吉本興業の創業者・吉本せい(林せい)の立志伝

NHKの朝ドラ「わろてんか」のモデルとなる「吉本興業」の創業者・吉本せい(林せい)の立志伝です。

吉本せい(林せい)の立志伝

吉本せい(林せい)の画像吉本せい(林せい)は、明治22年(1889年)12月5日に兵庫県明石市東本町で、林豊次郎の3女として生まれた。母親は「林ちよ」である。

なお、「せい」を漢字にした吉本勢(林勢)という表記は間違い。実弟・林正之助の妻の名前が「林勢」であり、「吉本勢(林勢)」というのは誤伝だと思われる。

さて、吉本せい(林せい)の実家・林家は兵庫県明石郡戎町の出身で、明石藩松平家の下級藩士の家系である。

明治維新を迎えて帰商し、父・林豊次郎は、兵庫県明石市東本町で太物屋「紀伊國屋」を営んでいた。

太物屋というのは、綿や麻の着物を扱う着物屋である。これに対し、絹の着物を扱う着物屋を「呉服屋」と呼んだ。

その後、父・林豊次郎は、吉本せい(林せい)が10歳の時に大阪府大阪市北区へと移り、天神橋5丁目で米穀商・金融業を営むようになった。

吉本せい(林せい)は学校の成績も良く、進学を希望していたが、船場の商家は「女子に学問は必要ない」という考え方だったので、進学は諦め、尋常小学校を卒業すると奉公に出た。

このころ、奉公先は親戚の紹介などで決めるのだが、吉本せい(林せい)は自分で奉公先を見つけてきて、両親に事後承諾させ、奉公に出た。

吉本せい(林せい)の奉公先は、北浜の相場師として有名な島徳蔵や、今橋の鴻池家という大阪でも有数の商家で、ここに上女中として奉公した。

しかし、大阪の商家は始末屋(どケチ)なので、大阪で有数の商家ということは、大阪で有数なブラック企業ということである。

奉公先の主は、女中の食費を減らすため、蔵から漬け物の樽を出してきて、雨が当たるところに置き、食事中に悪臭が漂うようにした。

臭いにたまりかねた吉本せい(林せい)は、女中仲間に、毎日1銭ずつ出し合ってショウガを購入し、刻んでかければ、臭みも消えるだろうと提案したのだが、これが奉公先の家老の耳に入り、叱責された。

また、吉本せい(林せい)は優秀だったので、先輩の女中からも虐められた。

その後、奉公が明けると、実家・林家に戻り、家業を手伝った。吉本せい(林せい)は、ここでも商才を発揮して売上げを伸ばし、父・林豊次郎を驚かせた。

吉本泰三(吉本吉兵衛)と結婚

林家の取引先に、老舗の荒物問屋「箸吉(はしきち)」があり、荒物問屋「箸吉」には吉本吉次郎(後の吉本泰三)という跡取り息子が居た。

ある日、荒物問屋「箸吉」の吉本吉次郎(吉本泰三)は融資の相談で、金融業を営む林家を訪れたとき、吉本せい(林せい)を見かけた。

これが出会いで、2人は明治40年(1907年)に結婚(事実婚)した。吉本せい(林せい)は19歳、吉本吉次郎(吉本泰三)は22歳の事である。

その後、吉本せい(林せい)が妊娠したので、明治43年(1910年)4月8日に籍を入れ、翌年の明治44年(1911年)に夫・吉本吉次郎(吉本泰三)は吉本家の家督を相続し、「吉本吉兵衛」を襲名した。

吉本家の姑は吉本ユキと言って、非常に口うるさい人で、吉本せい(林せい)は姑・吉本ユキに虐められた。

また、吉本ユキは後妻だったので、夫・吉本吉兵衛(吉本泰三)もあまり、関係は上手くいってなかったようである。

荒物問屋「箸吉」のごりょんさんに

荒物問屋「箸吉」は5代も続く名のある老舗だったが、吉本せい(林せい)が嫁いできた頃には、日露戦争後の不況で貸し倒れが相次ぎ、経営が悪化していた。

しかし、夫・吉本吉兵衛(吉本泰三)は、仕事や借金取りの対応を吉本せい(林せい)に任せて裏口から逃げだし、芸人遊びに勤しんでいた。

老舗のボンボンとして育った夫・吉本吉兵衛(吉本泰三)は、旦那芸として覚えた剣舞に熱を上げており、終いには「女賊島津お政本人出演のざんげ芝居」という一座の太夫元(興行主)となって旅巡業に出て、自身も幕の合間に舞台に上がり、趣味の剣舞を披露するという有様で、旅巡業の度に借金を膨らませていた。

そして、夫・吉本吉兵衛(吉本泰三)が旅巡業に出ている間に、荒物問屋「箸吉」が大阪市電鉄の計画にひっかかり、立ち退きを命じられた。

荒物問屋「箸吉」を移転する道もあったが、残された吉本せい(林せい)だけでは、経営の悪化した荒物問屋「箸吉」を建て直すことは難しく、そのまま荒物問屋「箸吉」は廃業した。

