吉本興業の創業者・吉本せいの家系図と子供と子孫

NHKの朝ドラ「わろてんか」のモデルとなる吉本興業の創業者・吉本せい(林せい)の家系図の解説と子供や子孫の紹介です。

吉本興業の創業者・吉本せいの家系図

吉本せい(林せい)の家系

吉本せい(林せい)は、明治22年(1889年)12月5日に兵庫県明石市東本町で、林豊次郎の3女(12人兄弟)として生まれた。母親は「林ちよ」である。

吉本せい(林せい)の実家・林家は、兵庫県明石郡戎町の出身で、明石藩松平家の下級藩士の家系だが、明治維新を迎えて帰商し、父・林豊次郎は、兵庫県明石市東本町で綿や麻の着物を扱う太物屋「紀伊國屋」を営んでいた。

その後、父・林豊次郎は吉本せい(林せい)が10歳の頃に大阪府北区南同心町2丁目13番地へと移り住み、米穀商・金融業を営むようになった。

吉本せい(林せい)が子供の頃から優秀で、大阪で有数な島徳蔵や鴻池家に上女中として奉公に上がり、奉公が明けると、実家の商売を手伝った。

そして、林家と取引していた老舗の荒物問屋「箸吉(はしきち)」の跡取り息子・吉本泰三(吉本吉兵衛)に見初められ、結婚した。

夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)の家系

吉本泰三(吉本吉兵衛)の実家・吉本家は、大阪市東区本町橋詰町で老舗の荒物問屋「箸吉」を営む家系で、日露戦争にともなう好景気で相当に繁盛していた。

吉本泰三(吉本吉兵衛)は、吉本家の次男だが、吉本家の長男が夭折しているので、跡取り息子として育った。

吉本泰三(吉本吉兵衛)は働き者という評判で、吉本泰三(吉本吉兵衛)と結婚した吉本せい(林せい)は荒物問屋「箸吉」の「ごりょんさん」として幸せな生活を送るはずだった。

ところが、2人が結婚する前に吉本泰三(吉本吉兵衛)の母・吉本ミネに死去し、吉本ユキ(出口ユキ)が吉本家に後妻として入ったことから、運命が大きく変わる。

吉本泰三(吉本吉兵衛)は、継母・吉本ユキ(出口ユキ)と上手くいっていなかったのか、ちょうど、吉本せい(林せい)と結婚した頃から、家業を放り出して、芸人遊びに身を入れるようになってしまった。

終いに、吉本泰三(吉本吉兵衛)は旦那芸と覚えた剣舞に入れ込み、「女賊島津お政本人出演のざんげ芝居」の太夫元(興行主)となり、地方巡業に出て、巡業の度に借金を膨らませていた。

そのようななか、吉本家の荒物問屋「箸吉」は、日露戦争後の不況で貸し倒れが増え、2どの差し押さえを食らったのち、大阪市電鉄の計画にひっかかったため、廃業となった。

その後、吉本泰三(吉本吉兵衛)は芸人遊びをしていた関係から、天満天神裏の三流の寄席「第二文芸館」の権利を購入し、明治45年(1912年)4月1日に寄席の経営を開始し、大正2年(1913年)1月に「吉本興行部(吉本興業)」を設立する。

吉本興業の創業家が林家の理由

寄席の経営を開始するとき、吉本せい(林せい)は夫の実家・吉本家に支援を求めた。

しかし、当時は芸能人が差別されていたので、実家・吉本家は老舗の荒物問屋「箸吉」を経営してきたプライドから、芸能界に足を踏み入れたことに激怒して支援を拒否した。

さらには、吉本家は吉本泰三(吉本吉兵衛)と吉本せい(林せい)を勘当同然に扱ったので、実家・吉本家とは縁が切れる。

このため、吉本せい(林せい)は「第二文芸館」の権利を購入する資金繰りに奔走し、実家の林家と金貸しから金を借りて「第二文芸館」の権利を購入した。

そして、創業初期に林正之助が呼び寄せられ、創業者・吉本泰三(吉本吉兵衛)の死後、長らく吉本興業の経営を担ってきたため、林家が「吉本興業の創業家」と呼ばれる事がある。

