吉本興業の創業者・吉本せい(林せい)の立志伝

NHKの朝ドラ「わろてんか」のモデルとなる「吉本興業」の創業者・吉本せい(林せい)の立志伝です。

吉本せい(林せい)の立志伝

吉本せい(林せい)の画像吉本せい(林せい)は、明治22年(1889年)12月5日に兵庫県明石市東本町で、林豊次郎の3女として生まれた。母親は「林ちよ」である。

なお、「せい」を漢字にした「吉本勢(林勢)」という表記は間違い。実弟・林正之助の妻の名前が「林勢」であり、「吉本勢(林勢)」というのは誤伝だと思われる。

さて、吉本せい(林せい)の実家・林家は兵庫県明石郡戎町の出身で、明石藩松平家の下級藩士の家系である。

明治維新を迎えて帰商し、父・林豊次郎は、兵庫県明石市東本町で太物屋「紀伊國屋」を営んでいた。

太物屋というのは、綿や麻の着物を扱う着物屋である。これに対し、絹の着物を扱う着物屋を「呉服屋」と呼んだ。

その後、父・林豊次郎は、吉本せい(林せい)が10歳の時に大阪府大阪市北区へと移り、天神橋5丁目で米穀商・金融業を営むようになった。

吉本せい(林せい)は学校の成績も良く、進学を希望していたが、船場の商家は「女子に学問は必要ない」という考え方だったので、進学は諦め、尋常小学校を卒業すると奉公に出た。

このころ、奉公先は親戚の紹介などで決めるのだが、吉本せい(林せい)は自分で奉公先を見つけてきて、両親に事後承諾させ、奉公に出た。

吉本せい(林せい)の奉公先は、北浜の相場師として有名な島徳蔵や、今橋の鴻池家という大阪でも有数の商家で、ここに上女中として奉公した。

しかし、大阪の商家は始末屋(ドケチ)なので、大阪で有数の商家ということは、大阪で有数なブラック企業ということである。

奉公先の主は、女中の食費を減らすため、蔵から漬け物の樽を出してきて、雨が当たるところに置き、食事中に悪臭が漂うようにした。

臭いにたまりかねた吉本せい(林せい)は、女中仲間に、毎日1銭ずつ出し合ってショウガを購入し、刻んでかければ、臭みも消えるだろうと提案したのだが、これが奉公先の家老の耳に入り、叱責された。

また、吉本せい(林せい)は優秀だったので、先輩の女中からも虐められた。

その後、奉公が明けると、実家・林家に戻り、家業を手伝った。吉本せい(林せい)は、ここでも商才を発揮して売上げを伸ばし、父・林豊次郎を驚かせた。

吉本泰三(吉本吉兵衛)と結婚

林家の取引先に、老舗の荒物問屋「箸吉(はしきち)」があり、荒物問屋「箸吉」には吉本吉次郎(後の吉本泰三)という跡取り息子が居た。

ある日、荒物問屋「箸吉」の吉本吉次郎(吉本泰三)は融資の相談で、金融業を営む林家を訪れたとき、吉本せい(林せい)を見かけた。

これが出会いで、2人は明治40年(1907年)に結婚(事実婚)した。吉本せい(林せい)は19歳、吉本吉次郎(吉本泰三)は22歳の事である。

その後、吉本せい(林せい)が妊娠したので、明治43年(1910年)4月8日に籍を入れ、翌年の明治44年(1911年)に夫・吉本吉次郎(吉本泰三)は吉本家の家督を相続し、吉本家の当主が名乗る「吉本吉兵衛」を襲名した。

嫁いびり

吉本せい(林せい)は結婚して吉本家に入ると、姑・吉本ユキ(出口ユキ)から嫁イビリにあった。

吉本せい(林せい)が結婚3目の里帰りから戻ると、吉本ユキ(出口ユキ)は早速、大タライに山と積んだ洗濯物を吉本せい(林せい)に命じた。

洗濯物は分厚い木綿生地ばかりだったので、洗濯が終わる頃には、吉本せい(林せい)は手の皮が剥け、タライの水は血に染まったという。

また、吉本ユキ(出口ユキ)は「こないな所帯持ちの悪い嫁に来られては、ワテら乞食せなならん」などと嫌みを言い、吉本せい(林せい)をイジメ続けた。

しかし、この嫁いびりは、そうながくは続かなかった。

荒物問屋「箸吉」の廃業

夫・吉本吉兵衛(吉本泰三)は「働き者」として評判であり、吉本せい(林せい)は老舗の「ごりょんさん」として幸せに暮らすはずだった。

ところが、働き者と評判だった夫・吉本吉兵衛(吉本泰三)が、吉本せい(林せい)と結婚した頃から、家業を放り出して芸人遊びに走ったのである。

実は、姑・吉本ユキ(出口ユキ)は、夫・吉本吉兵衛(吉本泰三)の実母では無く、血のつながりの無い後妻だった。

吉本せい(林せい)と結婚する直前に、姑・吉本ユキ(出口ユキ)が後妻として吉本家に入っており、夫・吉本吉兵衛(吉本泰三)は後妻として入ってきた吉本ユキ(出口ユキ)との関係が上手くいかず、芸人道楽に走ったのである。

さらに、夫・吉本吉兵衛(吉本泰三)は、旦那芸として覚えた剣舞に熱を上げ、終いには「女賊島津お政本人出演のざんげ芝居」という一座の太夫元(興行主)となって旅巡業に出て、自身も幕の合間に舞台に上がり、趣味の剣舞を披露するという有様で、旅巡業の度に借金を膨らませるようになった。

一方、荒物問屋「箸吉」は5代も続く名のある老舗だったが、日露戦争後の不況で貸し倒れが相次ぎで業績は傾いており、2度の差し押さえを受けてしまう。

そして、夫・吉本吉兵衛(吉本泰三)が旅巡業に出ている間に、荒物問屋「箸吉」が大阪市電鉄の計画にひっかかり、立ち退きを命じられた。

荒物問屋「箸吉」を移転する道もあったが、夫・吉本吉兵衛(吉本泰三)が旅巡業に出て不在だったため、残された吉本せい(林せい)だけでは、経営の悪化した荒物問屋「箸吉」を建て直すことは難しく、そのまま荒物問屋「箸吉」は廃業したのであった。

寄席の経営を開始

荒物問屋「箸吉」の廃業後、吉本家は黒門町の方へ引っ越していたが、吉本せい(林せい)は吉本家を頼らず、実家の林家に戻り、夫・吉本吉兵衛(吉本泰三)の帰りを待った。

夫・吉本吉兵衛(吉本泰三)は帰ってくると、荒物問屋「箸吉」が廃業しており、知らない間に無職になっていたが、それでも芸人遊びを続けた。

父・林豊次郎は吉本せい(林せい)を溺愛していので、道楽を続ける夫・吉本吉兵衛(吉本泰三)に怒っていた。

このため、吉本せい(林せい)は、実家に居づらくなったのか、あまり林家には長居はせず、丸帯を売って26円を作り、天満宮(天満天神)表にある長屋に引っ越した。部屋は2間だけで、敷金10円・家賃3円だった。

吉本せい(林せい)が引っ越し費用を作り、そのうえ、手に血をにじませながら縫い物をして食い扶持を稼いでいたが、それでも夫・吉本吉兵衛(吉本泰三)は芸人遊びを続けていた。

そのようななか、夫・吉本吉兵衛(吉本泰三)が突如して、経営不振に陥っていた三流の寄席「第二文芸館」の権利を購入する約束をしてきたと言いだした。

天満宮(天満天神)裏に寄席が8軒並んでおり、これを「天満8軒」と呼んだ。第二文芸館は天満8軒の一番端にあり、何をやっても大入りにならないというボロボロの寄席だった。

「ほな、そこ、ウチがやるって言うてしもたって。私に事後承諾せえいうことですがな」

吉本せい(林せい)が呆れて値段を尋ねると、夫・吉本吉兵衛(吉本泰三)は購入するのは営業権利だけで、権利金500円・家賃100円だと教えた(金額は諸説有り)。

当時は1000円で家が建ったので、500円と言えば高額である。しかも、お金の算段も、当然、吉本せい(林せい)任せだった。

針仕事で食いつないでいる吉本せい(林せい)に、そのような大金があるはずも無く、夫・吉本吉兵衛(吉本泰三)の実家・吉本家にお金を借りに行った。

しかし、明治時代は、芸人が「川原乞食」と呼ばれて差別されており、芸人遊びは甲斐性として認められていたが、寄席の経営をして芸能界に足を踏み入れることは忌み嫌われていた。