寄席の経営を開始

荒物問屋「箸吉」の廃業後、吉本せい(林せい)は実家の林家に戻り、夫・吉本吉兵衛(吉本泰三)の帰りを待った。

夫・吉本吉兵衛(吉本泰三)は帰ってくると、荒物問屋「箸吉」が廃業しており、知らない間に無職になっていたが、それでも芸人遊びを続けた。

やがて、吉本せい(林せい)は、実家に居づらくなったのか、丸帯を売って26円を作り、天満宮(天満天神)表にある長屋に引っ越した。部屋は2間だけで、敷金10円・家賃3円だった。

吉本せい(林せい)が引っ越し費用を作り、そのうえ、手に血をにじませながら縫い物をして食い扶持を稼いでいたが、それでも夫・吉本吉兵衛(吉本泰三)は芸人遊びを続けていた。

そのようななか、夫・吉本吉兵衛(吉本泰三)が突如して、経営不振に陥っていた三流の寄席「第二文芸館」の権利を購入する約束をしてきたと言いだした。

天満宮(天満天神)裏に寄席が8軒並んでおり、これを「天満8件」と呼んだ。第二文芸館は天満8件の一番端にあり、何をやっても大入りにならないというボロボロの寄席だった。

「ほな、そこ、ウチがやるって言うてしもたって。私に事後承諾せえいうことですがな」

吉本せい(林せい)が呆れて値段を尋ねると、夫・吉本吉兵衛(吉本泰三)は購入するのは営業権利だけで、権利金500円・家賃100円だと教えた(金額は諸説有り)。

当時は1000円で家が建ったので、500円と言えば高額である。しかも、お金の算段も、当然、吉本せい(林せい)任せだった。

針仕事で食いつないでいる吉本せい(林せい)に、そのような大金があるはずも無く、夫・吉本吉兵衛(吉本泰三)の実家・吉本家にお金を借りに行った。

しかし、明治時代は、芸人が「川原乞食」と呼ばれて差別されており、芸人遊びは甲斐性として認められていたが、寄席の経営をして芸能界に足を踏み入れることは忌み嫌われていた。

このため、吉本家は、老舗の荒物問屋「箸吉」を営んでいたプライドから、「川原乞食に成り下がることはない」と支援を拒否した。

吉本家の怒りは凄まじく、吉本吉兵衛(吉本泰三)を勘当同然に扱ったようで、吉本吉兵衛(吉本泰三)は襲名した「吉本吉兵衛」を返上し、通称として「吉本泰三」を名乗るようになったという。

戸籍までは改名せず、本名「吉本吉兵衛」、通称・通り名「吉本泰三」という形だが、以降、本名の「吉本吉兵衛」を使うことはなかった。

さて、吉本せい(林せい)の父・林豊次郎も、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)がヒモのような生活をしていたことから、「あんな道楽者とは別れてしまえ」と激怒していた。

しかし、吉本せい(林せい)はなんとか頼み込み、苦労の末、父・林豊次郎と金貸しからお金を借りた。

こうして、吉本せい(林せい)がお金を調達してくると、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は「せい、おおきに。やっぱ嫁ハンや」と大喜びし、「後はワシに任せとけ」と胸を叩いたのであった。

浪速反対派との提携

明治時代の一流の芸といえば落語であり、落語以外の諸芸は「色物」と呼ばれ、二流・三流の扱いを受けていた。

明治時代の演芸の中心は落語で、大阪の落語界は「桂派」と「三友派」がしのぎを削り、明治時代に黄金期を築いていたが、明治時代の後半ごろから、落語に陰りが見え始めていた。

しかし、依然として一流の芸は落語であり、一流の落語家は品格を重視しており、二流・三流の寄席には出なかった。

このようななか、三流の寄席「富貴」の席亭・岡田政太郎は、落語家が寄席にあがってくれないことから、浪速の落語に反対し、二流・三流のゴミ芸人をかき集め、「なんでも構わぬ、上手いも下手もない、銭が安うて、無条件に楽しませる演芸」という方針の芸能プロダクション「反対派(岡田興行部)」を発足させ、大当たりさせていた。

夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は、芸人遊びを通じて、「反対派」の興行主・岡田政太郎と知り合っており、寄席「第二文芸館」の権利を購入すると、「反対派」と提携し、明治45年(1912年)4月1日に「第二」を外して「文芸館」という名前で寄席の営業を開始した。

この年(明治45年)、大阪の万歳師・砂川捨丸が、万歳(後の漫才)から卑猥な要素を排除した「洗練された万歳」を確立し、神戸で洗練された漫才を興行して大当たりさせた。

この砂川捨丸の大当たりが切っ掛けで、大阪の二流・三流の寄席でも「洗練された万歳」が流行していった。この万歳が後に、吉本興業の柱となる。

吉本興行部(吉本興業)の設立と吉本商法

一般的な寄席は入場料15銭だったが、ボロボロの寄席だった「文芸館」は入場料5銭という格安路線で勝負した。

ただし、他の寄席は入場料15銭に下足代が含まれているのに対し、「文芸館」は入場料5銭の他に下足代2円を取ったので、実質的な入場料は7銭だった。これも、入場料を安いと思わせる作戦だった。

さらに、吉本せい(林せい)は、満席になると、面白い芸人の間に、つまらない芸人を出演させ、客に飽きさせて帰らせ、席に空きが出来ると、新たな客を呼び込み、定員200人の「文芸館」に、祝日や祭日には700人を入れた。