しかし、あくまでも吉本興業の創業家は吉本家であり、林家は創業家の傍系である。

吉本せい(林せい)の子供

吉本泰三(吉本吉兵衛)と吉本せい(林せい)の間には、下記8人の子供が生まれた。

  1. 長女・吉本喜代子 明治43年(1910年)11月6日
  2. 次女・吉本千代子 明治44年(1911年)11月17日
  3. 三女・吉本峰子  大正3年(1914年)1月14日
  4. 四女・吉本吉子  大正4年(1915年)4月12日
  5. 長男・吉本泰之助 大正5年(1916年)12月1日
  6. 五女・吉本幸子  大正9年(1920年)9月3日
  7. 六女・吉本邦子  大正11年(1922年)7月6日
  8. 次男・吉本泰典  大正12年(1923年)10月26日

しかし、そのほとんどは夭折しており、成人したのは子供は、家系図で紹介してる「次男・吉本穎右(吉本泰典)」「三女・吉本峰子(吉本恵津子)」「五女・吉本幸子」「六女・吉本邦子(辻阪邦子)」の4人だけである。

なお、上で紹介した8人は戸籍に記載された子供の数であり、吉本せい(林せい)自身は10人の子供を産んだと証言しているので、夭折・死産・流産があったのかもしれない。

次男の吉本穎右(吉本泰典)の家系

吉本穎右(吉本泰典)は次男だが、既に長男が夭折しており、跡取り息子として生まれた。

吉本穎右(吉本泰典)は、生まれた翌年に父・吉本泰三(吉本吉兵衛)が急死したため、吉本家の家督を相続して戸主となる。

吉本せい(林せい)が吉本穎右(吉本泰典)の親権を行使する形で吉本興業を運営し、実質的な経営は吉本せい(林せい)の実弟・林正之助に任せた。

しかし、あくまでも後継者は吉本穎右(吉本泰典)であり、吉本穎右(吉本泰典)は早稲田大学へと進学すると共に、林正之助から吉本の帝王学を学んでいった。

このようななか、戦時中に吉本穎右(吉本泰典)は、9歳上のジャズ歌手・笠置シヅ子(亀井静子)と運命の出会いして結ばれ、結婚の約束をする。

戦後、吉本穎右(吉本泰典)は、早稲田大学を中退し、吉本興業に入り、吉本せい(林せい)の弟にあたる東京支配人・林弘高の元で働いていた。

そのようななか、笠置シズ子(亀井静子)が妊娠し、2人は結婚を目前としていたが、吉本穎右(吉本泰典)は結核が悪化したため、甲子園の吉本邸へと戻り、そのまま死去した。

笠置シズ子(亀井静子)は吉本穎右(吉本泰典)の死後、女児を出産した。女児は吉本穎右(吉本泰典)の遺言により「エイ子」と名付けられた。

吉本せい(林せい)は笠置シズ子(亀井静子)との結婚に反対していたが、笠置シズ子(亀井静子)の妊娠が判明してからは、態度を軟化させており、孫に当たる亀井エイ子を引き取りたいと申し出た。

しかし、笠置シズ子(亀井静子)は生まれた直後に養子に出され、両親の顔を知らずに育っていたので、娘の亀井エイ子にも同じ思いをさせたくないと考え、吉本せい(林せい)の申し出を断った。

このため、笠置シズ子(亀井静子)も娘・亀井エイ子も吉本家の籍には入っておらず、吉本穎右(吉本泰典)の血筋は亀井エイ子へと続くのだが、戸籍上の系譜は途絶えた。

その後、笠置シズ子(亀井静子)は乳飲み子の亀井エイ子を抱えて歌手に復帰し、「ブギの女王」としてスターへの道を駆け上がっていった。

一方、吉本家の当主・吉本穎右(吉本泰典)が死去したことにより、吉本せい(林せい)の死後、長姉となる三女・吉本峰子(吉本恵津子)が吉本興業を相続し、現在(2017年)も創業家の吉本家として続く。

