明星食品を創業した八原昌元と奥井清澄の立志伝

明星食品を創業した奥井清澄と八原昌元の生涯を描くインスタントラーメン立志伝の後編です。

前編は「明星食品の創業者・奥井清澄と八原昌元の立志伝」です。

サンヨー食品の台頭

サンヨー食品の井田毅が麺とスープを別にした「スープ別添付方式」を開発したことで、様々な味の即席麺を発売できるようになったが、明星食品はこの可能性を生かすことが出来なかった。

各社がスープ別添付方式の新商品を続々と投入していくが、明星食品は「スープ付・明星ラーメン」の売れ行きが好調だったことにあぐらをかき、新商品の投入が後手後手に回っていたのである。

そのようななか、群馬県の中堅メーカーのサンヨー食品が、昭和39年8月に即席麺で初の塩味となる「長崎タンメン」を発売した。

当時の即席麺は醤油味が主流で、即席麺業者は塩味の「長崎タンメン」を相手にしていなかったが、塩味の「長崎タンメン」は醤油味ばかりの即席麺の中で紅一点となって大ヒットし、サンヨー食品は大手メーカーへと躍進した。

そして、昭和40年から即席麺の需要は頭打ちして伸び率が鈍化するが、塩味の「長崎タンメン」は需要頭打ちの影響を受けずに売り上げを伸ばし、サンヨー食品は昭和40年(1965年)8月に東京でシェアトップとなった。

明星食品は全国地区では依然として首位をキープしていたが、関東・甲信越地方のシェアでは、サンヨー食品にシェア1位の座を奪われてしまった。

こうした事態に対して、明星食品の奥井清澄は、昭和40年(1965年)9月に「手打ち風・明星タンメン」を発売して、サンヨー食品に対抗した

「手打ち風・明星タンメン」の出だしは好調で、サンヨー食品の「長崎タンメン」と互角に渡り合い、劣勢を盛り返した。

しかし、サンヨー食品は、「長崎タンメン」の需要が頭打ちしたとみると、すかさず、昭和41年(1966年)1月に新商品「サッポロ一番しょうゆ味」を投入した。

新商品「サッポロ一番しょうゆ味」は即席麺の主流である醤油味であり、明星食品の主力「スープ付 明星ラーメン」と真正面から競合した。

しかも、市場調査の結果、「スープ付・明星ラーメン」よりも、「サッポロ一番しょうゆ味」を評価する結果が出た。

そして、明星食品は「サッポロ一番しょうゆ味」への対応が遅れたことから、王座から陥落してし、サンヨー食品が全国シェアでトップに躍り出たのである。

そこで、明星食品の奥井清澄は、ノンフライ麺という画期的な即席麺の開発を進めていたが、もはやノンフライ麺の開発を待つ猶予は無く、新商品の開発を命じた。

明星食品は連日に渡り、「サッポロ一番しょうゆ味」の対策を協議した結果、東京で評判の高い食べ歩き、神田小川町の小さなラーメン屋「粋香苑」のラーメンをモデルにして、新商品を開発することになった。

こうして開発されたのが、ロングセラー商品となっている明星食品の即席麺「明星チャルメラ」で、「明星チャルメラ」は昭和41年(1966年)9月7日に発売された。

「明星チャルメラ」は圧倒的な人気で、たちまちヒット商品となり、全国展開されていった。

明星食品は業界トップから陥落していたが、「明星チャルメラ」のヒットにより、売り上げベースでは、日清食品を抜いて、再び売上高トップへと返り咲くことに成功した。

大判化ブームで失態

エースコックは大阪の会社だが、早くから東京へ進出し、東京でシェアを持っていた。しかし、台頭してきた明星食品やサンヨー食品に、東京のシェアを奪われていた。

そこで、エースコックは起死回生をかけて、昭和42年(1967年)10月に麺100グラムに増量した大判「駅前ラーメン」を発売した。しかも、一般的な85グラムと同じ値段だったので、大判ブームを起こした。

こうした大判ブームに各社が追随し、サンヨー食品が「サッポロ一番」の大判を出して、日清食品も「出前一丁」の大判を出した。

しかし、明星食品は大々的なキャンペーンを展開する予定になっていたため、キャンペーンに備えて通常サイズの即席麺の市場在庫を増やしており、大判化に踏み切ることが出来なかった。

このようななか、明星食品の奥井清澄は、大判化の攻勢に耐えきれず、昭和43年4月3日に大判化に踏み切ったが、通常版の在庫を抱える小売店とのトラブルもあり、切り替えは順調にいかず、「明星チャルメラ」はかなりの市場を失ってしまった。