また、吉本せい(林せい)は、わざと喉の渇くような食べ物を売り、飲み物で売上げを稼ぎいだり、客の食べ残したミカンの皮を陳皮の原料として薬問屋に売却したりして、様々な工夫で利益を上げた。

そして、吉本せい(林せい)は、寄席「文芸館」の経営を開始した翌年の大正2年(1913年)1月に大阪府大阪市南区笠屋町で「吉本興行部」を設立した。

現在の吉本興業は「事業を興す」という意味の「興業」を使っているが、吉本興行部は「催し物を開いて入場料を取る」という意味の「興行」を使っている。

さて、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は拡大路線をとり、大正3年(1914年)に松島の寄席「芦辺館」、福島の「龍虎館」、梅田の寄席「松井館」、天神橋筋5丁目の「都座」を買収し、三流の寄席ながら、寄席のチェーン展開を始めた。

寄席で働く、お茶子や下足番は、客から貰うご祝儀を主な収入源としており、吉本が払う給料はごく僅かだったので、寄席が増えても経費はそれほど変わらなかった。

このため、寄席が増えれば増えるだけ、儲かる一方だった。

一流の寄席「金沢席」を買収

大正時代に入ると、地方の若者が大阪へ流入するようなった。大阪の会社はブラック企業ので、、こうした若者は、お金も時間も無く、安くて単純に面白い演芸を好んだ。

こうした背景を原因に、長たらしいストーリーを重視する落語は廃れていき、安くて単純に面白い芸を売りにする吉本興行部(吉本興業)と反対派は勢力を伸ばしていった。

さて、落語の「桂派」も「三友派」も指導者的な人物を失って求心力を欠いたこともあり、大正時代に入ると、衰退の一途をたどっていた。

特に本格落語を守っていた「桂派」の衰退は激しく、吉本せい(林せい)は大正7年(1918年)に桂派の拠点「金沢席(蓬莱館)」の買収に成功する。値段は言い値の1万5000円だった。

吉本せい(林せい)は、寄席の経営の開始から、わずか6年で、ミナミにある「金沢席(蓬莱館)」という一流の寄席を手に入れたのである。

また、金沢席を買収した大正7年に、吉本せい(林せい)は実弟・林正之助を呼び寄せ、吉本興行部(吉本興業)に入れた。

弟・林正之助は下足番として吉本興行部に入り、雑用をこなし、ヤクザの対応などで頭角を現していき、吉本せい(林せい)の右腕として活躍するようになる。

花月と命名

落語家・桂太郎は易に精通しており、縁起を担ぐ吉本せい(林せい)は、ことある事に落語家・桂太郎に相談をしていた。

そこで、吉本せい(林せい)は買収した「金沢席」に変わる新しい名前について、落語家・桂太郎に相談した。

相談を受けた落語家・桂太郎が占ったところ、「花と咲くか月と陰るか、すべてを賭けて」という易が出たため、「花も月も使おう」ということで「花月」という名前を考えた。

この占いを受けて吉本せい(林せい)は、「金沢席」を「南地花月」と改名した。

これまでは二流・三流の芸人を起用していたが、一流の寄席「南地花月」には一流の落語家を上げた。

さて、「南地花月」の西側には、三友派の拠点「紅梅邸」があり、紅梅邸は入場料25銭だったので、吉本せい(林せい)は「南地花月」を10銭にして対抗した。

こうして、吉本せい(林せい)は、「花月」を使うようになり、これまでに買収した寄席も「○○花月」と改称し、「花月」の名前でチェーン展開していった。

また、大正8年(1919年)には、三友派を代表する寄席の1つ「永楽館」が吉本興行部(吉本興業)の軍門に降り、吉本興行部(吉本興業)は「永楽館」を「花月倶楽部」と改名した。

こうして、吉本せい(林せい)は、ミナミの「南地花月」、北新地の「花月倶楽部」という大阪を代表する寄席を2つも手に入れたのであった。

一方、盟友の反対派(岡田興行部)の岡田政太郎も、京都の寄席を買収して、京都進出を果たして勢力を拡大していた。

吉本せい(林せい)の余命宣告

大正8年(1919年)2月、吉本せい(林せい)は39度の高熱を出して倒れてしまう。

吉本せい(林せい)は、医師から治療の方法が無いと言われ、日本赤十字病院から入院を拒否されるが、なんとか頼み込んで入院させてもらい、8ヶ月後に退院した。その後、半年間、兵庫県の明石で療養して復帰した。

このとき、吉本せい(林せい)は、医師から、もう子供は作れないと言われていた。

大正5年(1916年)12月1日に待望の長男・吉本泰之助が生まれていたが、長男・吉本泰之助は大正7(1918年)年7月5日に死去しており、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)には跡取りが居なかった。

このため、子供が産めなくなると言われた吉本せい(林せい)は、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)に妾(愛人)を作るように勧めた。

落語不況で安来節

落語が衰退の一途をたどっており、落語に変わる演目を発掘しなければならなかった。

そこで、吉本せい(林せい)は、三流の寄席で流行していた島根県の安来節に目を付け、実弟・林正之助を島根県に派遣し、「手見せ(オーディション)」を開かせて、安来節の新人を発掘した。

また、吉本せい(林せい)は、ただの安来節では面白くないと思い、高い音域で歌い始めて独特のこぶしを利かせる「お直節」で有名な「遠藤お直」に目を付け、「遠藤お直」と専属契約を結んだ。