このため、吉本家は、老舗の荒物問屋「箸吉」を営んでいたプライドから、「川原乞食に成り下がることはない」と支援を拒否した。

吉本家の怒りは凄まじく、吉本吉兵衛(吉本泰三)を勘当同然に扱ったので、吉本吉兵衛(吉本泰三)は父から襲名した「吉本吉兵衛」を返上し、通称として「吉本泰三」を名乗るようになったという。

ただし、戸籍までは改名しておらず、本名「吉本吉兵衛」、通称「吉本泰三」という形である。

さて、吉本せい(林せい)の父・林豊次郎も、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)がヒモのような生活をしていたことから、「あんな道楽者とは別れてしまえ」と激怒していた。

しかし、吉本せい(林せい)はなんとか頼み込み、苦労の末、父・林豊次郎から、いくらかのお金を借りる事に成功。さらに、方々を走り、お金を調達した。

すると、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は「せい、おおきに。やっぱ嫁ハンや」と大喜びし、「後はワシに任せとけ」と胸を叩いたのであった。

浪速落語反対派との提携

明治時代の一流の芸といえば落語であり、落語以外の諸芸は「色物」と呼ばれ、二流・三流の扱いを受けていた。

明治時代の演芸の中心は落語で、大阪の落語界は「桂派」と「三友派」がしのぎを削り、明治時代に黄金期を築いていたが、明治時代の後半ごろから、落語に陰りが見え始めていた。

しかし、依然として一流の芸は落語であり、一流の落語家は品格を重視しており、二流・三流の寄席には出なかった。

このようななか、三流の寄席「富貴」の席亭・岡田政太郎は、落語家が寄席にあがってくれないことから、浪速の落語に反対し、二流・三流のゴミ芸人をかき集め、「なんでも構わぬ、上手いも下手もない、銭が安うて、無条件に楽しませる演芸」という方針の芸能プロダクション「浪速落語反対派(岡田興行部)」を発足していた。

夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は、芸人遊びを通じて、「反対派」の興行主・岡田政太郎と知り合っており、寄席「第二文芸館」の権利を購入すると、岡田政太郎の「反対派」と提携し、明治45年(1912年)4月1日に「第二」を外して「文芸館」という名前で寄席の営業を開始した。

この年(明治45年)、大阪の万歳師・砂川捨丸が、万歳(漫才の前身)から卑猥な要素を排除した「洗練された万歳」を確立し、神戸の新開地で洗練された万歳を興行して大当たりさせた。

この砂川捨丸の大当たりが切っ掛けで、神戸の新開地に万歳師が集まり、神戸の新開地は万歳のメッカとなっていた。

吉本興行部(吉本興業)の設立と吉本商法

一般的な寄席は入場料15銭だったが、ボロボロの寄席だった「文芸館」は入場料5銭という格安路線で勝負した。

ただし、他の寄席は入場料15銭に下足代が含まれているのに対し、「文芸館」は入場料5銭の他に下足代2円を取ったので、実質的な入場料は7銭だった。これも、入場料を安いと思わせる作戦だった。

さらに、吉本せい(林せい)は、満席になると、面白い芸人の間に、つまらない芸人を出演させて、客に飽きさせて帰らせ、席に空きが出来ると、新たな客を呼び込み、定員200人の「文芸館」に、祝日や祭日には700人を入れた。

また、吉本せい(林せい)は、わざと喉の渇くような食べ物を売り、飲み物で売上げを稼ぎいだり、客の食べ残したミカンの皮を陳皮の原料として薬問屋に売却したりして、様々な工夫で利益を上げた。

そして、吉本せい(林せい)は、寄席「文芸館」の経営を開始した翌年の大正2年(1913年)1月に大阪府大阪市南区笠屋町で「吉本興行部」を設立した。

(注釈:ただし、実際は、吉本泰三は「反対派」の岡田政太郎と共同で「芦辺合名社」を設立し、「芦辺商会」を名乗っていた。正式に「吉本興行部」を名乗るのは4年後の大正6年から。)

現在の吉本興業は「事業を興す」という意味の「興業」を使っているが、吉本興行部は「催し物を開いて入場料を取る」という意味の「興行」を使っている。

ところで、提携している岡田政太郎の「反対派」は、「格安の入場料」「寄席のチェーン展開」「芸人をお金で縛る」という経営戦略で拡大していた。

そして、「反対派(岡田興行部)」から岡田政太郎の懐刀と呼ばれる青山督が出向して、吉本興行部の総支配人を務めており、吉本興行部(吉本興業)も「反対派(岡田興行部)」と同様に「格安の入場料」「寄席のチェーン展開」という経営方針で事業を拡大しることになる。

夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は、吉本興行部(吉本興業)を設立した翌年の大正3年(1914年)に、早くも、松島の寄席「芦辺館」、福島の「龍虎館」、梅田の寄席「松井館」、天神橋筋5丁目の「都座」を買収し、三流の寄席ながら、寄席のチェーン展開を始めた。

寄席で働く、お茶子や下足番は、客から貰うご祝儀を主な収入源としており、吉本が払う給料はごく僅かだったので、寄席が増えても経費はそれほど変わらないため、寄席が増えれば増えるだけ、儲かる一方だった。

こうして、規模が拡大してくると、人手が足りないこともあり、吉本せい(林せい)は、大正6年(1917年)に10歳下の弟・林正之助を吉本興行部(吉本興業)に招き入れた。

弟・林正之助は、強制的に吉本興行部(吉本興業)で働く事を命じられ、下足番を経て直ぐに「総監督」という役職が与えられが、仕事の内容は吉本の寄席を巡回して、管理・監督・集金などをするという雑用だった。

公務員の初任給が70円だった頃に、吉本泰三(吉本吉兵衛)は200円の給料をくれたが、弟・林正之助は公務員の3倍も4倍も働かされた挙げ句、ヤクザの対応まで押しつけられてしまった。

一流の寄席「金沢席」を買収

大正時代に入ると、地方の若者が大阪へ流入するようなった。大阪の会社はブラック企業なので、こうした若者は、お金も時間も無く、安くて単純に面白い演芸を好んだ。

こうした背景を原因に、長たらしいストーリーを重視する落語は廃れていき、安くて単純に面白い芸を売りにする吉本・岡田反対派連合が勢力を伸ばしていった。

このようななか、落語の「桂派」も「三友派」も指導者的な人物を失って求心力を欠いたこともあり、大正時代に入ると、衰退の一途をたどっていた。

特に本格落語を守っていた「桂派」の衰退は激しく、吉本せい(林せい)は大正7年(1918年)に「桂派」の拠点「金沢席(蓬莱館)」の買収に成功する。

金沢席の席亭は金沢利助という金貸しで、売値は1万5000円でビタ1文負けられないと言ったが、吉本せい(林せい)は1万2000円に値引きさせ、「金沢席」を取得することに成功したのだ

こうして、吉本せい(林せい)は、寄席の経営の開始から、わずか6年で、ミナミにある「金沢席(蓬莱館)」という一流の寄席を手に入れたのである。

花月と命名

落語家・桂太郎は易に精通しており、何事も縁起を担ぐ吉本せい(林せい)は、ことある事に落語家・桂太郎に相談をしていた。

そこで、吉本せい(林せい)は買収した「金沢席」に変わる新しい名前について、落語家・桂太郎に相談した。

相談を受けた落語家・桂太郎が占ったところ、「花と咲くか月と陰るか、すべてを賭けて」という易が出たため、「花も月も使おう」ということで「花月」という名前を考えた。

この占いを受けて吉本せい(林せい)は、「金沢席」を「南地花月」と改名し、吉本系の寄席を「○○花月」の名前でチェーン展開していった。

また、大正8年(1919年)には、落語の「三友派」を代表する寄席の1つ「永楽館」が吉本興行部(吉本興業)の軍門に降り、吉本興行部(吉本興業)は「永楽館」を「花月倶楽部」と改名した。

こうして、吉本せい(林せい)は、ミナミの「南地花月」、北新地の「花月倶楽部」という大阪を代表する寄席を2つも手に入れたのであった。

一方、盟友の反対派(岡田興行部)の岡田政太郎も、京都の寄席を買収して、京都進出を果たして勢力を拡大していた。

吉本せい(林せい)の余命宣告

大正8年(1919年)2月、吉本せい(林せい)は39度の高熱を出して倒れてしまう。

吉本せい(林せい)は、医師から治療の方法が無いと言われ、日本赤十字病院から入院を拒否されるが、なんとか頼み込んで入院させてもらい、8ヶ月後に退院した。その後、半年間、兵庫県の明石で療養して復帰した。

