保田道世(やすだ・みちよ)の立志伝

NHKの朝ドラ「なつぞら」に登場する森田桃代(伊原六花)のモデルとなった色彩設定の保田道世(やすだ・みちよ)の立志伝です。

保田道世の立志伝

保田道世保田道世は、昭和14年(1939年)4月28日に東京都で大学教授の娘として生まれた。8人兄弟の次女だった。

保田道世は小学校に入る前から絵が好きで、小学校や中学校の展覧会でも賞を取っていた。父親からかわいがられて育ち、叱られた記憶は無いという。

しかし、父親は愛人と子供まで作っており、保田道世は中学2年生の時に両親が離婚し、母親に引き取られた。

そして、父親は離婚から半年後に倒れ、母親が介護したが、保田道世が高校へ入学する直前で父親は死んでしまった。

昭和30年(1955年)、保田道世は東京都立石神井高校に入学し、部活動は文学部と社会研究部に入ったが、部活動は積極的では無く、クラスメイトとの活動や遊びに積極的だった。

東映動画に就職

保田道世は高校3年生になって進路を決めるシーズンを迎えるが、父親の死後は600坪あった敷地内に建っていた別棟を人に貸したり、父親の家財道具などを売って暮らしており、大学へ進学できるような余裕はなかった。

また、クラスメイトと遊んでばかりで、勉強をしなかったため、学費の安い国立大学を受験しても落ちることは目に見えていたので、大学へ進学したいとも言い出せず、就職を選んだ。

このころ、女性の求人はデパートや銀行の事務員が定番だったが、保田道世は自分には合わないと思い、高校に来ていた求人で見つけた「東映動画」の「仕上げ」の試験を受けた。

保田道世は、中学生くらいまでは自分は絵が上手いと思っていたが、高校に入ってからは絵が上手いとは思っていなかったので、絵の仕事に就きたいとは思っていなかった。

しかも、ディズニーのアニメを観て面白いと思う程度で、アニメーションが何なのか、「仕上げ」がどのような仕事なのかも分からずに「東映動画」の「仕上げ」の試験を受けた。

すると、セルに書かれた簡単な絵に色を塗る実技試験が行われたのだが、保田道世はセルなど観たことも無かったので、「一体、これは何なんだろう」と思いながら色を塗った。

CM制作部に配属

保田道世は「仕上げ」の試験に合格し、昭和33年(1958年)4月に「東映動画(東映アニメーション)」に入社した。

「東映動画」は、「東映」が「東洋のディズニー」を目指して、昭和31年7月に「日動映画」を合併して発足した会社で、日本初の長編カラーアニメーション「白蛇伝」を制作している最中だった。

当時の「東映動画」は「長編(映画)制作部」と「コマーシャル(CM)制作部」に別れており、保田道世はCM制作部の「仕上げ」に配属された。

このCM制作部は、セルに色を塗る「彩色班」と「トレース班」に別れており、彩色を担当しながら、トレースを勉強し、試験に合格するとトレース班に入れるという仕組みだった。

保田道世は、何をやっても面白かったので、積極的にトレースの勉強をして、仕事を覚えていった。

TVアニメに異動

昭和38年(1963年)、手塚治虫の虫プロが日本初のTVアニメ「鉄腕アトム」の放送を開始しする。毎週1本のアニメを放送するという、当時としては無謀とも言える試みだった。

こうしたTVアニメという新たな流れを受け、長編アニメを主力にしていた東映動画も、TVアニメに参入し、同年12月からTVアニメ「狼少年ケン」の放送を開始した。

このころ、テレビアニメやCMの制作プロダクションが出来はじめ、東映動画のCM制作部からも独立して制作プロダクションを設立する人が出てきた。

こうした流れの中で、大勢の同僚が東映動画を辞めて、独立した制作プロダクションへと移っていった。

保田道世は、色々な制作プロダクションからヘッドハンティングを受けたが、「何か違う」と思い、東映動画に残った。

その後、不景気の影響でCM制作部の「仕上げ」が解散したため、保田道世は「仕上げ課」のテレビアニメーションへ異動し、TVアニメ「狼少年ケン」を手がけた。

高畑勲や宮崎駿と出会う

昭和39年(1964年)、保田道世は労働組合の書記に就任し、労働組合の副委員長・高畑勲と、書記長・宮崎駿と出会った。

このころの東映動画は、同じ会社でも、在籍している課が違えば、何をやっているのか全く分からないという状態で、保田道世は労働組合を通じて、高畑勲や宮崎駿と交流を持つようになる。