辻阪信次郎の家系

吉本せい(林せい)の六女・吉本邦子(辻阪邦子)に繋がってくる辻阪家の辻阪昌一について、簡単に解説しておきます。

辻阪家は大阪で両替商を営む家系で、相当な資産家だった。辻阪信次郎は次男なので分家しているが、相当な資産家で、大阪ミナミに土地を持つミナミ花街の顔役の1人だった。また、市議会議員に4度当選し、大阪府議会議長を務めていた。

吉本せい(林せい)は、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)の死後、辻阪信次郎に近いて親しい関係にあり、辻阪信次郎は吉本興業の顧問格だった。

この辻阪信次郎が昭和10年(1935年)に発覚した大規模な贈収賄・汚職脱税事件で逮捕され、吉本興業の創業者・吉本せい(林せい)も逮捕された。

これは吉本興業の存亡がかかる事件だったが、吉本興業に関しては、事件の真相を知る辻阪信次郎が獄中で首を吊って死去したため、吉本せい(林せい)は僅かな罪で起訴されただけで、ほぼ無傷で終わった。

この獄中死した辻阪信次郎の長男・辻阪昌一が、吉本せい(林せい)の六女・吉本邦子(辻阪邦子)と結婚して、長らく吉本興業の重役を務めた。

吉本せい(林せい)の子供と子孫

吉本せい(林せい)の子供は8人で、そのうち、長男・吉本泰之助が夭折、次男・吉本穎右(吉本泰典)も死去しており、男性は絶えた。

女系も長女・次女・四女が夭折しているが、「三女・吉本峰子(吉本恵津子)」「五女・吉本幸子」「六女・吉本邦子(辻阪邦子)」の家系が現在(平成)にも続いている。

吉本せい(林せい)の死後、吉本興業は林正之助の家系によって運営されるため、林正之助が吉本興業を相続したように思われているが、吉本せい(林せい)の三女・吉本峰子(吉本恵津子)も吉本興業の株式を相続している。

吉本家・林家の資産管理会社「大成土地」があり、この大成土地が吉本興業の大株主で、創業家の吉本家は大成土地の大株主という形になっている。

さて、林家はながらく吉本興業の社長を輩出しており、9代目社長・林裕章が病気で退任したとき、林マサは子供の林正樹を次期社長に据えようとした。

しかし、吉本興業の経営陣が、これを拒否。林家は創業家傍系であり、吉本興業の大株主なので吉本興業に大きな影響力を持つが、吉本興業は既に東証一部に上場しており、林家の個人企業ではなかった。

こうして、吉本興業と林家が対立して、平成17年(2005年)にお家騒動に発展する。

お家騒動は所属芸人を巻込む大混乱の末、最終的に林マサは創業家・吉本家など他の大株主の協力を得られず、平成17年(2005年)に非創業家の副社長・吉野伊佐男が10代目社長に就任した。

その結果、東証一部に上場していた吉本興業は、平成22年(2010年)にMBO(株式公開買い付け)という手段を使って株式の上場を廃止した。

このとき、吉本興業は、株主の意思にかかわらず強制的に株式を買い取る「スクイーズ・アウト(キャッシュ・アウト)」という株主排除の方法を使っていることから、株式の上場廃止は林家を排除するためだと言われている。

この非上場により、吉本興業の株主は、フジテレビなどを中心とした吉本興業支持派ばかりになり、安定した経営が出来るようになった。

なお、創業家の吉本家は、吉本興業の経営陣と対立しておらず、吉本家と林家は資産管理会社「大成土地」として、吉本興業の株主に名前を連ねている。

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