このころ、即席ラーメン業界は、日清食品・明星食品・エースコック・東洋水産・サンョー食品の大手5社がシェア84%を占めており、残りの16%に中小メーカー数百社がひしめき合うという過酷な状況だった。

中小メーカーは厳しい時代を迎えており、昭和43年には中堅メーカー松永食品工業・富士食品工業・第一食品工業・ナンバーワン工業などが倒産したほか、即席ラーメンから撤退する企業が相次でおり、業界大手の明星食品としても予断を許さぬ状況だった。

ノンフライ麺の開発

明星食品は即席麺を手がける一方で、パスタにも進出しており、その一環として、ラビオリ(イタリア風のミニ餃子)を常温流通させるために、ラビオリを乾燥させる研究が進めていた。

ラビオリを乾燥させる研究は失敗に終わったが、研究の過程で、電子レンジにも使用されるマグネトロンを使って即席麺を感想させることが出来ると分かり、油で揚げずに乾燥させる即席麺の研究が始まった。

マグネトロン方式でノンフライ麺を作ることが出来たが、マグネトロンは生産数がわずかで、マグネトロン方式ではノンフライ麺を製造することは商業的に成立しなかった。

しかし、マグネトロン方式に平行して、熱風で麺を乾燥させる方法でノンフライ麺を作る研究も行われており、熱風乾燥によるノンフライ麺の開発に成功した。

こうして、明星食品・日本製粉・三井物産の3社で設立した新会社「ダイヤ食品」から、昭和43年(1968年)9月8日にノンフライ麺「サッポロ柳めん」を発売した。

「サッポロ柳めん」というのは、サンヨー食品の「サッポロ一番」に対抗して名付けた。

ノンフライ麺は即席麺業界に革命を起こすほどの技術だったが、少し前の昭和43年8月19日にサンヨー食品が「サッポロ一番みそラーメン」を発売しており、みそラーメンブームが起きたため、ノンフライ麺「サッポロ柳めん」は注目されなかった。

そこで、明星食品もみそラーメンブームに便乗して「サッポロ生まれ・明星みそラーメン」を発売した。日清食品は「みそ味一丁」、エースコックも「みそ味ラーメン」を発売してサンヨー食品に追随した。

しかし、明星食品の「サッポロ生まれ・明星みそラーメン」は準備不足もあって、味が悪く、「味噌汁みたいだ」という不評で売れなかった。

結局、味噌ラーメンブームで短期で終わり、味噌ラーメンで生き残ったのは、味の良かったサンヨー食品の「サッポロ一番みそラーメン」だけだった。

こうして、サンヨー食品は「サッポロ一番みそラーメン」の大ヒットにより、「サッポロ一番」ブランドを確立したのだった。

さて、発売当初こそ注目されなかったノンフライ麺「サッポロ柳めん」だが、販売代理店が三井物産ということもあり、急激に売り上げを伸ばして注目を集めるようになっていた。

しかし、明星食品は、大判ブームや味噌ラーメンブームへの対応が遅れたうえ、ノンフライ麺「サッポロ柳めん」を別会社「ダイヤ食品」から発売したため、身内からも攻められる形となり、苦戦を強いられていた。

そこで、明星食品は、昭和44年(1969年)2月22日にノンフライ麺「明星中麺」を発売した。

経営的には後手後手に回っていた明星食品だが、ノンフライ麺「明星中麺」の大ヒットにより、勢いを取り戻した。

しかし、数ヶ月もすると、ノンフライ麺「明星中麺」の売れ行きは急激に悪化して、返品の山となった。

明星食品が強引な押し込み営業を行った結果、市場の在庫が膨れ上がり、回転率が悪化した。ノンフライ麺は油を使っていないので夏場でも劣化しないとされていたが、回転率の低下により、澱粉の劣化で品質悪化して味が落ち、返品が相次いだのだ。

さらに、人工甘味料「チクロ」の催奇形性や発がん性が問題となり、食品業界への不信感が募ったうえ、即席麺の需要が一気に低下したこともあり、明星食品は大きな打撃を受けてしまった。

カップヌードルと創業者・奥井清澄の死去

明星食品はスープ別添付方式の開発によって業界トップを走り続けてきたが、後手後手に回る経営手腕の甘さから、業界2位へと陥落し、日清食品が業界トップへ返り咲いた。

さらに、「サッポロ一番」ブランドを充実させて攻勢を掛けたサンヨー食品が昭和46年(1971年)に業界トップに躍り出て、日清食品が2位に陥落し、明星食品は3位へと後退した。