こうして、安来節は昭和初期まで人気を博し、吉本興行部(吉本興業)の落語不況を救った。

お金で芸人を縛る

勢力を拡大する吉本せい(林せい)は、三友派の実力者・三升家紋右衛門を月給500円で引き抜いた。

サラリーマンの月給が40円、1000円で家が建ったので、月給500円と言えば相当な金額だが、これが良き宣伝となり、三友派の実力者である桂文枝・桂家残月・桂枝太郎・橘家圓太郎などが吉本興行部(吉本興業)と専属契約を結んだ。

こうして、吉本興行部(吉本興業)が勢力を拡大するなか、反対派(岡田興行部)の興行主・岡田政太郎が大正9年(1920年)12月に急死し、岡田政太郎の次男・岡田政雄が反対派(岡田興行部)の2代目となる。

しかし、吉本興行部(吉本興業)は、反対派が出演する寄席の過半数を取得しており、興行主の岡田家と立場逆転し、反対派に対して大きな影響力を持っていた。

そこで、吉本せい(林せい)は2代目の岡田政雄に1万円の手形を渡し、反対派(岡田興行部)の権利を売却させた。

ところが、売却を承諾した岡田政雄は、岡田派の芸人を率いて「岡田反対派」を発足した。

これに怒った吉本せい(林せい)は、岡田政雄に渡した1万円の手形を不渡りにして、反対派(岡田興行部)の権利をタダで手に入れ、「吉本花月連」を発足した。

こうして「反対派」は「岡田反対派」と「吉本花月連」に分裂したが、吉本せい(林せい)の画策によって「岡田反対派」は、わずか3ヶ月で内部崩壊を起こし、「吉本花月連」に吸収された。

初代・桂春団治(皮田藤吉)との専属契約

初代・桂春団治(皮田藤吉)は、「芸のためなら女房も泣かす」という歌のモデルとなった落語家で、落語よりも話題作りを重視し、数々のスキャンダルを起こして世間を賑わし、スキャンダルの度に人気を上げた。

そして、初代・桂春団治(皮田藤吉)は、支援者だった薬問屋「岩井松商店」の「岩井志う」という金持ちの未亡人(後家さん)を射止めて、妻子を捨て「岩井志う」と再婚した。

この騒動は「後家殺し」として大いに世間を賑わせ、初代・桂春団治(皮田藤吉)は、低迷する落語界にあっても絶大なる人気を誇っていた。

さて、初代・桂春団治(皮田藤吉)は三友派の大看板だったのだが、三友派の寄席に出演する一方で、再婚相手「岩井志う」の莫大な持参金を元手にして三流の寄席「浪速亭」を買い取り、大正7年(1918年)に「浪速派」を立ち上げた。

ところが、初代・桂春団治(皮田藤吉)は一族郎党を率いて遊んでばかりで、寄席をスッポカスため、客は寄りつかなくなり、借金を膨らませる一方だった。

終いに、初代・桂春団治(皮田藤吉)は、大正10年(1921年)に「浪速派」を解散して、大阪はインフルエンザが流行しているという口実で、大阪を逃げ出し、中国地方・九州地方へ旅巡業に出たのである。

これを待ちかねていたのが、吉本せい(林せい)だった。

以前から初代・桂春団治(皮田藤吉)が欲しかった吉本せい(林せい)は、初代・桂春団治(皮田藤吉)の借金2万円を肩代わりすることで、月給700円で初代・桂春団治(皮田藤吉)と専属契約を結んだのである。

三友派の降伏と吉本王国

初代・桂春団治(皮田藤吉)の看板が吉本の「南地花月」にあがるようになると、西側にある寄席「紅梅邸」の客は「南地花月」に流れた。

三友派は「紅梅邸」を拠点に抵抗を続けていたが、「南地花月」に客を奪われて、ついには戦意を喪失し、大正11年(1922年)8月に、条件つきながらも「紅梅亭」を吉本興行部(吉本興業)に譲って、吉本の軍門に降った。

こうして、吉本せい(林せい)は「桂派」「三友派」「反対派」を読み込んで、大阪演芸界で最大の勢力となり、最盛期の大正11年(1922年)には大阪18館・神戸2館・京都5館・東京1館・神奈川1館・名古屋1館の計28館の寄席を手に入れ、吉本王国を築いたのである。

関東大震災と吉本せい

大阪を征服した夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は、東京・神田川の「川竹亭」を買収して「神田花月」と改名しており、「神田花月」を足がかりに東京征服を目論んでいた。

そのようななか、大正12年(1923年)9月1日に関東大震災が発生し、東京の寄席は壊滅的な被害を受けた。

吉本せい(林せい)は直ぐに毛布を買い付けると、弟・林正之助を東京へ派遣し、東京の芸人を見舞わせた。

東京の落語家はプライドが高く、大阪の寄席には来てくれなかったが、これに感謝して、大阪へと来て吉本の寄席に上がり、さらには地方巡業にも参加してくれたので、吉本興行部(吉本興業)の名前は東京や地方にも広まった。

夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)の死

吉本せい(林せい)が大正12年(1923年)10月26日に次男・吉本泰典(吉本穎右)を出産する。長男・吉本泰之助は2歳で夭折しているので、次男・吉本泰典(吉本穎右)が跡取りである。

夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は、大阪の演芸界を征服し、待望の跡取りも誕生したことから、ようやく我が世の春が来たと喜んでいた。

ところが、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は大正13年(1924年)2月13日に脳溢血で死去してしまう。享年39だった。

吉本せい(林せい)は、医師から「もう子供は産めない」と宣告されたとき、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)に妾(愛人)を持つように勧めており、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は妾(愛人)の家で死去したと伝わる。

大正時代の喪服は黒が定着していたが、船場の商家では、夫に先立たれると、「一生、二夫にまみえず」という意味で白い喪服を着る仕来りがあり、吉本せい(林せい)は、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)の葬儀で白い喪服を着て、世間を驚かせた。

そして、吉本せい(林せい)は、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)の死後、生まれたばかりの次男・吉本泰典(吉本穎右)に家督を相続させ、自身は親権を行使するという形を取った。

また、吉本興行部(吉本興業)の方は、既に吉本せい(林せい)の右腕として活躍していた弟・林正之助に経営を任せ、新たに弟・林弘高を招き入れて、弟・林弘高には東京の業務を任せ、身内で周りを固めた。

新体制と漫才の発掘

夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は大阪を制覇して吉本王国を築いたが、約30万円という莫大な借金を残しており、この借金が落語不況に苦しむ吉本興行部(吉本興業)の経営を圧迫していた。

このため、吉本せい(林せい)は、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)の死を悲しんでいる暇は無く、死んだ吉本泰三(吉本吉兵衛)の追善興行という名目で「東西合同名人会」を企画し、東京の神田花月を拠点にして本格的に東京進出を開始した。

さて、島根県の安来節が落語不況の救世主となっていたが、安来節は落語に変わる演目とまではいえず、落語に変わって演芸の中心となる演目を捜さなければならなかった。

そこで、弟・林正之助が目を付けたのが、三流の寄席で流行していた「万歳」だった。

現在の「漫才」は、元々は「万歳」「萬歳」と表記し、正月を祝う芸だったが、明治時代の後半に江州音頭の玉子屋円辰が「万歳」から祝い事という要素を排除した「万歳」を確立して、お笑いとしての「万歳」が始まった。

初期の万歳は卑猥だったので、神戸では万歳が禁止されたのだが、吉本せい(林せい)が寄席の経営を始めた明治45年(1912年)に、大阪の万歳師・砂川捨丸が、万歳から卑猥という部分を排除した「洗練された万歳」を確立し、神戸でも万歳が解禁された。

この砂川捨丸が神戸の興行を大当たりをさせたので、大阪でも洗練された万歳に転向する芸人が続出し、三流の寄席で流行していたのである。

既に吉本興行部(吉本興業)にも数組の万歳師が所属しており、万歳に着目した弟・林正之助は、試験的に寄席に起用する一方で、大正15年(1926年)には「大八会」という小さな興行団体から漫才師・花菱アチャコを引き抜き、さらに万歳を進化させていった。

漫才の台頭はめざましく、演劇界の最大勢力「松竹」も万歳に目を付け、万歳師に金をバラまいて、吉本興行部(吉本興業)から万歳師を引き抜こうとしたほどだった。

これに怒った弟・林正之助は、松竹の乗り込み、松竹のドン・白井末次郎を「刑務所にぶち込まれても吉本を守ります」と恫喝し、松竹に手を引かせて吉本を守った。

世界恐慌と10銭万歳

昭和4年(1929年)にアメリカの株価大暴落に端を発し、世界恐慌に発展した。昭和5年には日本にも不況の波が及んだ(昭和恐慌)。

弟・林正之助はこうした不況を乗り越えるため、入場料10銭で万歳を見せる寄席を思いついた。10銭は、狐うどん1杯くらいの値段である。

これが大当たりして「10銭万歳」と呼ばれるように成り、他の会社がマネして「10銭ライス」「10銭寿司」など次々と10銭の商品が生まれた。

初代・桂春団治のラジオ事件とNHK大阪との対立

大正14年(1925年)6月1日に大阪放送局(NHK大阪/JOBK)がラジオ放送を開始しており、昭和に入るとラジオが普及し始めていた。

吉本せい(林せい)は、ラジオで演芸を聴くようになれば、誰も寄席に来なくなると危機感を抱き、ラジオへの無断出演を禁じ、無断出演した者は阻害賠償するという念書を取った。

しかも、芸人は吉本興行部(吉本興業)から多額の借金をしていたので、吉本が許可したラジオ番組に出演しても、「借金の返済」という名目で出演料を中抜きされ、ほとんどお金は貰えなった。

これに大阪放送局(NHK大阪/JOBK)が激怒し、吉本興行部(吉本興業)と対立したのである。

このようななか、昭和5年(1930年)12月17日に初代・桂春団治(皮田藤吉)が吉本興行部に無断でラジオ出演し、落語「祝い酒」を語った。

弟・林正之助は大阪放送局(NHK大阪/JOBK)を取り囲んで、初代・桂春団治(皮田藤吉)を取り押さえようとしたが、大阪放送局(NHK大阪/JOBK)は吉本の妨害を察知して京都の放送局から放送していた。

