の大正3年(1914年)に、藤岡てん(葵わかな)と北村藤吉(松坂桃李)の間に第1子となる長男・北村隼也が生まれた。

北村隼也は、藤岡てん(葵わかな)や秦野リリコ(広瀬アリス)らに可愛がられながら、成長していくことになる。

そして、成長した北村隼也(成田凌)は、カリフォルニアに住んでいる祖母・北村啄子(鈴木京香)を頼ってアメリカへ遊学し、レビューやミュージカルについての見聞を広め、先進的なエンターテインメントを学んだ。

帰国後は北村笑店の経営に加わるつもりだったが、丁稚から始めるとい昔気質の藤岡てん(葵わかな)や武井風太(濱田岳)とぶつかりながらも、北村笑店の後継者として成長していく。

その一方で、加納つばき(水上京香)と出会い、恋に落ちるのだった。

北村隼也の実在のモデル

藤岡てん(葵わかな)のモデル「吉本せい」は、戸籍上8人の子供を産んでいるのですが、成長したのは、「三女・吉本峰子」「五女・吉本幸子」「六女・吉本邦子」「次男・吉本穎右(吉本泰典)」の4人だけです。

このため、北村隼也(成田凌)のモデルは、次男・吉本穎右(吉本泰典)で確定です。

次男・吉本穎右(吉本泰典)は、大正12年(1923年)10月26日に生まれたが、翌年の大正13年(1924年)2月13日に父・吉本泰三(吉本吉兵衛)が死去する。

このため、生まれたばかりの次男・吉本穎右が家督を相続し、母・吉本せいが親権を行使する形で、吉本興業を運営した。

こうして、吉本穎右は吉本興業の後継者として北野中学から早稲田大学・仏文科へと進学し、叔父・林正之助からも帝王学を学んでいった。

そして、戦時中の昭和18年(1943年)6月28日、早稲田大学に在学中の吉本穎右は、大阪の実家・吉本家に帰る途中に、名古屋に立ち寄り、名古屋の御園座を訪れ、楽屋でジャズ歌手として活躍していた笠置シヅ子と出会い、恋に落ち、交際を開始する。

昭和19年、吉本穎右は結核に感染していたが、笠置シヅ子と結婚を誓い合う。

そして、昭和20年(1945年)5月の東京大空襲で、吉本穎右も笠置シヅ子も自宅を焼失したため、吉本興業の東京支社長・林弘高の斡旋で、林家の隣家を借り、2人は同棲を始め、束の間の幸せを楽しんだ。

しかし、昭和20年(1945年)8月15日に終戦を迎えると、笠置シヅ子は早々に歌手としての活動を再開。吉本穎右も早稲田大学を中退して東京吉本で働く事になり、昭和20年待つに同棲を解消した。

これは、「吉本せい」が2人の結婚に大反対したので、同棲を解消したのだろう。

ただ、同棲は解消したが、その後も交際は続いており、昭和21年10月に笠置シヅ子の妊娠が判明する。

しかし、吉本穎右は結核が悪化しており、昭和22年(1947年)1月、甲子園にある吉本家の別邸へと移った。

笠置シヅ子は、芸能界を進退して主婦になるため、昭和22年(1947年)1月に芸能界を引退し、その後、出産のために入院した。

しかし、吉本穎右は昭和22年(1947年)5月19日に死去。笠置シヅ子は不安の中で吉本穎右の浴衣を握りしめながら、長女・亀井エイ子を出産した(注釈:笠置シヅ子の本名は「亀井静子」です)。

吉本穎右が「男の子なら『穎造』、女の子なら『エイ子』と名付けよ」と遺言を残しており、女の子が生まれたので、「亀井エイ子」と名付けられた。

通説では「吉本せい」は最後まで2人の結婚を反対していたと言われるが、実際は笠置シヅ子が妊娠したのを機に態度を軟化させ、話し合いは良い方向に向かっていたと言われてる。

娘の亀井エイ子も「。結婚はしたものの、せいさんを始めとする周囲の人たちには認められず、末入籍のままでした。しばらくして、私がお腹の中にいることがわかり、母は主婦に専念するということで、晴れて正式の夫婦として認めていただける、ということになりました」と証言している。

さて、吉本穎右の死後、「吉本せい」は孫に当たる亀井エイ子を引き取りたいと申し出たが、笠置シヅ子は生まれて直ぐに養子に出されていたので、娘にも同じ思いをさせたくないと思い、「吉本せい」の申し出を断り、シングルマザーとして生きていくことを選んだ。

なお、「わろてんか」の実話やネタバレは「わろてんか-あらすじとネタバレや実在のモデル」をご覧ください。

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