このとき、吉本せい(林せい)は、医師から、もう子供は作れないと言われていた。

大正5年(1916年)12月1日に待望の長男・吉本泰之助が生まれていたが、長男・吉本泰之助は大正7(1918年)年7月5日に死去しており、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)には跡取りが居なかった。

このため、子供が産めなくなると言われた吉本せい(林せい)は、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)に妾(愛人)を作るように勧めた。

落語不況で安来節

現芸界の中心にあった落語が衰退の一途をたどっており、落語に変わる演目を発掘しなければならなかった。

そこで、吉本せい(林せい)は、三流の寄席で流行していた島根県の安来節に目を付け、実弟・林正之助を島根県に派遣し、「手見せ(オーディション)」を開かせて、安来節の新人を発掘した。

また、吉本せい(林せい)は、ただの安来節では面白くないと思い、高い音域で歌い始めて独特のこぶしを利かせる「お直節」で有名な「遠藤お直」に目を付け、「遠藤お直」と専属契約を結んだ。

こうして、安来節は昭和初期まで人気を博し、吉本興行部(吉本興業)の落語不況を救ったが、安来節は落語に変わるほどの芸で演芸ではなかった。

吉本花月連の発足

勢力を拡大する吉本せい(林せい)は、三友派の実力者・三升家紋右衛門を月給500円で引き抜いた。

サラリーマンの月給が40円、1000円で家が建ったので、月給500円と言えば相当な金額だが、これが良き宣伝となり、三友派の実力者である桂文枝・桂家残月・桂枝太郎・橘家圓太郎などが吉本興行部(吉本興業)と専属契約を結んだ。

こうして、吉本興行部(吉本興業)は若干の芸人を抱えていたが、あくまでも、吉本興行部は寄席の経営が中心であり、提携する「反対派(岡田興行部)」から芸人を派遣してもらい、反対派の芸人を吉本の寄席にあげていた。

こうした状況に異を唱えたのが、弟・林正之助である。

吉本興行部(吉本興業)と「反対派(岡田興行部)」は提携して「岡田・吉本反対派」と形になっていたが、吉本興行部は既に反対派の寄席の過半数を経営して、反対派の芸人に大きな影響力を持っており、反対派(岡田興行部)の興行主・岡田政太郎と力関係は逆転していた。

さらに、反対派(岡田興行部)からの出向組の青山督や滝野寿吉と言った切れ者は、既に吉本興行部に付いていた。

そこで、弟・林正之助は、吉本興行部(吉本興業)を大きくするためには、「反対派(岡田興行部)」を飲み込んで、吉本興行部で芸人を抱えるべきだと言い出したのである。

しかし、吉本せい(林せい)は、興行主・岡田政太郎に義理立てして、首を縦に振らなかった。

このようななか、大正9年(1920年)12月に反対派(岡田興行部)の興行主・岡田政太郎が死去した。

すると、弟・林正之助が再び反対派(岡田興行部)を飲み込む案を提案すると、今度は吉本せい(林せい)も止めなかった。

そこで、吉本せい(林せい)は、岡田政太郎の次男・岡田政雄に「反対派(岡田興行部)」を継がせてから、岡田政雄に1万円の手形を渡し、反対派(岡田興行部)の権利を売却させた。

ところが、売却を承諾した岡田政雄が、一転して、岡田派の芸人を率いて「岡田反対派」を発足した。

すると、吉本せい(林せい)は岡田政雄に渡した1万円の手形を不渡りにして、反対派(岡田興行部)の権利をタダで手に入れ、「吉本花月連」を発足した。

こうして、「反対派」は「岡田反対派」と「吉本花月連」に分裂したが、吉本せい(林せい)の画策によって「岡田反対派」は、わずか3ヶ月で内部崩壊を起こし、「吉本花月連」に吸収された。

こうして、吉本興行部(吉本興業)は「浪速落語反対派(岡田興行部)」を飲み込んで一気に勢力を拡大したのである。

初代・桂春団治(皮田藤吉)との専属契約

初代・桂春団治(皮田藤吉)は、「芸のためなら女房も泣かす」という歌のモデルとなった落語家で、落語よりも話題作りを重視し、数々のスキャンダルを起こして世間を賑わし、スキャンダルの度に人気を上げた。

そして、初代・桂春団治(皮田藤吉)は、支援者だった薬問屋「岩井松商店」の「岩井志う」という金持ちの未亡人(後家さん)を射止めて、妻子を捨て「岩井志う」と再婚した。

この騒動は「後家殺し」として大いに世間を賑わせ、初代・桂春団治(皮田藤吉)は、低迷する落語界にあっても絶大なる人気を誇っていた。

さて、初代・桂春団治(皮田藤吉)は「三友派」の大看板だったのだが、三友派の寄席に出演する一方で、再婚相手「岩井志う」の莫大な持参金を元手にして三流の寄席「浪速亭」を買い取って席亭となり、大正7年(1918年)に「浪速派」を立ち上げた。

ところが、初代・桂春団治(皮田藤吉)は一族郎党を率いて遊んでばかりで、寄席をスッポカスため、客は寄りつかなくなり、借金を膨らませる一方だった。

終いに、初代・桂春団治(皮田藤吉)は、大正10年(1921年)に「浪速派」を解散して、大阪はインフルエンザが流行しているという口実で、大阪を逃げ出し、中国地方・九州地方へ旅巡業に出たのである。

これを待ちかねていたのが、吉本せい(林せい)だった。

以前から初代・桂春団治(皮田藤吉)を狙っていた吉本せい(林せい)は、初代・桂春団治の借金2万円を肩代わりすることで、月給700円で初代・桂春団治と専属契約を結んだのである。

三友派の降伏と吉本王国

吉本興行部(吉本興業)が経営する「南地花月」の西側に三友派の拠点「紅梅亭」があり、三友派は「紅梅亭」で吉本興行部(吉本興業)に抵抗を続けていた。

しかし、東の「南地花月」に初代・桂春団治(皮田藤吉)の看板があがるようになると、「紅梅亭」の客は東の「南地花月」へと流れた。

それでも、三友派は「紅梅邸」を拠点に抵抗を続けていたが、終いには戦意を喪失し、大正11年(1922年)8月に、条件つきながらも「紅梅亭」を吉本興行部(吉本興業)に譲って、吉本の軍門に降った。

こうして、吉本せい(林せい)は「桂派」「三友派」「反対派」を読み込んで、大阪演芸界で最大の勢力となり、最盛期の大正11年(1922年)には大阪18館・神戸2館・京都5館・東京1館・神奈川1館・名古屋1館の計28館の寄席を手に入れ、吉本王国を築いたのである。

ただし、この時はまだ、「吉本花月連・三友派連合」として、三友派の名前は残っていた。

三友派の名前が消えるのは、昭和2年(1927年)に、弟・林正之助が「紅梅亭」を正式に経営権の譲渡を受けた時である。

吉本せい(林せい)は落語家を大切にしていたので、三友派の名前を残そうとしたのだが、弟・林正之助が三友派の名前を消したのだ。

さらに、弟・林正之助は、「南地花月」と「紅梅亭」が道を挟んで隣り合っていたため、吉本の寄席が近所にあっても客を食い合うだけとして、由緒ある「紅梅邸」を酒屋した後、昭和10年(1935年)に小料理屋「料亭・花月」にしてしまった。

関東大震災と吉本せい

大阪を征服した夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は、東京・神田川の「川竹亭」を買収して「神田花月」と改名しており、「神田花月」を足がかりに東京進出を目論んでいた。

そのようななか、大正12年(1923年)9月1日に関東大震災が発生し、東京の寄席は壊滅的な被害を受けた。

吉本せい(林せい)は直ぐに毛布や慰問品を買い付けると、弟・林正之助と支配人の青山督と滝野寿吉を東京へ派遣し、東京の芸人を見舞わせた。

東京の落語家はプライドが高く、大阪の寄席には来てくれなかったが、これに感謝して、大阪へと来て吉本の寄席に上がり、さらには地方巡業にも参加してくれたので、吉本興行部(吉本興業)の名前は東京や地方にも広まった。

夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)の死

吉本せい(林せい)が大正12年(1923年)10月26日に次男・吉本穎右(吉本泰典)を出産する。長男・吉本泰之助は2歳で夭折しているので、次男・吉本泰典(吉本穎右)が跡取り息子である。

夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は、大阪の演芸界を征服し、待望の跡取りも誕生したことから、ようやく我が世の春が来たと喜んでいた。

ところが、その矢先の大正13年(1924年)2月13日、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)が死去してしまう。死因は脳溢血とも心臓麻痺とも言われる。享年39だった。

吉本せい(林せい)は医師から「もう子供は産めない」と宣告されたとき、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)に妾(愛人)を持つように勧めており、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は妾(愛人)の家で死去したと伝わる。

大正時代は黒の喪服が定着していたが、船場の商家では、夫に先立たれると、「一生、二夫にまみえず」という意味で白い喪服を着る仕来りがあり、吉本せい(林せい)は、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)の葬儀で白い喪服を着て、世間を驚かせた。

しかし、流石の吉本せい(林せい)も、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)の死にはショックを受けており、「これからは、アンタが頼りやで」と言い、弟・林正之助に吉本興行部(吉本興業)の経営を任せた。

そして、吉本せい(林せい)は、生まれたばかりの次男・吉本泰典(吉本穎右)に家督を相続させ、自身は親権を行使するという形を取った。

また、吉本せい(林せい)は、この頃から警察のOBを積極的に雇い入れるようになり、ヤクザと警察の両方と付き合い、どちらとも付かず離れずの距離を保った。

新体制と漫才の発掘

夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は大阪を制覇して吉本王国を築いたが、約30万円という莫大な借金を残しており、この借金が落語不況に苦しむ吉本興行部(吉本興業)の経営を圧迫していた。

このため、吉本せい(林せい)は、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)の死を悲しんでいる暇は無く、死んだ吉本泰三(吉本吉兵衛)の追善興行という名目で「東西合同名人会」を企画し、東京の神田花月を拠点にして本格的に東京進出を開始した。

さて、島根県の安来節が落語不況の救世主となっていたが、安来節は落語に変わる演目とまではいえず、落語に変わって演芸の中心となる演目を捜さなければならなかった。

そこで、吉本興業の経営を任された弟・林正之助が目を付けたのが、三流の寄席で流行していた「万歳(まんざい)」だった。

現在の「漫才」は、元々は「萬歳」と表記し、正月を祝う芸だったが、明治時代の後半に江州音頭の玉子屋円辰が「萬歳」から祝い事という要素を排除した「万歳」を確立して、演芸としての「万歳」が始まった。

初期の万歳は卑猥だったので、神戸では万歳が禁止されたのだが、明治45年(1912年)に大阪の万歳師・砂川捨丸が万歳から卑猥という部分を排除した「洗練された万歳」を確立し、神戸でも万歳が解禁された。

砂川捨丸が神戸の新開地で行った「洗練された万歳」による興行を大当たりをさせたので、方々から万歳師が集まり、神戸の新開地が万歳のメッカとなっていた。

既に吉本興行部(吉本興業)にも数組の万歳師が所属しており、万歳に着目した弟・林正之助は、試験的に寄席に起用する一方で、大正15年(1926年)には「大八会」という小さな団体に属していた万歳師・花菱アチャコを引き抜き、万歳の普及に奔走した。

松竹の万歳師引き抜き事件

万歳に自信を持った弟・林正之助は、松竹と提携して、松竹の道頓堀の弁天座(定員1500人)を借りて、昭和2年(1927年)の夏に「諸芸名人大会」を開催し、昭和2年(1927年)12月にも「全国漫才座長大会」を開催した。

吉本興業は「演芸」で、松竹は「演劇」だったため、お互いに対立することもなく、共存していた。

ところが、弟・林正之助の開催したイベントが大当たりしたので、弁天座を貸していた松竹の創業者・白井松次郎は、万歳が儲かることに驚き、吉本興業の万歳師を引き抜き始めたのである。

吉本興業は大阪の演芸界を制覇したが、あくまでも演芸界である。演芸界よりも演劇界の方が規模が大きく、演芸界・映画界の松竹と比べれば、子供と大人であり、天下の松竹が本気で万歳に出を出したら、吉本興業などひとたまりもない。

そこで、弟・林正之助は、松竹の乗り込み、松竹の創業者・白井松次郎を「刑務所にぶち込まれても吉本を守ります」「白井さんの命と引き替えになりますが、それでもよろしければどうぞ」と恫喝した。

こうして、弟・林正之助は、松竹の創業者・白井松次郎から「今後、吉本さんの手持ち(芸人)には一切、手を付けない」という念書を取り、松竹に手を引かせて吉本興業の危機を救ったのであった。

世界恐慌と10銭万歳

昭和4年(1929年)にアメリカの株価大暴落に端を発し、世界恐慌に発展した。昭和5年には日本にも不況の波が及んだ(昭和恐慌)。

弟・林正之助はこうした不況を乗り越えるため、入場料10銭で万歳を見せる「10千万歳」を思いついた。ラムネが1本6銭、10銭は狐うどん1杯くらいの値段である。

しかし、入場料10銭では寄席が満員になっても、赤字であり採算は取れないため、吉本せい(林せい)や他の社員も反対した。

それでも、弟・林正之助は反対を押し切って、昭和5年(1930年)5月11日から、千日前の南陽館で「10銭万歳」を始めた。

この「10銭万歳」が大当たりしたので、他の会社がマネして「10銭ライス」「10銭寿司」など次々と10銭の商品が生まれた。

エンタツ・アチャコの誕生

弟・林正之助の努力によって万歳は勢力を広めていき、吉本興行部(吉本興業)に所属する万歳コンビは60組になろうとしていた。

このようななか、林正之助は、昭和5年(1930年)3月に千日前の寄席「三友倶楽部」で、「万歳舌戦大会」を開催する。

これは入場者が好きな芸人に投票する人気投票が行われており、万歳コンビ「花菱アチャコ・千歳家今男」が3947票を取得して優勝する。2位を1000票も引き離しすという快挙だった。

すると、弟・林正之助は、自分が惚れてスカウトした花菱アチャコが優勝したので、これ以降、異常に花菱アチャコを可愛がるようになる。

吉本せい(林せい)が「他の芸人に示しが付かない」と注意したが、弟・林正之助は人目もはばからず、花菱アチャコを可愛がった。

そのようななか、弟・林正之助は、花菱アチャコの相方として、横山エンタツを吉本興行部(吉本興業)にスカウトした。

横山エンタツは、万歳の全てのスタイルをやり尽くしたという万歳の天才だが、アメリカ興行に失敗したため、芸能界に失望して引退し、ヘアピン(パーマの機械)やハトロン紙の製造に手を出したものの、運気に恵まれず、玉造の方で落ちぶれていた。

この横山エンタツが吉本興行部(吉本興業)に入る条件として出したのが、花菱アチャコとコンビを組むことだった。

横山エンタツは過去に「堀越一蝶の喜劇一座」に在籍していたとき、同じ一座に在籍していた劇団員の花菱アチャコと出会っていたのである。

しかも、開幕時間までの繋ぎとして、横山エンタツと花菱アチャコは1度だけ、即興でコンビを組み、万歳から歌や踊りを排除した「喋くり万歳」を披露していたのである。

しかし、当時の万歳は「歌や踊り」がメインで、「喋り」というのは歌や踊りの間をつなぐサブ要素であり、客が万歳に求めるのは歌や踊りだった。

このため、横山エンタツと花菱アチャコの「喋くり万歳」は受け入れられず、客席から罵倒とバナナの皮が飛んでくるという有様だった。

それでも、横山エンタツは今一度、芸能界で勝負するのであれば、花菱アチャコと「喋くり万歳」に賭けてみたいと考えたのである。

弟・林正之助は、横山エンタツの条件を受け入れ、花菱アチャコとコンビを組ませ、昭和5年(1930年)5月に万歳コンビ「エンタツ・アチャコ」が誕生した。

万歳の天才・横山エンタツによって徹底的に「喋くり万歳」の特訓がされ、弟・林正之助がスーツを着せた。

こうして、「エンタツ・アチャコ」は、万歳から歌や踊りを排除した「喋くり万歳」を「二人漫談」とし称してデビューした。

しかし、高齢者が万歳に求めるのは歌や踊りであり、「エンタツ・アチャコ」の「二人漫談」は当初は受け入れられなかった。

ところが、弟・林正之助が始めた「10銭万歳」の影響でサリーマンやインテリ層から労働者まで万歳が普及していくと、時事ネタを多用していた「エンタツ・アチャコ」はサラリーマンやインテリ層を中心に「インテリ万歳」として人気になり、結成から半年後には一流の寄席「南地花月」へと進出しした。