これに対して仲間であるはずの落語家も「勝手な事を許すな」と激怒して吉本興行部に抗議し、吉本興行部は初代・桂春団治(皮田藤吉)の追放を決定した。

吉本せい(林せい)は初代・桂春団治(皮田藤吉)を呼んで釈明させようとしたが、初代・桂春団治(皮田藤吉)が出社しなかった。

このため、初代・桂春団治(皮田藤吉)から特別な念書を取っていた吉本興行部(吉本興業)は、初代・桂春団治(皮田藤吉)に差し押さえを執行して、吉本興行部から追放することを決定した。

すると、差し押さえを受けた初代・桂春団治(皮田藤吉)は、差し押さえの札を1枚はがし、「一番、金になるのに、これを差し押さえなくてもよろしいんですか?」と言い、自分の口に差し押さえの札を貼った。

これが新聞で報道されて話題となり、大勢の人が初代・桂春団治(皮田藤吉)を見るために寄席に詰めかけ、初代・桂春団治(皮田藤吉)を寄席にあげなければ、暴動が起きそうな勢いだった。

これには吉本興行部(吉本興業)も困り果てたのだが、落語家・林家染丸が追放を主張していた落語家連中を説得し、落語家の総意として初代・桂春団治(皮田藤吉)の恩赦を嘆願したので、吉本興行部(吉本興業)は落語家・林家染丸の嘆願を受け入れる形で、初代・桂春団治(皮田藤吉)を許した。

こうして、吉本興行部(吉本興業)は、さらに初代・桂春団治(皮田藤吉)に金を貸して、金で吉本興行部に縛りつけるようになり、ラジオに対する考え方も一転させたのであった。

吉本興行部(吉本興業)は、ラジオ事件を切っ掛けに、大阪放送局(NHK大阪/JOBK)にも厳しい対応をとったので、両社の関係が悪化した。大阪放送局との関係が修復するのは、ラジオ事件から4年後の事である。

エンタツ・アチャコの誕生

万歳の成長はめざましく、吉本興行部(吉本興業)に所属する万歳師は60組になろうかというころ、弟・林正之助は、アメリカ公演に失敗してヘアピン製造に転業した横山エンタツを吉本興行部(吉本興業)にスカウトした。

この時、横山エンタツが出した条件が、花菱アチャコとのコンビ結成だった。

花菱アチャコは千歳家今男とコンビを組んで、人気の万歳コンビとして活躍していたが、弟・林正之助は横山エンタツの条件を受け入れ、花菱アチャコにコンビを解消させ、横山エンタツとコンビを組ませた。

こうして、昭和5年(1930年)に万歳コンビ「エンタツ・アチャコ」が誕生したのである。

弟・林正之助は「エンタツ・アチャコ」に洋服を着せて標準語を取り入れ、従来の万歳とは違う新しい万歳のスタイルを取らせ、昭和6年には野球ネタ「早慶戦」で大ヒットを飛ばした。

こうして、「エンタツ・アチャコ」は「インテリ万歳」として絶大なる人気を誇り、近代的な漫才スタイルを確立したのである。

戦地慰問団を派遣

昭和6年(1931年)9月、満州事変が勃発すると、吉本興業の林正之助は朝日新聞と手を組み、昭和6年12月に満州駐留軍の慰問団「皇軍慰問隊」を派遣した。

メンバーは、漫才のエンタツ・アチャコ、講談の神田山陽、漫談の花月亭九里丸である。

朝日新聞がこれを大々的に報じてくれたので、戦地慰問団は万歳コンビ「エンタツ・アチャコ」の売名に貢献した。この戦地慰問団が後に「笑わし隊」へと繋がる。

吉本興業の設立

昭和7年(1932年)3月1日、吉本興行部は「吉本興業合名会社」に改組し、吉本せい(林せい)が主宰者に就任した。そして、弟・林正之助が総支配人に就任し、弟・林弘高が東京支配人に就任した。

漫才を発掘して育てたのは弟・林正之助で、落語家を担当していた吉本せい(林せい)は、漫才には関与していなかった。

こうしたこともあり、吉本興業合名会社の設立を機に、吉本せい(林せい)は第一線を退き、吉本興行を弟・林正之助に任せた。

万歳から漫才へ

昭和6年(1931年)に東京支店に入社していた橋本鉄彦(橋本鐡彦)が、弟・林正之助に認められ、昭和7年10月に大阪の吉本興業へ異動した。

橋本鉄彦(橋本鐡彦)は、「文藝部」「宣伝部」「映画部」の三部門を統括し、昭和8年1月に文藝部から「吉本演芸通信」を発行した。

そして、この橋本鉄彦(橋本鐡彦)が、「吉本演芸通信」の中で、「万歳」から「漫才」へ表記を変更する事を発表したのである。

これは万歳師からも大きな反対があったが、橋本鉄彦(橋本鐡彦)の説得により、万歳師も納得し、名実ともに「漫才」時代を迎えた。

吉本興業とNHK大阪の和解

昭和5年に起きた初代・桂春団治(皮田藤吉)のラジオ事件を切っ掛けに、吉本興業と大阪放送局(NHK大阪/JOBK)の関係は悪化し、対立が続いていた。

しかし、東京ではラジオ放送の翌日に寄席の客が増えていたことから、吉本興業も、敵視していたラジオに対する考えを一転させていた。

一方、大阪放送局(NHK大阪/JOBK)も、大阪演芸界を牛耳る吉本興業を抜きに、大阪で放送を続けていくのは難しかった。

このため、吉本興業が大阪放送局(NHK大阪/JOBK)の要請を受け入れる形で昭和9年(1934年)に和解し、大阪放送局が昭和9年6月10日に南地の寄席「法善寺花月」から漫才コンビ「エンタツ・アチャコ」の十八番「早慶戦」を中継放送した。

