吉本せいの息子・吉本頴右(よしもとえいすけ)の立志伝

吉本興業の創業者・吉本せい(林せい)の次男・吉本頴右(吉本泰典)の立志伝の立志伝です。

吉本頴右(吉本泰典)の立志伝

吉本頴右(よしもと・えいすけ/吉本泰典)は、大正12年(1923年)10月26日に大阪府で、吉本興業の創業者・吉本泰三(吉本吉兵衛)の次男として生まれた。母は吉本せい(林せい)である。

吉本頴右は次男として生まれたが、既に長男・吉本泰之助が夭折していることから、跡取り息子として生まれた。

初めは「吉本泰典」であったが、後に「吉本頴右(よしもと・えいすけ)」と改名した。

さて、父・吉本泰三(吉本吉兵衛)と母・吉本せい(林せい)は、家業の荒物問屋「箸吉」が廃業したことを切っ掛けに、明治45年(1912年)4月1日に寄席の経営を開始すると、瞬く間に力を拡大して大正11年(1922年)に大阪の演芸界を制覇し、吉本王国を築いた。

しかし、吉本頴右が生まれた直後の大正13年(1924年)2月13日に父・吉本泰三(吉本吉兵衛)が39歳という若さで死去してしまう。

長男・吉本泰之助は夭折しており、母・吉本せい(林せい)は生まれたばかりの吉本頴右に家督を相続させ戸主とした。

そして、母・吉本せい(林せい)は吉本頴右の親権を行使するかたちで吉本興行部(吉本興業)を運営し、実質的な経営は母・吉本せいの弟・林正之助に任せた。

以降は、林正之助が吉本興行部(吉本興業)の実質的経営者になるが、林正之助は吉本頴右に吉本興行部を相続させることを確約しており、吉本頴右は吉本興業の後継者として育った。

吉本頴右は、北野中学から早稲田大学・仏文科へと進学。吉本興業を背負うべく、叔父・林正之助からも帝王学を学んでいった。

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笠置シズ子との出会い

戦時中の昭和18年(1943年)6月28日、早稲田大学に在学中の吉本頴右(21歳)は、大阪の実家・吉本家に帰る途中に、名古屋に立ち寄り、名古屋の御園座を訪れていた。

そして、名古屋の御園座の楽屋で、9歳上のジャズ歌手・笠置シヅ子(30歳/亀井静子)と出会い、お互いに一目惚れする。

笠置シヅ子は「スイングの女王」として人気を博していた時期もあったが、戦争の影響で「敵性歌手」に指定されてしまい、戦地慰問興行には参加出来ず、国内の軍事工場などを慰問していた時期だった。

笠置シヅ子は、名古屋の太陽館に出演するために名古屋を訪れており、御園座で知り合いの辰巳柳太郎が公演していたので、辰巳柳太郎の楽屋へ挨拶に来たのだ。

その時は、2人は何も言葉は交わさなかったが、吉本頴右は、その後、太陽館の笠置シヅ子(亀井静子)の楽屋を訪れて挨拶をした。

吉本頴右が明日、大阪の実家・吉本家に帰る事を教えると、笠置シヅ子も明日、名古屋を発って神戸の相生座に出演する事になっていたので、笠置シヅ子の方から「一緒に乗りましょうか」と誘った。

翌日、2人は同じ汽車に乗った。吉本頴右(吉本泰典)の目的地は大阪だったが、神戸まで行き、笠置シヅ子を降ろしてから、大阪へと戻った。

束の間の同棲生活

出会った翌年の昭和19年(1944年)、吉本頴右(22歳)は結核を患ったが、笠置シヅ子(31歳)と結ばれ、結婚を誓い合った。

昭和20年(1945年)5月の東京大空襲で、2人とも自宅を焼失したため、疎開しようとしていた。

しかし、吉本頴右の叔父で吉本興業の東京支社長・林弘高が隣家を借りており、焼け出された知人を収容しており、2人は林弘高に招かれて、林弘高の隣家に移り住み、部屋は違えど、同じ屋根の下で同居を始めた。