そして、昭和8年(1933年)には、六大学野球の「早慶戦」を取り上げたネタ「早慶戦」で、絶大なる人気を誇ることになる。

こうして、「エンタツ・アチャコ」は「喋くり万歳」のパイオニアとして「近代漫才スタイル」を築くのだが、「万歳」が「漫才」に変わるのはもう少し後のことである。

初代・桂春団治のラジオ事件とNHK大阪との対立

大正14年(1925年)6月1日に大阪放送局(NHK大阪/JOBK)がラジオ放送を開始しており、昭和に入るとラジオが普及し始めていた。

吉本せい(林せい)は、ラジオで演芸を聴くようになれば、誰も寄席に来なくなると、強い危機感を抱き、吉本の芸人から「吉本興行部の指定以外の場所においては、断じて出演しない。万一、違背した時は借金を即座に返済する」という公正証書を取った。

しかも、芸人は吉本興行部(吉本興業)から多額の借金をしていたので、吉本興行部が許可したラジオ番組に出演しても、「借金の返済」という名目で出演料を中抜きされ、ほとんどお金は貰えなった。

こうした吉本興行部(吉本興業)の対応に大阪放送局(NHK大阪/JOBK)が激怒し、吉本興行部と対立したのである。

このようななか、昭和5年(1930年)12月17日に初代・桂春団治(皮田藤吉)が吉本興行部に無断でラジオ出演し、落語「祝い酒」を語ったのである。

事前に動きを察知した弟・林正之助は、大阪放送局(NHK大阪/JOBK)を取り囲んで、初代・桂春団治(皮田藤吉)の放送を阻止しようとした。

しかし、大阪放送局(NHK大阪/JOBK)は吉本の妨害を予想しており、京都の放送局から放送していたのである。

これに対して仲間であるはずの落語家も「勝手な事を許すな」と激怒して吉本興行部(吉本興業)に抗議し、吉本興行部は初代・桂春団治(皮田藤吉)の追放を決定した。

落語家を大事にする吉本せい(林せい)は、初代・桂春団治(皮田藤吉)を呼んで釈明させようとしたが、初代・桂春団治(皮田藤吉)が出社しなかった。

このため、吉本興行部(吉本興業)は、初代・桂春団治(皮田藤吉)に差し押さえを執行して、吉本興行部から追放することを決定した。

ところが、吉本興行部(吉本興業)といえども相手が悪かった。

他の芸人なら差し押さえを恐れるところだが、相手は数々のスキャンダルを起こして人気を上げて来たスキャンダル王の初代・桂春団治(皮田藤吉)はである。

初代・桂春団治(皮田藤吉)は、差し押さえを面白がって、返せる借金も返さずに、わざと差し押さえを受けていたこともあるので、差し押さえくらいは屁でもない。

初代・桂春団治(皮田藤吉)は、吉本興行部の差し押さえを受けたとき、差し押さえの札を1枚はがし、「一番、金になるのに、これを差し押さえなくてもよろしいんですか?」と言い、自分の口に差し押さえの札を貼るという有様であった。

これが新聞で報道されて話題となり、大勢の人が初代・桂春団治(皮田藤吉)を見るために寄席に詰め、初代・桂春団治を寄席にあげなければ、暴動が起きそうな勢いだった。

これには吉本興行部(吉本興業)も困り果てたのだが、落語家・林家染丸が追放を主張していた落語家連中を説得し、落語家の総意として初代・桂春団治の恩赦を嘆願したので、吉本興行部(吉本興業)は落語家・林家染丸の嘆願を受け入れる形で、初代・桂春団治を許した。

こうして、吉本興行部(吉本興業)は、さらに初代・桂春団治(皮田藤吉)に金を貸して、金で吉本興行部に縛りつけるようになった。

吉本興行部(吉本興業)は、ラジオ事件を切っ掛けに、大阪放送局(NHK大阪/JOBK)にも厳しい対応をとったので、両社の関係が悪化し、しばらくは険悪な関係が続くことになる。

柳家金語楼のラジオ事件と吉本興業

初代・桂春団治(皮田藤吉)のラジオ事件と時を同じくして、東京でも柳家金語楼のラジオ事件が発生する。

東京の演芸界もラジオに対して危機を感じており、芸人のラジオ出演を禁止していた。

ところが、東京でも昭和5年に「爆笑王」と呼ばれた異質の落語家・柳家金語楼が、ラジオ出演禁止の取り決めを破ってラジオに出演したのである。

このため、落語家・柳家金語楼は東京の寄席から追放されてしまった。

そこへ、手をさしのべたのが、吉本興行部(吉本興業)だった。

吉本興行部(吉本興業)は、初代・桂春団治(皮田藤吉)には差し押さえという厳しい態度を取るが、虎視眈々と東京進出を目論んでいたこともあり、東京の落語家・柳家金語楼には温かい手をさしのべたのだ。

こうして、落語家・柳家金語楼は、吉本興行部(吉本興業)の支援により、6代目・春風亭柳橋と共に「日本芸術教会(落語芸術協会)」を設立し、吉本興行部(吉本興業)と親しくなった。

そして、後に、落語家・柳家金語楼が花菱アチャコに、六大学野球の「早慶戦」のチケットをプレゼントしたことが切っ掛けで、「エンタツ・アチャコ」の十八番「早慶戦」が誕生する。

戦地慰問団「皇軍慰問隊」

昭和6年(1931年)9月に満州事変が勃発すると、吉本興業の林正之助は朝日新聞と手を組み、昭和6年12月に満州駐留軍の慰問団「皇軍慰問隊」を派遣した。

メンバーは、漫才のエンタツ・アチャコ、講談の神田山陽、漫談の花月亭九里丸に、吉本興行部の支配人・滝野寿吉が同行した。

戦地慰問団「皇軍慰問隊」は小規模だったが、朝日新聞がこれを大々的に報じてくれたので、三流として扱われていた万歳の格が上がり、万歳コンビ「エンタツ・アチャコ」の売名になった。

なお、この戦地慰問団「皇軍慰問隊」が、後に「わらわし隊」へと繋がる。

吉本興業の設立

昭和7年(1932年)3月1日、吉本興行部は「吉本興業合名会社」に改組し、吉本せい(林せい)が主宰者に就任し、弟・林正之助が総支配人に就任した。

資本金は6万円で、吉本せい(林せい)が4万円を出資し、弟・林正之助が2万円を出資した。

弟・林正之助は「10銭万歳」の成功で発言力を強めており、これを機に吉本せい(林せい)は第一線を退き、弟・林正之助に吉本興業の経営を任せた。

しかし、あくまでも、将来的に吉本興業を相続するのは、吉本せい(林せい)の次男・吉本穎右(吉本泰典)であり、弟・林正之助もそれを確約している。

また、吉本せい(林せい)は、昭和3年(1928年)に弟・林弘高を吉本興業に招き入れており、今回の改組で、弟・林弘高が東京支配人に就任させ、東京の業務を任せた。

なお、吉本せい(林せい)は落語家の担当して、万歳には関わっていないので、以降の吉本興業のエピソードに弟・林正之助がメーンとなる。

万歳から漫才へ

昭和6年(1931年)に東京支店(東京吉本)へ入社していた橋本鉄彦(橋本鐡彦)が、弟・林正之助に認められ、昭和7年10月に大阪の吉本興業へ異動した。

橋本鉄彦(橋本鐡彦)は、「文藝部」「宣伝部」「映画部」の三部門を統括し、昭和8年1月に文藝部から「吉本演芸通信」を発行した。

そして、この橋本鉄彦(橋本鐡彦)が、「エンタツ・アチャコの万歳はもはや万歳ではない」として、「吉本演芸通信」の中で、「万歳」から「漫才」へ表記を変更する事を発表したのである。

これは、弟・林正之助にも相談しておらず、橋本鉄彦(橋本鐡彦)の独断であった。

これは万歳師からも大きな反対があったが、橋本鉄彦(橋本鐡彦)の説得により、万歳師も納得し、名実ともに「漫才」時代を迎えた。

その後、橋本鉄彦(橋本鐡彦)は、秋田實(秋田実)・長沖一という2人の漫才作家を吉本興業に招き入れ、吉本興業と近代漫才の発展に大きく貢献して、後に吉本興業の5代目・社長を務めることになる。

女今太閤、女小林一三

吉本興業の創業者・吉本せい(林せい)は、京都の松竹を創業した「白井松次郎」、宝塚歌劇団や東宝を有する阪急グループ総帥の「小林一三」にならび、三大興行師の1人になっていた。

