「吉本せい」の生涯

吉本興業の創業者・吉本せい(林せい)の生涯を描く立志伝の第1話「吉本せいの生涯」です。

通天閣の夢

大正3年、西郷隆盛のような図体をした吉本泰三(吉本吉兵衛)が、新世界を闊歩する。その後を妻・吉本せい(林せい)が付いて歩いた。

吉本泰三が目指すのは、大阪のシンボル「通天閣」である。

通天閣は、吉本泰三が寄席の経営を始めた明治45年(1912年)にオープンしており、いわば、吉本興行部(吉本興業)の同級生のようなものである。

通天閣の北には大阪城があり、通天閣と大阪城の間には、大阪の繁華街「ミナミ」が広がっている。

そして、ミナミの法善寺裏には、一流の寄席「紅梅亭」と「金沢亭」があり、法善寺の裏が演芸の中心となっていた。

通天閣に登った吉本泰三は、通天閣の展望台から天下を眺めて、妻・吉本せい(林せい)に「大阪中の寄席を吉本の寄席にして、通天閣の天辺から眺めたい」と夢を語った。

人々は老舗のボンボンが道楽で寄席の経営を始めたと馬鹿にしていたが、吉本泰三は秘めたる野心で、虎視眈々とミナミへの進出を狙っていたのであった。

そして、その吉本泰三の野望を支えたのが、妻・吉本せい(林せい)である。

吉本せい(林せい)の生涯

吉本せい(林せい)は、明治22年(1889年)12月5日に兵庫県明石市東本町で、林豊次郎の3女として生まれた。母親は「林ちよ」である。

林家は兵庫県明石郡戎町の出身で、明石藩松平家の下級藩士の家系である。父・林豊次郎は明治時代に入って兵庫県明石市東本町で太物屋「紀伊國屋」を営んでいた。

太物屋というのは、綿や麻の着物服屋のことで、明治時代の服屋は、絹の着物を扱う「呉服屋」と、綿や麻の着物を扱う「太物屋」に別れていた。

しかし、吉本せい(林せい)が10歳の時に、父・林豊次郎は大阪府大阪市北区へと移り、天神橋5丁目で米穀店・金融業を営むようになった。

このころ、帰商して商売を始めた武士は、「武士の商法」と言って成功した人は少ないのだが、父・林豊次郎の米屋は大会社の「天満合同紡績」にも精米を治めており、堅実に経営していたようである。

さて、吉本せい(林せい)は学校の成績も良く、先生からも進学を勧められており、本人も進学を希望していたが、船場の商家には「女子に学問は必要ない」という風習があった。

また、父・林豊次郎は非常に頑固な性格で「家のことが第一」という考え方だったので、吉本せい(林せい)は進学を諦め、小学校を卒業後は、自宅の家事手伝いをしたり、弟妹の面倒を見たりした。

このとき、10歳年下の林正之助は、吉本せい(林せい)に虐められて、相当迷惑したようである。

さて、小学校を卒業して自宅を手伝うようになった吉本せい(林せい)は、家事全般に才能を発揮したため、父・林豊次郎は三女の吉本せい(林せい)を溺愛するようになる。

このため、14歳から15歳になると、花嫁修業として奉公に出る習慣があったが、父・林豊次郎は吉本せい(林せい)を奉公に出さずに、そのまま家業の米穀店を手伝わせようとした。

しかし、父・林豊次郎は、母「林ちよ」の反対に遭い、吉本せい(林せい)を花嫁修業として奉公に出す事になる。

奉公先は親戚などの紹介で決めるのが一般的だったが、吉本せい(林せい)は自分で奉公先を見つけてきて、両親には事後承諾という形で、北浜の相場師として有名な島徳蔵に上女中として奉公に出た。

島徳蔵の父・島徳治郎は、大阪で有名な米の仲買だったので、米屋を営む父・林豊次郎は渋々ながら、吉本せい(林せい)を奉公に出したのである。

さて、大阪の商家は始末屋(ドケチ)で、島徳蔵は女中の食費を減らすため、蔵から漬け物の樽を出してきて、雨が当たるところに置き、女中が食事する板の間に悪臭が漂うようにした。

臭いにたまりかねた吉本せい(林せい)は、女中仲間に、毎日1銭ずつ出し合ってショウガを購入し、刻んでかければ、臭みも消えるだろうと提案したのだが、これが奉公先の上司の耳に入り、激しく叱責されてしまう。

そうした一方で、吉本せい(林せい)は、ポッチャリしていたので人気があり、奉公先で島徳蔵に可愛がられたが、優秀だったため、先輩の女中に虐められたりした。

その後、奉公が開けると、大阪でも有数の商家として名高い今橋の鴻池家に行儀見習いとして上女中として奉公して、鴻池家での奉公が開けると、実家の林家に戻った。

なお、第2話は「吉本せい(林せい)の立志伝の目次」からご覧ください。

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