戦況は悪化の一途をだ取っており、苦しい時期であったが、2人は幸せな時間を過ごした。

結核の悪化

昭和20年(1945年)8月15日に玉音放送が流れ、日本は敗戦を迎えた。

戦後、芸能界の復興は早く、笠置シヅ子も、昭和20年(1945年)11月に東京・有楽町の日本劇場で戦後第1回公演「ハイライト」に出演して、戦後の活動を開始した。

吉本頴右も早稲田大学を中退して、昭和21年(1946年)から吉本興業東京支社で働く事になったので、笠置シヅ子(亀井静子)は昭和21年1月に林家の隣家を出て同棲を解消した。

昭和21年、笠置シヅ子が信頼していたプロデューサー山内義富が吉本興業に入社していたので、吉本興業の東京支社で働き始めた吉本頴右は、山内義富を笠置シヅ子のマネージャーに付けた。

その後も2人は仕事の合間を縫って交際を続けており、昭和21年(1946年)10月に笠置シヅ子(33歳)は妊娠に気付いた。

このようななか、吉本頴右は吉本家の財産を整理しなければならないため、大阪の吉本興業へと戻った。

結婚して芸能界から引退する笠置シヅ子は、昭和22年(1947年)1月19日の主演舞台「ジャズカルメン」を最後に引退して、出産のため、東京・目黒の桜井病院に入院した。

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吉本頴右の死

吉本興業を一代で築き上げた母・吉本せいは、次男の吉本頴右を溺愛しており、笠置シヅ子との結婚に反対していた。

母・吉本せいが結婚を反対した理由については、「笠置シヅ子が9歳上」「吉本せいは芸能界の裏も表も知っていたから」「吉本興業にとって芸能人は商品だから」など諸説があり、本当の理由は不明である。

しかし、笠置シヅ子が妊娠してからは、2人の結婚は周囲から公認されるようになっており、猛反対していた母・吉本せいも態度を軟化させていた。

ところが、吉本頴右は治療の甲斐も無く、悪化の一途をたどり、昭和22年(1947年)5月には憔悴し、危篤状態の一歩手前となった。

叔父・林正之助は、最後に一目でも笠置シヅ子に会わせてやろうと考え、母・吉本せいを説得し、船をチャーターして東京から妊婦の笠置シヅ子を呼び寄せようとした。

しかし、吉本頴右は、身重の笠置シヅ子を気づかって、叔父・林正之助の提案を断った。

このため、吉本頴右は、笠置シヅ子(34歳)と再開する来なく、昭和22年(1947年)5月19日に死去した。享年25だった。

同日、東京・目黒の桜井病院に入院していた笠置シヅ子はマネージャー山内義富から吉本頴右の死を知らされた。

笠置シヅ子は、悲しみと不安のドンぞきに突き落とされ、絶望のなかで吉本頴右(吉本泰典)の浴衣を握りしめながら、昭和22年(1947年)6月1日に長女・亀井エイ子を出産した。

その後、吉本興業の前田栄一が来て、「男の子なら『頴造』、女の子なら『エイ子』と名付けよ」という吉本頴右の遺言を伝え、吉本頴右が笠置シヅ子の為に残した、3万円が入った通帳と印鑑を渡した。

(注釈:3万円は相当な額だったはずだが、急激なインフレで価値が下がっており、この頃の3万円は平成時代の価値で300万円程度にしかならない。)

母・吉本せいは、葬儀のとき、吉本頴右の棺桶に笠置シヅ子の写真を入れてやった。

吉本頴右(吉本泰典)の死後

吉本頴右の死後、母・吉本せい(林せい)は、孫に当たる亀井エイ子を引き取りたいと申し出た。

しかし、笠置シヅ子は生まれて間もなく養子に出され、両親の顔を知らずに育っていたことから、娘・亀井エイ子にも同じ思いをさせたくないとして、吉本せいの申し出を断った。

笠置シヅ子は芸能界を引退していたが、娘・亀井エイ子を育てるため、作曲家・服部良一に「先生、たのんまっせ」と新曲を頼んだ。

こうして、作曲家・服部良一は「東京ブギウギ」を作曲し、笠置シヅ子は出産から、わずか3ヶ月後の昭和22年(1947年)9月10日に「東京ブギウギ」のレコーディングを行って歌手に復帰した。

そして、笠置シヅ子は娘・亀井エイ子を抱えて舞台に上がり、「ブギの女王」としてスターへの道を歩んでいくのだった。

こうして、吉本頴右の血筋は娘・亀井エイ子へと繋がるのだが、亀井エイ子は吉本の籍には入っていないので、吉本家の家系図としては吉本頴右の家系は断絶した。

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