そして、保田道世は高畑勲や宮崎駿と出会うことにより、トレースの仕事を頑張ろうと思い、労働組合と仕事に奔走していた。

しかし、その一方では、保田道世はディスコに通っており、労働運動を本気で取り組んでいる人から「やっちん(保田道世)は、自分のやってることに矛盾を感じないのか」と、からかわれたという。

太陽の王子・ホルスの大冒険

CM制作部の「仕上げ」は解散していたが、昭和40年(1965年)になって、CM制作部にも「仕上げ」が必要だということになり、保田道世は「東映動画」からCM制作部への復帰を命じられた。

保田道世は、無責任な人事に不満に思い、嫌だと言って泣きわめいたが、不本意ながらもCM制作部へ復帰する。

ところが、CM制作部の「仕上げ」は1年ほどで再び解散してしまい、「仕上げ課」への異動を命じられる。

保田道世は、短期間で異動を繰り返す、会社の方針に反発したが、内心では高畑勲や宮崎駿が手がけている長編アニメ「太陽の王子・ホルスの大冒険」に参加できることを喜んだ。

そして、同僚が「仕上げ課」へ異動してくなかで、ただ1人、保田道世は「太陽の王子・ホルスの大冒険」への参加を直訴して、「太陽の王子・ホルスの大冒険」に加わり、トレースを担当した。

保田道世は、高畑勲と宮崎駿と仕事をしることにより、大きな刺激を受け、より一層丁寧な仕事を心がけた。

保田道世のトレースは正確なだけではなく、スピードも有り、高畑勲や宮崎駿から信頼を得ており、見せ場のトレースのほとんどは保田道世が手がけた。同僚からも「どうしてそんな魔術師みたいな描き方ができるの」と驚かれた。

しかし、「太陽の王子・ホルスの大冒険」は、労働組合の主導により制作されたこともあり、世間からは評価されず、東映の長編史上で最低を記録した。

このため、企画部長・関政治郎が引責退社し、高畑勲は降格処分となり、作画監督の大塚康生らスタッフは給与・ボーナスカット処分となった。

なお、保田道世は、「太陽の王子・ホルスの大冒険」のクレジットに名前を載せることに大きな意味を感じ、どうしても名前をクレジットに載せて欲しいと、制作部長に頼んだが、クレジットに名前を載せてもらえなかった。

東映動画を退社

保田道世は「太陽の王子・ホルスの大冒険」を手がけた後、昭和44年(1969年)公開の「長靴をはいた猫」でチーフ・トレーサーを務めた。

保田道世は、トレッサーして脂がのりきっており、「世界で三番目に上手い」と自負する程だった。

しかし、このころになると、トレースマシンの時代になっており、トレースの技術が生かせなくなり、仕事が楽しくなくなっていた。

また、「太陽の王子・ホルスの大冒険」に関わったことを切っ掛けに、保田道世の中に新たな価値観が生まれ、映画への関わり方について葛藤するようになっていた。

そこで、保田道世は、演出家の高畑勲に相談し、演出助手にするように頼んだが、会社の方針転換により、演出助手にはなれなかった。

そのようななか、自分の生き方について葛藤する保田道世は、労働組合の活動にも矛盾を感じるようになり、東映動画の退社を決めた。

すると、保田道世は、何か吹っ切れたのか、急にお洒落をするようになり、「長靴をはいた猫」を終え、映画「ちびっ子レミと名犬カビ」の途中で東映動画を退社した。

Aプロダクションに入社

保田道世は、東映動画を辞めたものの、自分のやりたい仕事が分からず、銀座のジャズ喫茶をさまよい歩き、悶々とした日々を過ごした。

そして、色々な人から色々な仕事に誘われたが、どれもピンとこず、働きながら仕事を探すことにして、昭和44年(1969年)2月に「仕上げ」としてAプロダクションに入社した。