演劇界・映画界の「松竹」「東宝」と比べると、演芸界の吉本興業は象と蟻ほどの差があるが、吉本せい(林せい)は莫大な富を築いていた。

経営の第一線を退いた吉本せい(林せい)は、熱心に寄付をしており、昭和3年に紺綬褒章を受章し、昭和9年(1934年)2月11日には、多額の寄付を下として、大阪府から表彰された。

これを持ってマスコミは、吉本せい(林せい)を「女今太閤」「女小林一三」などと賞賛した。

マーカス・ショーの開催

東京支配人の弟・林弘高が昭和9年(1934年)3月に東京・有楽町の日本劇場にアメリカのボードビルショー「マーカス・ショー」を招聘した。

裸の女性が登場するので、右翼や左翼や当局から横槍が入ったが、吉本興業はなんとか「マーカス・ショー」の開催に漕ぎ着けた。

「マーカス・ショー」の招聘には1万円という費用がかかったが、裸の女性が金粉を塗った「ブロンズ・ビーナス」が人気を博して大成功し、吉本興業は10万円という莫大な利益を上げた。

この「マーカス・ショー」の成功は、吉本興業の格を1段も2段も上げ、以降、「ショー」という言葉が定着していく。

吉本興行は、その勢いに乗って昭和9年(1934年)4月に新橋演舞場で「特選漫才大会」を開催した。

漫才コンビ「エンタツ・アチャコ」は、十八番「早慶戦」を引っさげて、昭和9年8月21日の第2回・特選漫才大会に出演し、東京進出を果たした。

さらに、昭和10年(1935年)11月には「浅草花月劇場」をオープンし、「吉本ショウ」も発足した。

エンタツ・アチャコの東京進出

昭和5年(1930年)に起きた初代・桂春団治(皮田藤吉)のラジオ事件を切っ掛けに、吉本興業と大阪放送局(NHK大阪/JOBK)の関係は悪化し、対立が続いていた。

しかし、東京ではラジオ放送の翌日に寄席の客が増えていたことから、吉本興業も、敵視していたラジオに対する考えを一転させていた。

一方、大阪放送局(NHK大阪/JOBK)も、演芸番組「放送教室」を放送していたが、大阪演芸界を牛耳る吉本興業を抜きに、演芸番組を構成するのが難しかった。

このようななか、大阪放送局(NHK大阪/JOBK)は、絶大なる人気を誇る「エンタツ・アチャコ」に目を付け、吉本興業に出演を打診した。

吉本側は橋本鉄彦(橋本鐡彦)が、「今後の経営を考えるのなら、ラジオの力を認めないわけには行かない」と林正之助を説得し、林正之助はラジオ解禁を認めた。

このため、ラジオ反対派の社員は「御大(林正之助)は東京から連れて来た奴(橋本鉄彦)の言うことやったら聞くんやな」と愚痴を言った。

さて、吉本興業は、大阪放送局(NHK大阪/JOBK)の要請を受け入れる形で和解に応じて主導権を握り、大阪放送局を中継放送させた。

こうして、昭和9年(1934年)6月10日に「エンタツ・アチャコ」は大阪放送局(NHK大阪/JOBK)が中継放送する寄席「法善寺花月」に出演しての十八番「早慶戦」をやった。

入場料は1円と高額だったが、大勢の客が詰めかけ、「エンタツ・アチャコ」は大阪で絶大なる人気を得て、不動の地位を気付いた。

勢いに乗った「エンタツ・アチャコ」は、昭和9年8月21日に東京・新橋演舞場で開催された第2回・特選漫才大会に出演し、東京進出して、10日連続、満員大入りという記録を樹立して東京でも大成功した。

そして、東京から凱旋した「エンタツ・アチャコ」は、昭和9年9月10日に大阪放送局(NHK大阪/JOBK)が中継放送する寄席「法善寺花月」に出演したが、これが最後の出演となった。

エンタツ・アチャコの解散

「エンタツ・アチャコ」のツッコミ担当・花菱アチャコは、法善寺花月の中継放送が終わると、花菱アチャコは担ぎ込まれるように入院した。

実は、花菱アチャコは東京・新橋演舞場で開催した第2回・特選漫才大会に出演中に中耳炎にかかっていた。

当時は良い薬が名かったので、中耳炎は死ぬ病気だったが、「エンタツ・アチャコ」の運命を左右する大事な仕事だったので、花菱アチャコは病気を押して舞台に上がっており、ほとんど耳が聞こえない状態で仕事を全うしてようやく入院したのである。

ところが、1ヶ月後に花菱アチャコが退院すると、相方の横山エンタツは杉浦エノスケとコンビを組んで漫才をやっており、知らない間に「エンタツ・アチャコ」は解散していたのである。

「エンタツ・アチャコ」の解散の理由は2人の思惑だった。

元々、林正之助は花菱アチャコのボケに惚れ込んで、吉本興業にスカウトしたのだが、花菱アチャコは「エンタツ・アチャコ」ではツッコミに回っていた。

そこで、林正之助は「エンタツ・アチャコ」を2手に分けようと思い、横山エンタツに、ギャラは花菱アチャコと同額だと教えた。

すると、「エンタツ・アチャコ」で漫才を主導していた横山エンタツは、ギャラを折半している事を不満に思い、ギャラの取り分が多くなる杉浦エノスケとコンビを組むことにして、吉本興業にコンビ変更を申し出た。

吉本せい(林せい)は花菱アチャコが復帰するまで給料を支給すると言って止めたが、横山エンタツは「働いていないのに給料は貰えない」と言い、「エンタツ・アチャコ」を解散して、杉浦エノスケと漫才を始めたのである。

こうして、絶大なる人気を誇った「エンタツ・アチャコ」は、活動期間4年4ヶ月で解散してしまったのである。

花菱アチャコは、一切解散の理由も知らないまま「エンタツ・アチャコ」の解散を余儀なくされ、元相方・千歳家今男とコンビを再結成して漫才を再開する。

初代・桂春団治の死-落語の終演

漫才コンビ「エンタツ・アチャコ」と誕生と、「万歳」から「漫才」へ改称したことにより、名実ともに近代「漫才」時代を迎えるなか、落語は終演を迎えていた。

衰退した落語界にあっても絶大なる人気を誇った初代・桂春団治(皮田藤吉)も、ラジオ事件を起こした翌年の昭和6年(1931年)に体調が悪化して以降は、ほとんど寄席に出られなくなっていた。

それでも、吉本せい(林せい)は、「吉本興業があるのは落語家のおかげ」と感謝しており、仕事の無い落語家にも給料を払い続けた。

特に、初代・桂春団治(皮田藤吉)だけは、吉本せい(林せい)が直接、給料を渡していた。

しかし、初代・桂春団治(皮田藤吉)も昭和9年(1934年)10月6日に死去してしまう。享57で、死因は胃癌だった。

桂春団治の弟子・桂小春団治は、落語家の中では優遇されている方だったが、吉本興業の落語家冷遇に不満を募らせ、昭和8年(1933年)10日に吉本興業に内容証明を送りつけて、吉本興業を出奔した。

しかし、大阪では吉本興業を避けて落語を続ける事はできず、桂小春団治は東京へと流れていった。

辻阪信次郎事件で吉本せい(林せい)を逮捕

「女今太閤」「女小林一三」と賞賛され、名声を手に入れた吉本せい(林せい)に災いが降りかかる。

京都で発生した脱税事件が大阪に飛び火し、昭和10年(1935年)11月6日に大阪府議会の議長・辻阪信次郎が、脱税汚職事件で逮捕された。

さらに、同日、辻阪信次郎に連座して、吉本興業の主宰者・吉本せい(林せい)と吉本興業の税金係主任・吉崎競も逮捕されたのだ。

辻阪信次郎は、吉本興業が企画した「マーカス・ショー」を招聘に尽力した人物で、吉本興行の顧問格とされる。

真偽は不明ながら、吉本せい(林せい)は辻阪信次郎の愛人だったと紹介する資料もあるので、相当に親しい関係にあったようである。

さて、吉本興行は辻阪信次郎らに賄賂を贈る見返りとして、興行税・所得税の査定で温情を受けていたという容疑がかかっていた。

一連の脱税汚職事件は広域に及び、松竹の創業者・白井松次郎を始め、興行界・花街の顔役が次々と逮捕されるという大事件に発展した。

逮捕された吉本せい(林せい)は、昭和10年11月19日に刑務所に収容され、11月28日に贈収賄容疑で起訴されたが、病気を理由に釈放され、大阪赤十字病院に入院した。