こうした事態に対して、明星食品の奥井清澄は、非常勤取締役の八原昌元に明星食品の業務に専念するように頼んだ。

八原昌元は、奥井清澄の良き相談相手であり、明星食品の社長代行も務めたが、リサーチ会社「農林コンサルタントセンター(ACC)」という自分の会社があったので、奥井清澄の誘いを断った。

しかし、奥井清澄の執拗な説得を受け、八原昌元はリサーチ会社「農林コンサルタントセンター(ACC)」を辞めて、昭和46年(1971年)に明星食品の専務・営業本部長となった。

そのようななか、袋麺で劣勢を強いられていた日清食品の安藤百福が、昭和46年(1971年)9月にカップラーメン「カップヌードル」を発売する。

明星食品の奥井清澄は、10年前の昭和36年にカップラーメン「明星叉焼麺(明星チャーシュー麺)」の開発に着手したが、カップの耐油性問題が解消できず、発売には至らなかった。

しかし、10年の間に技術は進歩していた。

日清食品の安藤百福も「カップヌードル」の開発時に容器の問題に突き当たっていたが、技術的な進歩もあって容器の問題をクリアし、フリーズドライという新技術で具の問題も乗り越え、「カップヌードル」の商品化に成功したのである。

しかし、袋入りの即席麺が35円なのに対して、日清食品の「カップヌードル」は100円と高額だったため、高いと言って問屋から相手にされず、通常の食品ルートでは販売できなかった。

そこで、日清食品の安藤百福は、自衛隊・警察・消防・レジャー産業などに販路を求め、カップヌードルの便利性は夜勤で働く人たちから次第に認められていったが、商業的には成功しているとは言えなかった。

そのようななか、昭和47年(1972年)2月に「浅間山荘事件」が発生し、極寒の中でモクモクと湯気が立ち上がるカップヌードルを食べる機動隊の姿がテレビで放送された。

これでカップヌードルに注目が集まり、カップヌードルは爆発的に売れ、各社が日清食品に追随してカップラーメンに参入した。

このため、世間はサンヨー食品と明星食品の動きに注目したが、両社とも動かなかった。

サンヨー食品は、「サッポロ一番」ブランドが強く、袋麺ではシェアトップなので、カップラーメンに参入を見送ったのである。

明星食品は経営が後手後手に回っていたので、カップラーメンに参入できなかったのだろう。

そのようななか、明星食品の社長・奥井清澄は、昭和47年の春にアメリカ視察から帰国したころから体調が悪化したが、東証2部上場を目指して激務を続けていた。

奥井清澄の体調は悪化の一途をたどり、昭和47年(1972年)10月に自宅療養に入ったが、思わしくなく、昭和47年11月に入院し、昭和48年(1973年)1月6日に死去した。

奥井清澄の死後、実弟の奥井昭が明星食品の社長に就任した。社長の奥井昭を補佐するため、八原昌元が代表取締役専務に就任した。

カップラーメンに参入

袋麺でシェア1位のサンヨー食品は、カップラーメンへの参入を見送っていたが、消費者や問屋からの要望を受けて、昭和48年(1973年)10月にカップラーメン「サッポロ一番スナック」を発売する。

明星食品は、特許紛争を避けるために開発していたカップの開発が遅れ、昭和49年(1974年)8月1日になって、ようやくカップラーメン「カップリーナ」を発売した。

その後も「カップリーナ」シリーズを充実させたが、後発組だけに明星食品のカップラーメンは不発に終わった。

東証2部上場と社長交代

明星食品の実質的な創業者・奥井清澄は、東証2部上場を実現することなく死去したが、弟・奥井昭が遺志を引き継いで社長に就任し、昭和54年(1979年)5月21日に明星食品の東証2部上場を果たした。

しかし、明星食品の業績は低迷していた。

社長・奥井昭は昭和55年(1980年)の春先から体調が悪く、昭和55年3月の創立30周年記念式典を終えると、療養に専念した。

そして、昭和55年5月末から、代表取締役専務の八原昌元が社長を代行したが、療養が長引くことから、社長・奥井昭は昭和55年9月に辞任して、八原昌元に社長を譲った。

第3次創業と高級化路線

明星食品は「スープ別添付方式」を開発して即席麺に革命を起こし、業界トップに君臨していたが、好調な売れ行きにあぐらをかいていたため、経営が後手後手に回り、王座から陥落して業績は低迷していた。