Aプロダクションには、東映動画を辞めたアニメーターの大塚康生が在籍しており、宮崎駿が大塚康生に保田道世が辞めたことを話していたのだ。

しかし、まもなくして仕事探しは停止。なんと、保田道世は入社4ヶ月目で、9歳も年下の同僚・松下幹夫と恋に落ちて同棲を開始したのである。

保田道世は会社から台湾のアニメーターの育成を頼まれたが、松下幹夫と同棲をしていることを理由に仕事を断っている。

高畑勲と宮崎駿に再会

昭和46年(1971年)4月に高畑勲と宮崎駿が東映動画を退社し、アニメ「長靴下のピッピ」を手がけるためにAプロダクションに入社してきた。しかし、原作者からアニメ化の許可が下りずに、「長靴下のピッピ」は中止になった。

その後、大塚康生が手がけていたTVアニメの第1シリーズ「ルパン三世」は、スポンサーの意向でハードボイルドから子供向けへと路線変更を余儀なくされ演出家・大隅正秋が降板した。

このため、高畑勲と宮崎駿は大塚康生の要請により、第1シリーズ「ルパン三世」の放送途中から演出を務めた。

保田道世も第1シリーズ「ルパン三世」でトレースを務めたが、第1シリーズ「ルパン三世」は視聴率が悪く、第23話で打ち切りとなった。

その後、保田道世は、大塚康生・小田部羊一・宮崎駿・高畑勲と共に映画「パンダコパンダ」「パンダコパンダ・雨ふりサーカス」を手がけ、トレースを担当した。

ズイヨー映像へ移籍

昭和48年(1973年)5月、Aプロダクションに労働組合が発足し、保田道世は副委員長を引き受けた。

しかし、高畑勲はTVアニメ「アルプスの少女ハイジ」を作るために、ズイヨー映像(日本アニメーション)へ移籍することを決めており、保田道世は副委員長を引き受けたことを後悔するのだった。

その後、Aプロダクションの小田部羊一・宮崎駿・高畑勲が「アルプスの少女ハイジ」を作るために、ズイヨー映像へ移籍する。

保田道世は副委員長の任期を終えると、高畑勲を追いかけて、ズイヨー映像へ移籍しようとしたが、ズイヨー映像のスタジオが聖蹟桜ヶ丘に移転することを知り、「聖蹟桜ヶ丘なんて遠いところまで通うのは嫌だ」と思い、移籍を止めた。

しかし、昭和49年(1974年)1月にTVアニメ「アルプスの少女ハイジ」の放送が開始されると、興味の無い作品を手がけていた保田道世は「アルプスの少女ハイジ」を観て、再び心を動かされる。

しかし、保田道世は徹夜で遊んでも、仕事で徹夜をするなどとんでもないと考えていたので、「アルプスの少女ハイジ」の「仕上げ」のチーフが連日の徹夜続きだと聞いて、家庭と仕事の両立に不安を感じ、ズイヨー映像への移籍を迷うのだった。

その後も保田道世は移籍を躊躇していたが、毎週、「アルプスの少女ハイジ」を観ているうちに「高畑さんのところに飛び込んで行こう」と決意し、昭和49年(1974年)4月にズイヨー映像へ移籍した。

そして、保田道世は「アルプスの少女ハイジ」で、トレースとセル検(セル検査)を担当した。

セル検は彩色の終わったセルを見て、色の塗り忘れや色の塗り間違いを探す仕事で、夜中に1人でセルをチェックする孤独な仕事だった。

このため、保田道世はズイヨー映像へ移籍して以降、次第に徹夜が増えていった。

色彩への道

保田道世は、「アルプスの少女ハイジ」と同時に作っていたアニメ「小さなバイキング」で、初めて色彩の仕事を手がけた。

色彩設計は美術監督の仕事だが、ズイヨー映像(日本アニメーション)では明確な仕事の区分が無く、出来る人がやるという感じだったので、美術監督が大まかな色を決めると、カットごとの細かい色は保田道世が決めたのである。