この事件は、大物が次々と逮捕されて世間を賑わせたが、昭和11年1月23日に辻阪信次郎が獄中でハンカチ2枚をつなぎ合わせて首を吊ったて死去したため、終わりを迎えた。

吉本興業に対する疑惑は、事件の真相を知る辻阪信次郎の死によって有耶無耶に終わり、吉本せい(林せい)は僅かな事件が立件されただけで、吉本興業存亡の危機は過ぎ去った。

松竹の創業者・白井松次郎は相当な額の脱税が明るみに出て、糾弾されたのだが、辻阪信次郎に最も近い吉本興業が無傷だったことから、松竹は吉本興業を怨み、松竹と吉本興業の遺恨の要因となる。

吉本せいが通天閣を買う

昭和12年(1937年)7月に日中戦争が勃発し、昭和13年(1938年)4月には国家総動員法が公布された。

弟・林正之助は昭和13年、朝日新聞からの要請を受け、戦地慰問団「わらわし隊」を結成して派遣した。「わらわし隊」は、航空部隊「荒鷲隊(わらわしたい)」と「笑わす」をかけた名前である。

このようななか、吉本せい(林せい)は昭和13年(1938年)9月27日に大阪のシンボル「通天閣」を31万円で購入する。

既に吉本興業は通天閣周辺の寄席「新地花月」「芦辺花月」「南陽演舞場」を手中に収めており、「吉本の地を踏まなければ、通天閣に登れない」と言われる程になっていた。

吉本興業が通天閣を購入したニュースは大阪を駆け抜け、吉本せい(林せい)は脱税汚職事件で逮捕された汚名を返上することができた。

ところで、吉本せい(林せい)が通天閣を改修したときに「ライオン歯磨」の広告を付けて経営難を乗りきったという逸話が残っている。

しかし、吉本せい(林せい)が通天閣を購入したとき、既に「ライオン歯磨」の広告は通天閣に取り付けられており、「ライオン歯磨」広告の逸話は創作である。

なお、通天閣を購入から5年後の昭和18年1月16日夜に、通天閣の西側にあった大橋座の2階から出火した。

火は瞬く間に燃え広がり、吉本興業の「新世界花月」「芦辺花月」にも燃え移り、さらに、通天閣の展望台が炎上し、通天閣は足部分を残して焼失した。

地元の住人は残して欲しいと懇願したが、既に日本は太平洋戦争に突入して戦時統制下にあり、警察部長・坂信弥から「戦争の役に立たない。空襲の目印になるから、どうぞ通天閣を壊してくれ」と要請されていたので、吉本せい(林せい)は通天閣は補修せず、解体式を行い、通天閣を鉄として大阪府に献納した。

こうして、通天閣は300トンの鉄くずとなり、大阪府大阪市の大阪砲兵工廠に運び込まれたが、そのまま終戦を迎えたため、手つかずのまま赤サビとなった。

吉本せい(林せい)は、「赤サビで良かった。あの鉄が軍需工場で溶かされていたら、弾や鉄砲なんか、色んな兵器に変わって何人の人がなくなっていたことやら」と安堵した。

エンタツ・アチャコの復活と松竹の引き抜き事件

人気絶頂期の漫才コンビ「エンタツ・アチャコ」は、花菱アチャコの入院を切っ掛けに解散し、横山エンタツと花菱アチャコに別々のコンビを組んでいた。

しかし、「エンタツ・アチャコ」の復活を望む声が強くなってので、吉本興業は、舞台では別々のコンビを組ませたまま、映画や放送限定で「エンタツ・アチャコ」を復活させることにした。

吉本興業は、当初、松竹系の「大秦発声」と提携しており、大秦発声と「エンタツ・アチャコ」の映画出演の話を進めていた。

しかし、吉本興業は一転して、東宝系の「PCL」と提携して、昭和11年(1936年)に「エンタツ・アチャコ」の主演映画「あきれた連中」を大ヒットさせ、続編も制作した。

一方、小林一三が大正3年(1914年)に創設した宝塚少女歌劇のヒットを受け、松竹が大正12年(1923年)に「大阪松竹楽劇部」を設立して以降、東宝(東京宝塚)と松竹は、ことある事に対立していた。

そして、東宝と松竹は、東京で激しい勢力争いを続けており、昭和12年に、松竹の林長二郎が東宝へと移籍したことを切っ掛けに、険悪な関係に発展した。

そのようななか、東宝の小林一三の要請により、吉本興業の弟・林正之助が、昭和14年(1939年)2月に東京宝塚劇場の取締役を兼任し、吉本興業と東宝は関係を深めた。

これに危機感を覚えた松竹は、昭和14年3月、松竹系の新興キネマに「新興演芸部」を設立し、演芸界に進出するため、莫大な資金力を背景に、大金を投じて、吉本興業の芸人を引き抜いたのである。

最初に、林正之助が目を掛けていた漫才コンビ「ミスワカナ・玉松一郎」が引き抜かれ、その後、「平和ラッパ・日佐丸」「松葉家奴・松葉家喜久奴」「西川ヒノデ・ミス・ワカバ」「香島ラッキー・御園セブン」「あきれたほういず」が引き抜かれた。

さらに、松竹は、林正之助が溺愛していた花菱アチャコに手を伸ばしており、花菱アチャコは松竹から大金を受け取っていた。

花菱アチャコは、有名なドケチだったので、大金に目がくらんで松竹移籍を決意しており、いくら説得しても、説得に応じないので、最終的に吉本せい(林せい)が花菱アチャコの父親を脅して、花菱アチャコに金を与えて残留させた。

このとき、花菱アチャコは、吉本興業の足下を見て、一生面倒を見てくれと言い、吉本せい(林せい)に「一生面倒を見る」という念書を書かせた。

さて、松竹と吉本興業の攻防は激しく、最終的に大阪府警・京都府警が仲介に乗り出して調停に及び、休戦に至った。

吉本興業は、漫才の大物を引き抜かれてしまうが、若手を育てる

山口組二代目・山口登と広沢虎造の事件

落語の没落後、大阪では漫才が台頭していたが、全国的には浪花節(浪曲)が流行していた。

この頃のヤクザは任侠であり、浪花節(浪曲)はヤクザを英雄的に描いていたので、任侠団体「山口組」の初代組長・山口春吉は浪花節(浪曲)を好んで聞いていた。

山口組2代目・山口登は、先代の影響もあったので、「山口興行部」を発足して、東京・浅草の「浪曲家興行社」と契約し、浪曲家興行社の関西興行を一手に引き受けていた。

そこで、吉本興業の創業者・吉本せい(林せい)は昭和9年(1934年)9月、神戸の山口組2代目・山口登を料亭に招いて、「東京で浪花節(浪曲)を買いたいので、東京の元締めを紹介して欲しい」と頼んだ。

山口組二代目・山口登は、吉本せい(林せい)の頼みを快諾して、浪曲家興行社の興行主・浪速屋金蔵(木下雄次郎)を紹介し、吉本せい(林せい)は浪花節(浪曲)の広沢虎造と専属契約する事が出来た。

広沢虎造のマネージメントは、浪曲家興行社の興行主・浪速屋金蔵(木下雄次郎)が引き続き行うという形であった。

広沢虎造は、浪花節「清水の次郎長」が人気で、吃音と「声が小さい」という欠点があったが、ラジオとマイクの登場で「声が小さい」という欠点が解消され、吃音も「味」となって、大看板へと駆け上がっていく。

ところで、山口県の下関を拠点とする任侠団体「籠寅組」というヤクザが居た。竹籠の製造から発展したヤクザで、建築や興行にも進出し、当主の保良浅之助は下関の発展に尽力して、後に衆議委員議員を務めている。

籠寅組の興行部門が「籠寅興行部」で、保良浅之助の次男・保良菊之助が籠寅興行部を担当していた。

この籠寅興行部は、女剣劇の初代・大江美智子を擁して東京にも事務所を構えており、精力的に活動していた。

問題の発端は、昭和15年(1940年)2月ごろ、広沢虎造が籠寅興行部の仕事で下関を訪れ、籠寅興行部へ挨拶しにいったときのことである。

籠寅興行部の興行主・保良菊之助が広沢虎造に映画出演を依頼すると、広沢虎造は「いいですよ」と安請け合いした。

ところが、広沢虎造の映画出演の権利は、吉本興業が持っており、吉本興業のバックには神戸の山口組が付いていた。

籠寅興行部の興行主・保良菊之助は、それを知らずに、広沢虎造の答えを真に受け、日活と提携して映画制作の準備を進め、昭和15年5月に制作発表した。すると、世間では大ヒット間違いなしと話題なった。