こうして、吉本興行の名前は、ラジオの電波に乗って、全国津々浦々まで届くようになったのであった。

落語時代の終演

漫才コンビ「エンタツ・アチャコ」と誕生と、「万歳」から「漫才」へ改称したことにより、名実ともに近代「漫才」時代を迎えるなか、落語は終演を迎えていた。

衰退した落語界にあっても絶大なる人気を誇った初代・桂春団治(皮田藤吉)も、ラジオ事件を起こした翌年の昭和6年に体調が悪化して、ほとんど寄席に出られなくなり、昭和9年(1934年)10月6日に死去した。享57で、死因は胃癌だった。

桂春団治の弟子・桂小春団治も、吉本興業の落語家冷遇に不満を募らせ、昭和8年(1933年)10日に吉本興業に内容証明を送りつけて、吉本興業を出奔した。

しかし、大阪では吉本興業を避けて落語を続ける事はできず、弟子・桂小春団治は東京へと流れていった。

こうして、仕事が無いのに品格を重んじて、口うるさいだけの老害となっていた落語は、ひっそりと終演を迎えたのだった。

女今太閤、女小林一三

吉本興業の創業者・吉本せい(林せい)は、京都の松竹を創業した「白井松次郎」、宝塚歌劇団や東宝を有する阪急グループ総帥の「小林一三」にならび、三大興行師の1人になっていた。

演劇界の「松竹」「東宝」と比べると、演芸界の吉本興業は象と蟻ほどの差があるが、吉本せい(林せい)は莫大な富を築いていた。

経営の第一線を退いた吉本せい(林せい)は、熱心に寄付をしており、昭和3年に紺綬褒章を受章し、昭和9年2月11日には、多額の寄付を下として、大阪府から表彰された。

これを持ってマスコミは、吉本せい(林せい)を「女今太閤」「女小林一三」などと賞賛した。

一方、吉本興行としては、昭和9年3月に東京・有楽町の日本劇場にアメリカのボードビルショー「マーカスショー」を招聘して成功させ、その勢いに乗って昭和9年4月に新橋演舞場で「特選漫才大会」を開催した。

第2回・特選漫才大会では、エンタツ・アチャコも出演し、東京でも吉本興業の名を上げた。

吉本せい(林せい)を逮捕

「女今太閤」「女小林一三」と賞賛され、名声を手に入れた吉本せい(林せい)に災いが降りかかる。

京都で発生した脱税事件が大阪に飛び火し、昭和10年11月6日に大阪府議会の議長・辻阪信次郎が、脱税汚職事件で逮捕された。

さらに、同日、辻阪信次郎に連座して、吉本興業の主宰者・吉本せい(林せい)も逮捕されたのだ。

辻阪信次郎はマーカスショーを招聘に尽力した人物で、吉本興行の顧問格とされ、吉本興行は辻阪信次郎らに賄賂を贈る見返りとして、興行税・所得税の査定で温情を受けていたという容疑だった。

吉本せい(林せい)は第一線を退いており、ヤクザの対応も含めて吉本興業の闇は弟・林正之助が請け負っていたが、捜査の手は吉本せい(林せい)にまで及んだのである。

一連の脱税汚職事件は広域に及び、松竹の創業者・白井松次郎を始め、興行界・花街の顔役が次々と逮捕されるという大事件に発展した。

吉本せい(林せい)は刑務所に収容され、起訴されたが、病気を理由に釈放され、赤十字病院へと入院した。

この事件は、大物が次々と逮捕されて世間を賑わせたが、昭和11年1月23日に辻阪信次郎が獄中で首を吊ったため、真相はヤブの中となり、僅かな事件が立件されただけで、有耶無耶に終わった。

吉本せいが通天閣を買う

昭和12年(1937年)7月に日中戦争が勃発し、昭和13年(1938年)4月には国家総動員法が公布された。

弟・林正之助は昭和13年、昭和6年に起きた満州事変の時と同じように、再び吉本興行の精鋭を集め、戦地慰問団「笑わし隊」を結成して派遣した。

このようななか、吉本せい(林せい)は昭和13年(1938年)9月27日に大阪のシンボル「通天閣」を31万円で購入する。

既に吉本興業は通天閣周辺の寄席「新地花月」「芦辺花月」「南陽演舞場」を手中に収めており、「吉本の地を踏まなければ、通天閣に登れない」と言われる程で、吉本興業が通天閣を購入したニュースは大阪を駆け抜け、吉本せい(林せい)は脱税汚職事件で逮捕された汚名を返上することができた。

ところで、吉本せい(林せい)が通天閣を改修したときに「ライオン歯磨」の広告を付けたという逸話が残っている。

しかし、吉本せい(林せい)が通天閣を購入したとき、既に「ライオン歯磨」の広告は通天閣に取り付けられており、「ライオン歯磨」広告の逸話は創作である。

吉本と松竹の抗争

吉本興業は、漫才コンビ「エンタツ・アチャコ」は解散させ、小林一三の「東宝」と提携して映画へと進出した。

これに対し、万歳師引き抜き事件などで吉本興業に遺恨を持つ「松竹」は、「新興演芸部」を設立して演芸界へと侵攻し、莫大な資金力を背景に、吉本興業から芸人を引き抜きにかかった。