これが「色指定」と呼ばれている仕事だが、元々は美術監督の仕事だったので、この時は呼び方がなく、後に高畑勲が「色指定」と名付けた。

さて、保田道世は、色彩の仕事を手がけるのは初めてだったが、東映動画時代から、色のことまで考えてトレースしていたので、これまでは頭の中で考えていたことを表に出すだけだったという。

そして、「フランダースの犬」と「母をたずねて三千里」でも保田道世が色指定を担当し、「未来少年コナン」で初めてキャラクターの色彩設定を全て任された。

保田道世は「未来少年コナン」で、「夜なら黒く見えるはずだ」と言い、人の肌を黒くしたら、画面が真っ暗になってしまったり、「水中なら人の肌は青く見えるはずだ」と言い、肌の色を青くするなど、後から考るとおかしなミスをした。

宮崎駿と高畑勲が退社

保田道世は自分に与えられた仕事を一生懸命やることにより、高畑勲に応えようとしていた。「赤毛のアン」では色彩でも高畑勲に応えようと思い、様々なことを学んでいった。

そのようななか、「テレコム・アニメーションフィルム」に移っていた大塚康生が劇場版アニメ「ルパン三世・カリオストロの城」を手がけることになった。

その噂を聞いた宮崎駿は「赤毛のアン」の途中で日本アニメーション(ズイヨー映像)を辞めて「東京ムービー新社」へ移り、「ルパン三世・カリオストロの城」の監督を務めた。

高畑勲も「赤毛のアン」が終わると、「テレコム・アニメーションフィルム」へと移り、大塚康生が手がける劇場版アニメ「じゃりン子チエ」で脚本と監督を務めた。

保田道世は1週間に1度しか自宅に帰れないという過酷な日々を過ごしており、高畑勲から「テレコム・アニメーションフィルム」へ誘われたが、日本アニメーションで大事にされていたので、会社を辞める決心が付かず、誘いを断った。

風の谷のナウシカ

保田道世は昭和57年(1982年)放送の「南の虹のルーシー」を手がけていたころ、いくら良い色を使っても、作品の善し悪しは変わらないことに気付き、明確な意思を持った監督が必要だと思うようになった。

このため、作品のために仕事をするという気持ちが薄れ、生活のために仕事をしていた。

そこで、保田道世は高畑勲に相談したものの、「日本アニメーション」を辞める決意が出来なかった。

そのようななか、昭和58年(1983年)6月に高畑勲が初プロデューサー、宮崎駿が原作・脚本・監督を手がける「風の谷のナウシカ」を制作することが決まった。

その年の夏、保田道世は高畑勲から「風の谷のナウシカ」に誘われ、「凄いものをつくるんだな。何か新しいことが始まるかもしれない」と思い、直ぐにでも参加したいと思った。

しかし、保田道世はTVアニメ「ミームいろいろ夢の旅」を手がけている最中だったので、途中で投げ出すことが嫌だった。また、年齢も44歳になっており、会社を辞める踏ん切りが付かなかった。

悩んだ保田道世は、「日本アニメーション」のプロデューサーに相談すると、「辞めないで、やればいいんじゃないか」という意見があったので、その言葉に甘えて、「ミームいろいろ夢の旅」をやりながら、「風の谷のナウシカ」を掛け持ちすることにした。

こうして、保田道世は2本を掛け持ちしたが、あまりにも色を決めなければならないキャラクターが多すぎて、余裕が無く、色彩を様式化するしかなかった。

後で、高畑勲から様式化の指摘を受けたが、それでも、昭和59年(1984年)公開の「風の谷のナウシカ」は大きな反響を呼んだ。

そして、昭和60年(1985年)、保田道世は仕事の掛け持ちで会社に迷惑をかけたこともあり、様々な不安を抱えながらも、「日本アニメーション」を退社して、フリーになった。

「天空の城ラピュタ」でジブリに参加

保田道世は会社に辞表を提出した直後、高畑勲から、押井守が手がける「天使のたまご」を紹介され、「天使のたまご」を手がけた。

そして、「天使のたまご」の制作が始まる頃、高畑勲のプロデュース、宮崎駿の原作・脚本・監督で映画「天空の城ラピュタ」の制作が決定し、保田道世も「天空の城ラピュタ」に誘われた。