これに驚いたのが当の本人・広沢虎造である。広沢虎造は適当な性格だったので、映画出演の依頼のことを忘れており、マネージャーの浪曲家興行社に報告していなかったのだ。

広沢虎造の映画に関する権利を持つ吉本興業は、東宝と提携しているので、広沢虎造を日活の映画に出さない事を表明する。

しかし、籠寅興行部としては、制作発表をしておいて、広沢虎造が映画に出ないのでは、天下に恥をさらすことになる。

籠寅興行部が東京の浪曲家興行社に広沢虎造の映画出演について問い合わせても、浪曲家興行社の興行主・浪速屋金蔵(木下雄次郎)は答えをはぐらかすばかりで、ハッキリした返事が返ってこない。

そこで、籠寅興行部は、広沢虎造が映画出演をしないのは、神戸の山口組が裏で糸を引いているからだと考え、和解を持ちかけ、山口組二代目・山口登と吉本興業の林正之助を食事に招待して、2人を殺そうとした。

しかし、吉本興業の林正之助が、招待を無視したので、籠寅興行部の計画は未遂に終わった。

そこで、籠寅興行部は、浪曲家興行社を張り込み、昭和15年8月15日に山口組二代目・山口登が浪曲家興行社に尋ねてきたところを、籠寅一家の4人組が襲撃したのである。

山口組二代目・山口登はこの時に受けた傷が原因で1年後に死去。田岡一雄が山口組三代目を継承した。山口組三代目・田岡一雄は、神戸芸能社を発足し、戦後、国民的歌手・美空ひばりを輩出した。

吉本興業の戦後

日本は昭和16年(1941年)12月8日に真珠湾攻撃を行い、その後、戦況の悪化を受け、吉本興業の寄席は閉館を余儀なくされ、空襲により灰と化した。

戦後、戦争により全てを失った吉本興業は、退職金代わりに借金を棒引きし、芸人との契約を全て解除して、演芸を捨てた。

こうして、400人近い芸人が吉本興業から去って行ったが、花菱アチャコは芸人が自分だけなら、仕事が来た時に仕事を独占できると考え、林正之助に「行く所もおまへん、残しとんなはれ」と懇願し、芸人でただ1人、吉本興業に残った。

さて、吉本興業は演芸から撤退し、GHQの外輪団体「セントラル映画社」から映画配給を受け、焼け残った寄席で映画を上映し、映画館の経営として戦後の再スタートを切った。

さらに、吉本興業は、松竹が拒否したキャバレーの開設を引き受け、アメリカ将校を慰問場として、昭和21年(1946年)に京都・祇園でキャバレー「グランド京都」を開いた。

このキャバレー「グランド京都」が大ヒットしたので、吉本興業は戦後の不況を乗り切り、昭和23年(1948年)1月に「吉本興業株式会社」を設立し、昭和24年(1949年)5月には大阪証券取引所に上場を果たした。

一方、弟・林弘高の東京吉本は、昭和21年(1946年)10月31日に「吉本株式会社」として、大阪の吉本興業から分離・独立する。

林正之助と林弘高は、兄弟でも性格が全く正反対だったため、兄弟間の対立が分裂の原因とも言われているが、真相は分からない。

演芸を見捨てた吉本、演芸を再建した松竹

戦後、吉本興業に見捨てられた大阪の演芸界は、吉本興業に潰された落語によって復興を始めた。

落語家の5代目・笑福亭松鶴が戦後、落語会を開いて落語の復興を開始する。
松竹の創業者・白井松次郎は、これまでのトラブルから、吉本興業の動きを見ていたが、演芸を捨てた吉本興業は一切、寄席を再開させようとしなかった。

そこで、松竹の創業者・白井松次郎は、5代目・笑福亭松鶴と手を組んで寄席を開いてみたところ、大当たりしたので、落語家を寄席にあげて大阪の演芸界を再建していった。

他方、吉本興業に見捨てられた漫才師も、秋田實を盟主に「MZ研究会」を発足して復興を開始し、後に「宝塚新芸座」へと発展する。

こうして、戦後の吉本興業は、演芸を見捨てて、松竹が拒否したキャバレーや映画館で復興していき、キャバレーを拒否した松竹は、吉本興業が捨てた演芸で復興していくのである。

次男・吉本穎右(吉本泰典)の死

吉本興業の創業者・吉本せい(林せい)は、吉本泰三(吉本吉兵衛)の死後、跡取り息子の次男・吉本穎右(吉本泰典)に家督を相続させており、親権を行使するという形をとっていた。

そして、吉本せい(林せい)は、吉本興業を次男・吉本穎右(吉本泰典)に継がせようと考えており、吉本興業の経営を任せていた弟・林正之助からも確約を取っていた。

しかし、次男・吉本穎右(吉本泰典)は、戦時中にジャズ歌手・笠置シヅ子と恋に落ち、結婚の約束をした。

吉本せい(林せい)は、笠置シヅ子との恋愛に反対していたのだが、戦後は笠置シヅ子の妊娠を切っ掛けに、態度を軟化させ、話し合いは良い方向に進んでいたという。

このようななか、東京吉本で働いていた次男・吉本穎右(吉本泰典)は、結核が悪化したいため、療養のために神戸の吉本邸へと戻るが、療養の甲斐も無く、昭和22年(1947年)5月19日に死去してしまう。

吉本せい(林せい)は、次男・吉本穎右(吉本泰典)の棺桶に笠置シヅ子の写真を入れてやった。

笠置シヅ子は吉本穎右(吉本泰典)を失った絶望のなか、吉本穎右(吉本泰典)の浴衣を握りしめながら、昭和22年(1947年)6月1日に女児を出産。吉本穎右(吉本泰典)の遺言により、女児を「亀井エイ子」と名付けた。

吉本せい(林せい)は亀井エイ子を引き取りたいと申し出たが、笠置シヅ子は生まれた直後に養子へ出されて両親の顔を知らずに育っていたことから、娘にも同じ思いをさせたくないと考え、吉本せい(林せい)の申し出を断り、自分の手で育てることした。

さて、笠置シヅ子は吉本穎右(吉本泰典)と結婚をして芸能界を引退することになっていたので、出産を機に芸能界を引退していたのだが、娘・亀井エイ子を育てなければならないため、芸能界復帰を決意し、作曲家・服部良一に「先生、たのんまっせ」と頼んだ。

こうして、笠置シヅ子(亀井静子)は、出産から3ヶ月後の昭和22年9月10日に「東京ブギウギ」のレコーディングを行って、歌手に復帰し、「東京ブギウギ」のヒットにより、「ブギの女王」としてスターへの道を駆け上がっていくのであった。

吉本せい(林せい)の死

大阪大空襲で大阪の自宅を失った吉本せい(林せい)は、甲子園の別邸に移り住んでいた。戦後は報告書を読む程度で、吉本興業には関わっていない。

そして、昭和23年(1948年)1月に「吉本興業株式会社」を設立すると、吉本せい(林せい)は会長へと退き、弟・林正之助に社長を譲った。

吉本せい(林せい)は、長らく結核を患っており、日本赤十字病院に入院したりしていたが、昭和25年3月14日に甲子園の吉本邸で死去した。享年61だった。

吉本せい(林せい)の死後

演芸を見捨てた弟・林正之助は、映画館とキャバレーの経営で安定経営をしていたので、演芸への復帰に反対だったが、昭和34年(1959年)に演芸復帰派に押し切られ、演芸界への復帰を決定した。

既に松竹芸能などは朝日テレビ・読売テレビなどと関係を築いていたので、後れを取る吉本興業は、これからテレビ放送を開始するテレビ局「毎日放送」と手を組み、演芸に復帰した。

そして、吉本興業は昭和34年(1959年)3月1日、毎日放送の放送初日に「吉本バラエティ」(後の吉本新喜劇)を中継放送して、演芸に復帰を果たした。

しかし、寄席に全く客が入らなかったので、弟・林正之助は激怒して、演劇復帰派の首を取って千日前(旧火葬場)に晒そうとしたという。

その後、吉本興業はテレビと供に発展していき、「明石家さんま」「中田ボタン」「横山やすし」「島田紳助」「松本人志」「板尾創路」など数々の人気タレントを輩出する一流芸能プロダクションへと発展するのであった。

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