吉本と松竹の抗争は凄まじく、最終的に大阪府警・京都府警が仲介に乗り出して調停に及び、休戦に至った。

松竹の提示した給料は「ゼロが1つ多かった」というが、吉本興業の被害は少なくて済んだ。

しかし、吉本興業は、戦争によって芸人を失い、大阪大空襲によって寄席を失ってしまうのであった。

吉本興業の戦後

戦争により全てを失った吉本興業は、退職金代わりに借金を棒引きし、芸人との契約を全て解除して、演芸を捨てた。

ただし、吉本せい(林せい)が「一生面倒を見る」と約束した花菱アチャコとの契約だけは継続した。

こうして、吉本興業は演芸から撤退し、GHQの外輪団体「セントラル映画社」から映画配給を受け、焼け残った寄席で寄席で映画を上映し、映画館の経営として戦後の再スタートを切った。

さらに、吉本興業は、松竹が拒否したキャバレーの開設を引き受け、アメリカ将校を慰問場として、昭和21年(1946年)に京都・祇園でキャバレー「グランド京都」を開いた。

このキャバレー「グランド京都」が大ヒットしたので、吉本興業は戦後の不況を乗り切り、昭和23年(1948年)1月に「吉本興業株式会社」を設立し、昭和24年(1949年)5月には大阪証券取引所に上場を果たした。

一方、弟・林弘高の東京吉本は、昭和21年(1946年)10月31日に「吉本株式会社」として、大阪の吉本興業から分離・独立する。

林正之助と林弘高は、兄弟でも性格が全く正反対だったため、兄弟間の対立が分裂の原因とも言われているが、真相は分からない。

演芸を見捨てた吉本、演芸を再建した松竹

戦後、吉本興業に見捨てられた大阪の演芸界は、吉本興業に潰された落語によって復興を始めた。

落語家の5代目・笑福亭松鶴が戦後、落語会を開いて落語の復興を開始する。
松竹の創業者・白井松次郎は、吉本興業の動きを見ていたが、演芸を捨てた吉本興業は一切、寄席を再開させようとしなかった。

そこで、松竹の創業者・白井松次郎は、5代目・笑福亭松鶴と手を組んで寄席を開いてみたところ、大当たりしたので、落語家を寄席にあげて大阪の演芸界を再建していった。

他方、吉本興業に見捨てられた漫才師も、秋田實を盟主に「MZ研究会」を発足して復興を開始し、後に「宝塚新芸座」へと発展する。

こうして、戦後の吉本興業は、演芸を見捨てて、松竹が拒否したキャバレーや映画館で復興していき、キャバレーを拒否した松竹は、吉本興業が捨てた演芸で復興していくのである。

吉本せい(林せい)の死

大阪大空襲で大阪の自宅を失った吉本せい(林せい)は、甲子園の別邸に移り住んでいた。戦後は報告書を読む程度で、吉本興業には関わっていない。

演芸を捨てた吉本興業は、映画館とキャバレー「グランド京都」の経営で復興し、昭和23年(1948年)1月に「吉本興業株式会社」を設立すると、吉本せい(林せい)は会長へと退き、弟・林正之助に社長を譲った。

こうして、名実ともに吉本興業は弟・林正之助に委ねられ、林家のものとなった。

吉本せい(林せい)の長男・吉本泰之助は2歳で夭折しており、男児は次男・吉本泰典(吉本穎右)だけだったが、次男・吉本泰典(吉本穎右)も病気がちだった。

吉本せい(林せい)は、溺愛する次男・吉本泰典(吉本穎右)に吉本興業を継がせたかったようだ。

しかし、次男・吉本泰典(吉本穎右)は、吉本せい(林せい)の意に反して、歌手・笠置シヅ子(後に「ブギの女王」として活躍)と恋に落ちた末、肺結核にかかり、昭和22年(1947年)5月19日に死去した。

こうして、吉本興業の創業者・吉本泰三(吉本吉兵衛)の男系の血筋は途絶え、吉本せい(林せい)も肺結核で昭和25年(1950年)3月14日に死去した。享年61だった。

吉本せい(林せい)の死後

演芸を見捨てた弟・林正之助は、映画館とキャバレーの経営で安定経営をしていたので、演芸への復帰に反対だったが、昭和31年(1956年)に演芸復帰派に押し切られ、演芸界への復帰を決定した。

既に松竹芸能などは朝日テレビ・読売テレビなどと関係を築いていたので、後れを取る吉本興業は、これからテレビ放送を開始するテレビ局「毎日放送」と手を組み、演芸に復帰した。

そして、吉本興業は昭和31年(1956年)3月1日、毎日放送の放送初日に「吉本バラエティ」(後の吉本新喜劇)を中継放送して、演芸に復帰を果たした。

しかし、寄席に全く客が入らなかったので、弟・林正之助は激怒して、演劇復帰派の首を取って千日前(旧火葬場)に晒そうとしたという。

その後、吉本興業はテレビと供に発展していき、「明石家さんま」「中田ボタン」「横山やすし」「島田紳助」「松本人志」「板尾創路」など数々の人気タレントを輩出する一流芸能プロダクションへと発展するのであった。

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