このとき、「風の谷のナウシカ」で成功した「徳間書店」がアニメに本格進出をしようとしており、高畑勲が「スタジオを作るべきだ」と進言した。

そこで、「徳間書店」が「天空の城ラピュタ」を制作するために「株式会社スタジオジブリ」を設立した。

スタジオジブリは、スタジオだけを用意し、社員は雇わず、作品の度にスタッフを集めて、作品が完成すればスタッフを解散するという方式がとられた。

「火垂るの墓」と「となりのトトロ」の掛け持ち

昭和61年(1986年)上映の「天空の城ラピュタ」は小ヒットだったが、一定の反響があったことから、次回作が検討され、昭和62年に高畑勲が手がける「火垂るの墓」と、宮崎駿が手がける「となりのトトロ」の2本立てが決まった。

1つのスタジオで長編アニメ2本を制作するというのは、前代未聞のことだった。

保田道世は、高畑勲から頼まれて「火垂るの墓」で色彩設計を担当することになった。

しかし、宮崎駿は、色彩設計を頼もうとしていた人が都合が悪くなったため、後から保田道世に色彩設計を頼み、高畑勲と宮崎駿で保田道世の取り合いになった。

保田道世は、どちらも断れないため、両方を掛け持ちすることにして、「火垂るの墓」をメーンにしてキャラクター色彩設計を務め、「となりのトトロ」では色彩設計を担当し、色指定は水田信子に任せた。

こうして、保田道世は、宮崎駿や高畑勲の世界を色で表現しようと思い、茶色のカーボンや新しい絵の具を作った。

ところが、高畑勲は、動画の遅れにより、スケジュール的に「火垂るの墓」が間に合わないと分かると、保田道世に無断で色を塗らないシーンを決めて、一部をモノクロへと変更して、「火垂るの墓」を公開した。

すると、「火垂るの墓」を観た人はモノクロのシーンを演出だと思ってくれたので、高畑勲は安心していたが、保田道世から怒りの手紙が届いたので、慌てて謝罪の手紙を送った。

こうした経緯から、保田道世は「火垂るの墓」の公開後も、モノクロのシーンの色を塗り続け、完成したシーンからワンカットずつ差し替えていき、「火垂るの墓」を公開中に完成させた。

「火垂るの墓」と「となりのトトロ」は、興行成績は振るわなかったものの、数々の賞を受賞して高く評価され、グッズ売り上げも伸びて、ロングセラーとなり、TV番組「金曜ロードショー」で何度も放送されている。

このとき、保田道世は47歳となっており、「火垂るの墓」を手がけた頃から、体力の衰えを感じ、肩こりなどに悩まされ、鍼灸院へ通うようになった。

魔女の宅急便

昭和63年(1988年)4月、映画「となりのトトロ」が完成したころ、映画「魔女の宅急便」の制作が決まった。

映画「魔女の宅急便」は大作の予定ではなかったので、プロデューサーを務める宮崎駿は、若手の演出家や脚本家を起用した。

保田道世も「火垂るの墓」と「となりのトトロ」の掛け持ちをしていたので、1本休むことにして、「魔女の宅急便」の色彩設計を若手に任せることにした。

ところが、宮崎駿は若手に書かせた「魔女の宅急便」の脚本がイメージと違ったので、自分で脚本を直していくうちにイメージが広がり、「火垂るの墓」や「となりのトトロ」に並ぶ大作になってしまった。

このため、若手には荷が重いということで、宮崎駿が監督を務めることになり、保田道世も色彩設計を担当することになった。

「魔女の宅急便」ではセルに機械の傷が入るという問題が発生し、原因が分かるまで苦労したので、保田道世は年齢や体力的なこともあり、仕事の合間を2~3ヶ月、空けることに決めた。