明星食品は即席麺の味は良かったのだが、売らなくても売れるという状況が続いていたため、営業が育たず、営業方面が弱かったようだ。

こうした事態に、新社長に就任した八原昌元は、「鬼の八原」になることを決意し、「第3次創業」を宣言して、数々の改革を打ち出す。その1つが「高級化」だった。

八原昌元は明星食品の社長に就任する前に、経営が悪化していた「明星外食事業」の社長を務めており、客の満足度を高めることで、一般の店よりも単価の高いうどんチェーン店「味の民芸」を成功させ、明星外食事業の経営を立て直していた。

このときの経験から、高価格でも満足させれば、客は高いと思わないということを知っていた八原昌元は、即席麺の高級化を掲げ、レトルトの具材を使用した高級即席ラーメンの開発を命じた。

消費者の10%は即席ラーメンに満足しておらず、即席ラーメンの利用頻度が低く、ラーメン屋へと流れていた。その満足していない10%を満足させる商品を開発するというのである。

こうして、開発されたのが高級インスタントラーメン「中華飯店」シリーズである。

消費者モニターで販売価格は200円が限度だという結果が出た。社内からも200円以上は無理だと言う意見が出たが、八原昌元は反対を押し切り、「中華飯店・鶏手羽ラーメン」を250円、「中華飯店・豚肉角煮ラーメン」を280円で販売した。

このころ、即席麺は安い物というのが一般的な認識であり、250円を超える価格は即席麺の常識を越えていたが、中華飯店シリーズの売れ行きは好調だった。

その後、中華飯店に「担々麺」と「五目ラーメン」がシリーズに加わり、「中華飯店・豚肉角煮ラーメン」は300円になり、残りの3商品は280円となった。

中華飯店シリーズは、500円の「特選中華飯店」やカップラーメンの「特選中華飯店」も販売され、メディアを騒がせ、大きな反響を呼んだが、手作りの限定生産だったため、業績を立て直すには至らなかった。

中華三昧で高級化ブーム

八原昌元は、中華飯店シリーズの成功により、高級化路線が間違っていないことを確信し、昭和56年(1981年)10月6日にスープに力を入れた具無しの高級即席麺「中華三昧」(120円)シリーズを販売した。

当時の袋麺は約60円で、「中華三昧」シリーズは、一般的な袋麺の倍の値段だが、発売当初から売れ行きは好調で、高級化即席麺ブームを起こした。嵐山工場をフル稼働させても間に合わず、他の工場にも「中華三昧」のラインを設置した。

「中華三昧」はマスコミでも話題となり、プロの中華料理人も概ね「中華三昧」に好評を下した。アンケートでも消費者は満足しており、120円という価格でも妥当という結果が出た。

会長に退いていた日清食品の安藤百福が、社長の長男・安藤宏寿を解任して社長に復帰したのも、高級化即席麺ブームへの危機感が原因だと言われている。

八原昌元が起こした高級化即席麺ブームは他社への脅威となり、昭和57年7月になって東洋水産が「華味三庁」を発売。昭和57年8月には日清食品が「麺皇」を発売し、ハウス食品工業が「楊夫人」を発売。昭和58年2月にはサンヨー食品が「桃里居」を発売するなど、各社が続々と高級即席麺に参入した。

こうして、明星食品は「中華三昧」と「中華飯店」の大ヒットにより、業績を持ち直したのだった。

日清食品との特許紛争

明星食品は昭和57年(1982年)10月21日に縦型カップラーメン「明星60秒ヌードルQuick-1(クイックワン)」を発売した。これまでは湯を入れてから2分から3分待たなければならなかったが、湯を入れて1分で食べられるという画期的な商品だった。

これに対して、日清食品が、明星食品に実用新案権の侵害を警告し、「明星60秒ヌードルQuick-1(クイックワン)」の販売停止を求めた。

日清食品は、カップヌードルを開発したときに、カップラーメンの容器に麺を固定して宙づりにする「中間保持」という方法を考案しており、実用新案権を取得していた。

このため、カップラーメンの中に入っている麺が底に着いていなければ、日清食品の「中間保持」の実用新案権を侵害しているというのだ。

明星食品は独自の製法で作っていることを説明していたが、日清食品は昭和58年(1983年)1月21日に関西明星食品を相手取り、「クイックワン」の製造と販売の差し止めを求め、神戸地裁に仮処分を申請した。

八原昌元は、「ラーメン王」と呼ばれた日清食品の安藤百福に一歩も引かずに渡り合い、裁判で、明星食品の「クイックワン」は麺がカップの底に着く「着床式」であり、日清食品の実用新案権を侵害していないことが確認された。

