吉本せいの生涯-吉本興業と反対派の提携

NHKの朝ドラ「わろてんか」のモデルとなる吉本興業の創業者・吉本せいの生涯を描く立志伝「吉本せいの生涯」の第6話「吉本興業と反対派の提携」です。

第6話より前については目次「「わろてんか」の実話「吉本せいの生涯」」から選んでください。

吉本興業が反対派と提携

吉本泰三は、「第二文芸館」の経営権を購入すると、「第二」を外して、「文芸館」として明治45年(1912年)4月1日に寄席の営業を開始するのだが、そこで問題になるのが、寄席に上げる芸人である。

その点に関しては、夫・吉本泰三が「そこはワシに任しといてんか」と言って胸を叩き、吉本せい(林せい)の知らないところで、「浪速落語反対派(岡田興行部)」の興行主・岡田政太郎と提携して、浪速落語反対派の芸人を「文芸館」に上げる事になった。

そこで、「文芸館」の営業を開始する前に、業務提携した「浪速落語反対派」の岡田政太郎について少し紹介しておきたい。

岡田政太郎は、大阪府中河内郡池之島町(大阪府東大阪市池之島町)で豪農・南野喜兵衛の次男として生まれ、商家「岡田家」へ養子に出された。この岡田家が玉造で風呂屋の経営を初め、養父の死後、岡田政太郎が風呂屋を継いだ。

そして、岡田政太郎は風呂屋で成功したとも、株で大儲けしたとも言われ、風呂屋の経営は家族に任せて、上本町にある講談の小屋「梯子亭(はしごてい)」を手入れると、「富貴亭」と改称して明治43年(1910年)に寄席の経営を開始した。

この明治43年は、吉本せい(林せい)と吉本泰三が入籍して正式に結婚した年であり、老舗の荒物屋「箸吉」が大阪市から立ち退きを命じられた年である。

このとき、吉本泰三は、家業「箸吉」の仕事を放り出して芸人道楽に走って遊び廻っていた時期である。吉本泰三の芸人遊びは大阪でも有数で、一流の寄席にまで名前が聞こえるほどだった。

当然、「箸吉」の近くに新しく出来た「富貴亭」にも顔をだしていたと考えられ、このころから吉本泰三と岡田政太郎は知り合いだったと言う説がある。

さて、三流の寄席「富貴亭」の席亭となった岡田政太郎は、落語家を呼ぼうとしたのだが、落語家はプライドが高いので、まともな落語家は三流の寄席になど上がってくれなかった。

これに怒った岡田政太郎は、「なんでも構わぬ、上手いも下手もない、銭が安うて、無条件に楽しませる演芸」という方針で、浪速の落語に反対する「浪速落語反対派(岡田興行部)」という芸能プロダクションを発足した。

当時の一流の芸は落語で、それ以外の諸芸は「色物」と呼ばれて二流・三流の扱いを受けており、岡田政太郎は二流・三流の扱いを受けていた色物芸人をかき集めたのである。

岡田政太郎は、芸を競い合う演芸の世界に、「安さ」というビジネス的な概念と持ち込んだ最初の人で、「演芸界の風雲児」とも呼ばれている。

さて、ながらく演芸界は、本格落語を守る「桂派」と、色物を取り入れた「三友派」が激しく対立していたが、明治時代の末期になると、本格落語を守る「桂派」は時代の流れについて行けず、衰退を始めていた。

そのようななか、安くて面白いという方針の岡田政太郎の「浪速落語反対派」が第三勢力として台頭したのである。

岡田政太郎は、風呂屋で成功したので「風呂政」、色が黒かったので「黒政」とも呼ばれ、非常に面倒見が良い性格で、相談日を設けて、芸人の金の相談にのって、金を貸していた。

この噂が広まっていくと、「桂派」や「三友派」の落語家も、ちょっと、岡田政太郎の寄席に出てみようかということになり、岡田政太郎の寄席「富貴亭」にあがるようになり、岡田政太郎の「浪速落語反対派」は、勢力を拡大していくのである。

ところで、岡田政太郎は面倒見の良い男だったが、少し強引な面も有り、ゴミやクズのような芸人まで抱え込んでいたため、芸人を出演させる寄席が必要になっていた。

一方、吉本泰三は取り巻きの芸人から「第二文芸館」が売りに出ているという知らせを受け、岡田政太郎に相談しており、吉本泰三は「第二文芸館」の営業権を購入する前から、既に岡田政太郎の「浪速落語反対派」と提携する話がまとまっていたようだ。

そして、吉本せい(林せい)が資金を調達すると、吉本泰三は「第二文芸館」の営業権を購入し、「浪速落語反対派」と提携して明治45年(1912年)4月1日に「文芸館」の営業を開始したのである。

それから3ヶ月後の明治45年7月3日にルナパークと通天閣が開業したのだった。

吉本せいの生涯-ワテはゴロゴロ冷やし飴の元祖や」へ続く。

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