「おもひでぽろぽろ」でジブリの社員に

保田道世が映画「魔女の宅急便」の仕事を終えて休みを取っていると、高畑勲が脚本・監督、宮崎駿がプロデューサーを務める映画「おもひでぽろぽろ」の制作が決定し、保田道世は色彩設計を務めた。

ジブリは作品ごとにスタッフを集め、作品が完成したらチームを解散するという方法をとっていた。

このころ、アニメーターの給料は出来高制で、給料は世間の相場の半額くらいという悲惨な状態だった。

そこで、宮崎駿が良いアニメを作るにはスタッフの社員化が必要だと言い、スタジオジブリは正社員の採用を開始する。

保田道世は会社から「保険証をもってきて。ちょっと変えるから」と言われ、気付いたら正社員になっていたという。

保田道世は、作品が終わるごとにスタッフの次の仕事の世話をしていたので、スタッフが正社員化したことにより、スタッフ解散時の負担が減った。

そして、自分の給料は上げて欲しいとは言わず、「仕上げ」スタッフの給料を上げて欲しいと会社に頼んで、スタッフの給料を上げてもらった。

さて、映画「おもひでぽろぽろ」は、「思い出編」と「現在編」に別れており、実質2本のアニメを作ってるようなもので、完成予定を半年も遅れ、スタッフは疲弊したが、「おもひでぽろぽろ」は大ヒットした。

紅の豚

スタジオジブリは、映画がヒットすれば次作を作るというスタンスだったが、スタッフを社員化したことにより、作品を作り続けなければならなくなった。

そこで、「おもひでぽろぽろ」の制作中に、宮崎駿の原作・脚本・監督の映画「紅の豚」の制作が決定した。

「紅の豚」は、日本航空の機内上映用の短編アニメとして制作される予定だったので、スタッフは若手が担当したが、宮崎駿が脚本を書いているうちにアイデアが広がり、長編となった。

このため、若手ばかりでは荷が重くなり、保田道世も「紅の豚」に借り出され、「色彩チーフ」と「仕上チーフ」を務めた。

映画「紅の豚」は主人公が豚だったので、様々な反響を呼んだが、映画は大ヒットした。

平成狸合戦ぽんぽこ

宮崎駿が「豚の次は狸」と言ったので、高畑勲が原作・脚本・監督を務める「平成狸合戦ぽんぽこ」(平成6年公開)を制作することになった。

保田道世は、目が見えにくくなっており、体力的な衰えを感じ、「これを最後の1本にしよう。だから精魂込めて大切にやろう」と考え、「平成狸合戦ぽんぽこ」でキャラクター色彩設計と仕上監督を務めた。

「平成狸合戦ぽんぽこ」で試験的にCGが導入されており、保田道世は百瀬義行に操作方法を教えてもらい、デジタルペイントを体験し、「平成狸合戦ぽんぽこ」でデジタルペイントがあればと驚くのだった。

耳をすませば

保田道世は、平成7年(1995年)公開の「耳をすませば」と「On Your Mark」を掛け持ちし、色彩設定を手がけた。

保田道世は「耳をすませば」で色彩設定を、宮崎駿がチャゲ&飛鳥の「On Your Mark」のプロモーションビデを作ると言い出したので、「On Your Mark」でも色彩設計を務めることになった。

保田道世は「耳をすませば」は427色を使用したが、「On Your Mark」ではそれを超える450色を使用しており、膨大な仕事をこなした。

また、この「On Your Mark」が切っ掛けとなり、スタジオジブリにCG部が発足した。

もののけ姫で絵の具問題

保田道世は、平成9年(1997年)公開の「もののけ姫」で色彩設計を務めた。「もののけ姫」では絵の具問題に悩まされた。

保田道世の絵の具を作ってくれていた絵の具メーカー「スタック」の職人・道家正則が、持病の悪化により、前作「耳をすませば」の制作途中で退社してしまったのである。

絵の具問題に直面した保田道世は、ディズニーも使用していたカナダの絵の具メーカー「クロマカラー」の絵の具に着目したが、日本の絵の具メーカーの衰退を心配して苦悩する。