そして、裁判は日清食品と明星食品が双方の特許を尊重することで、昭和58年(1983年)10月6日に和解が成立した。

日清食品の安藤百福に勝ったのは、明星食品の八原昌元と、東洋水産の森和夫くらいでいだろう。

八原昌元が死去

昭和61年(1986年)9月、カップラーメンが袋麺を凌駕していくが、カップラーメンでヒットを出せずに苦しんでいた明星食品の八原昌元は、韓国大手の三養食品工業から即席麺を輸入するという暴挙に出て日本の即席麺業界に波紋を起こした。

そのようななか、八原昌元は、バブル景気まっただ中の昭和62年(1987年)10月には、世間の常識を破る1000円の「新中華三昧・特別仕様」を発売を発売して世間を驚かせた。

さらに、高級即席麺「新中華三昧・特撰菜箪」(360円)、普及版「新中華三昧」(120円)、電子レンジ用「新中華三昧特選カップ麺」(380円)を販売し、再び高級化即席麺で話題を呼んだ。

八原昌元はマーケティングを武器に数々の商品をヒットさせたが、高級化路線に走った明星食品の前に待ち構えていたのは、バブル崩壊にともなう消費の低迷だった。

このため、八原昌元は、高齢を理由に、平成3年(1991年)5月に専務の佐藤辰雄に社長を譲って会長に退き、平成3年12月に相談役に退いた。そして、平成16年(2004年)4月14日に死去した。

日清食品の軍門に降る

明星食品はカップラーメンで主力商品を持っていなかったが、平成5年(1993年)に発売した「明星一平ちゃん」がヒットし、カップラーメンでもようやく、存在を示そうとした。

しかし、バブル崩壊による景気の悪化やアメリカ進出に失敗した痛手もあり、明星食品は平成6年(1994年)9月期に上場来初の赤字へと転落してしまう。

明星食品はカップラーメンの「明星一平ちゃん」をブランド展開していき、平成7年(1995年)に「一平ちゃん夜店の焼そば」を大ヒットさせるが、焼け石に水だった。

このようななか、平成7年(1995年)に社長・佐藤辰雄ら経営陣が総退陣して、子会社の社長だった大谷善教が明星食品の社長に就任する。

明星食品は打倒・日清食品を目指してリストラを行い、創業家出身の取締役が次々と退任。1999年12月に創業者・奥井清澄の長男・奥井順太郎が退任して、明星食品の経営陣から創業者一族が消えた。

しかし、創業者一族は依然として明星食品の大株主であり、明星食品は経営陣とオーナーが分離された形となった。

ところが、創業者一族は、平成15年(2003年)11月に明星食品の発行株式10.2%にあたる441万株を約12億円で、アメリカの投資ファンド「スティール・パートナーズ」に売却したのである。

さらに、物言う株主として有名な村上世彰の投資ファンド「村上ファンド」も明星食品の株を取得して、経営陣に様々な要求を突き付けた。

そして、村上ファンドは、明星食品から増配を勝ち取って利益を上げて目的を果たすと、持ち株を投資ファンド「スティール・パートナーズ」に売却して立ち去った。

村上ファンドから株式を購入したスティール・パートナーズは、明星食品の株を買い増していき、最終的に明星食品の発行株式の23.1%を取得し、黒田賢三を社外取締役として明星食品へ派遣した。

当初は友好的な関係にあったが、スティール・パートナーズが一転して明星食品に対してMBO(経営陣による株式買収)を要求すると、明星食品はMBOを否決した。

すると、スティール・パートナーズは平成18年(2006年)10月に明星食品のTOB(株式公開買い付け)を発表したが、明星食品がTOBに反対したため、敵対的TOBへと発展したのである。

そして、明星食品は敵対的買収に対抗するため、友好的買収を選び、そのホワイトナイト(救世主)として、ライバルで業界トップの日清食品を選んだ。

日清食品は友好的買収に応じ、スティール・パートナーズの買付価格700円よりも高い、買付価格870円を提示した。

当然、価格の700円で買い取るというスティール・パートナーズに株を売る人は居らず、スティール・パートナーズのTOB(株式公開買い付け)は失敗に終わった。

そこで、スティール・パートナーズは、日清食品による友好的買収を支持し、日清食品に持ち株を買付価格870円で売却したのである。

こうして、日清食品は明星食品を傘下に収め、国内シェアの約半分を取得。スティール・パートナーズは株式の売却益36億円を得たのだった。

スティール・パートナーズは敵対的買収で明星食品を手に入れようとは考えておらず、日清食品に高く株を買い取らせることが目的だったとも言われる。

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