保田道世は苦悩の末に「クロマカラー」の絵の具を使用することに決めたが、発注した色と違ったり、サンプルと色が違うという問題が起きた。

このため、保田道世は「クロマカラー」の絵の具の使用を一部にとどめ、残りは国内メーカー「スタック」「太陽色彩」の絵の具を使用した。

「もののけ姫」でデジタルペイントを導入

アニメ界はデジタル化が進んでおり、スタジオジブリでも平成6年(1994年)公開の「平成狸合戦ぽんぽこ」で初めてCGが導入され、スタジオジブリは平成7年(1995年)にCG室を設置された。

「もののけ姫」でも一部シーンはCGで制作されており、保田道世はCGで制作されたシーンの色彩の「仕上げ」もデジタルペイントを採用した。

しかし、このとき、保田道世は、デジタルペイントはCGで制作されたシーンだけの予定で、パソコンは色を試してみたり、色彩設定のバランスを見る程度と考えていた。

そのようななか、「もののけ姫」の原画の枚数が増加していき、このままでは「仕上げ」が納期に間に合わないという事態になった。

保田道世は「火垂るの墓」の「仕上げ」が公開までに間に合わなかったことを悔やんでおり、方々に相談すると、パソコンが仕えると分かったので、パソコン5台を導入して人を集め、デジタルペイントで処理した。

その結果、保田道世はデジタル化は避けられないと考え、スタジオジブリを全面デジタル化させたと言われる。

宮崎駿は「俺の時代にコンピューターは使わない」と宣言していたが、保田道世の鶴の一声により、デジタル化の導入を認めたという。

仕上げのデジタル化

平成11年(1999年)公開の映画「ホーホケキョ・となりの山田くん」(監督は高畑勲)で、保田道世は彩画監督を務めた。

保田道世は「ホーホケキョ・となりの山田くん」の制作に先立って、スタッフを率いてアメリカ研修を行い、「仕上げ」をデジタル化した。

パソコンで色を塗ることによって、絵の具の問題が無くなり、使用する色も無制限となった。セルを乾かす行程も必要なく、色パカ(塗り間違い)の修正も簡単になった。

また、保田道世は「仮カラー(仮塗り)」という方法を考案した。「仮カラー」とは、仮の色を塗っておき、後で仮の色を指定された色に一括変換するという方法である。

「仮カラー」により、保田道世の色指定が遅れても、作業を止めることなく進めることが出来るようになった。

晩年

その後、保田道世は映画「千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」「ゲド戦記」で、色彩設計を務め、平成20年(2008年)公開の「崖の上のポニョ」を最後に現役を引退した。

しかし、宮崎駿に引っ張り出され、平成25年(2013年)公開の「風立ちぬ」で色彩設計を担当し、「風立ちぬ」を最後にスタジオジブリを退社した。

その後、保田道世はガンで入院し、病院を変わる当日の平成28年(2016年)10月5日に死去した。77歳だった。

保田道世の備考

  1. 全てのセルが頭に入っていたので、電話で「何カットの後ろの方に居る人の洋服の色が分からない」と質問されても、直ぐに何色か答えられた。
  2. 「フランダースの犬」は主人公ネロと性格が違い過ぎたので、分からず、「母をたずねて三千里」も話が深刻すぎて、分からなかった。
  3. お洒落が好きで、ファッション誌「an・an」を創刊から愛読していた。
  4. フィルムの知識もプロ並みだったので、フィルムの現場にも注文を付けており、フィルムを現像する人からも一目置かれていた。
  5. アニメ業界は中国や韓国の下請けにトレースや色彩を発注するようになるが、保田道世は「日本の技術者を育てて、仲間をつくっておかなければ、私たちの仕事はできなくなってしまう」と言い、外国への発注を禁止した。
  6. 宮崎駿や高畑勲も逆らえず、保田道世はスタジオジブリの影の支配者と呼ばれたという噂もある。
  7. 保田道世は松下幹夫と同棲を開始し、「結婚」という表現を使っているが、婚姻にはこだわっておらず、映画「もののけ姫」の時点では入籍はしていない。
  8. 宮崎駿が「戦友」と呼び、高畑勲が「同志」と呼んだとされている。
  9. 同僚から「やっちん」と呼ばれた。

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