吉本興業の創業者・吉本泰三(吉本吉兵衛)の立志伝

芸能界に君臨する「吉本興業」の創業者・吉本泰三(吉本吉次郎/吉本吉兵衛)の立志伝です。

吉本泰三(吉本吉兵衛)の立志伝

吉本泰三(吉本吉兵衛)の画像吉本泰三(吉本吉次郎/吉本吉兵衛)は、明治19年(1886年)4月5日に、大阪市東区本町橋詰町で老舗の荒物問屋「箸吉(はしきち)」を営む吉本吉兵衛の次男として生まれた。生母は吉本ミネである。

生まれた時は「吉本吉次郎」という名前で、吉本せい(林せい)と結婚して、吉本家の家督を相続したときに「吉本吉兵衛」を襲名し、寄席の経営に進出したころから、通称として「吉本泰三」を名乗った。

吉本泰三は通称であり、戸籍の改名はしていないが、通称の「吉本泰三」が一番有名な名前である。

林せい(吉本せい)との出会い

妻・林せい(吉本せい)の林家は、兵庫県明石郡戎町の出身で、明石藩松平家の下級藩士の家系である。

妻・林せい(吉本せい)の父・林豊次郎は、兵庫県明石市東本町で太物屋「紀伊國屋」を経営していたが、明治時代に大阪府大阪市北区へと移り、天神橋5丁目で米穀商・金融業を営んでいた。

吉本泰三(吉本吉兵衛)は次男だったが、長男が既に死去しいたため、家督を相続する立場にあり、家業の荒物問屋「箸吉」を手伝っていた。

そして、吉本泰三(吉本吉兵衛)は、融資の相談をするため、金融業を営む林家を訪れたとき、初めて林せい(吉本せい)を見かけた。これが2人の出会いだった。

林せい(吉本せい)と結婚

吉本泰三(吉本吉兵衛)は、明治40年(1907年)12月に林せい(吉本せい)と結婚した。

その後、妻・林せい(吉本せい)に妊娠が判明したため、明治43年(1910年)4月8日と正式に結婚(入籍)した。

荒物問屋「箸吉」の倒産

吉本家は代々、当主が「吉本吉兵衛」を名乗っていたようで、吉本泰三(吉本吉兵衛)は妻・林せい(吉本せい)と正式に結婚(入籍)した翌年の明治44年(1911年)に父・吉本吉兵衛から家督を相続し、「吉本吉兵衛」を襲名した。

吉本家の荒物問屋「箸吉」は名の知れた老舗で、相当に儲けていたが、妻・林せい(吉本せい)と結婚した頃には、日露戦争後の不況で多額の不良債権を抱え、家業は傾き始めていた。

しかし、老舗の若旦那として育った吉本泰三(吉本吉兵衛)は、旦那芸とした覚えた剣舞に入れ込んでおり、仕事や借金取りの対応を全て妻・林せい(吉本せい)に押しつけて、裏口から逃げ出し、芸人遊びに興じていた。

実は、吉本泰三(吉本吉兵衛)の実母・吉本ミネが死に、林せい(吉本せい)と結婚する直前に、吉本ユキ(出口ユキ)が父の後妻として入っており、継母・吉本ユキ(出口ユキ)との関係が上手くいっていなかったのである。

芸人道楽に走った吉本泰三(吉本吉兵衛)は、一座「女賊島津お政本人出演のざんげ芝居」の太夫元(興行主)となり、地方巡業に出て、自らも幕の合間に舞台に立って趣味の剣舞を披露するという有様で、地方巡業に出る度に借金を膨らませた。

こうして、吉本泰三(吉本吉兵衛)は本業そっちのけで芸人遊びにうつつを抜かしている間に、家業の荒物問屋「箸吉」は経営破綻し、2度の差し押さえを受けた。

さらに、吉本泰三(吉本吉兵衛)が旅巡業に出ている間に、荒物問屋「箸吉」は店舗が大阪市電の計画にひっかかり、立ち退きを命じられた。

荒物問屋「箸吉」を移転するという道もあったが、残された妻・林せい(吉本せい)だけでは荒物問屋「箸吉」を立て直すことは難しく、荒物問屋「箸吉」は移転せずに廃業に至った。

寄席の経営に進出

荒物問屋「箸吉」の廃業を受けて吉本家は黒門町の方へと引っ越したが、妻・林せい(吉本せい)は姑・吉本ユキから虐められていたので、吉本家を頼らず、実家の林家に戻り、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)の帰りを待った。

吉本泰三(吉本吉兵衛)は旅巡業から戻ってくると、荒物問屋「箸吉」が倒産していたので、失業してしまうのだが、それでも、芸人遊びを続けていた。

やがて、妻・林せい(吉本せい)は、丸帯を売って26円を作り、そのお金で、天満宮(天満天神)の表にある2間だけの長屋を借りて引っ越した。

それでも、吉本泰三(吉本吉兵衛)は芸人遊びをしており、生活費は全て妻・林せい(吉本せい)が縫いものをして稼いでいた。

そのようななか、吉本泰三(吉本吉兵衛)は、妻・林せい(吉本せい)には何の相談も無く、経営不振に陥った寄席「第二文芸館」の権利を購入する約束をしてきた。

天満宮(天満天神)裏に寄席が8軒並んでおり、「天満8軒」と呼んだ。第二文芸館は、天満8軒の一番端に在るボロボロの寄席で、何をやっても大入りにならないという三流の寄席だった。

そして、買うのは経営権だけで、権利金500円、家賃100円が必要だというのである(金額は諸説あり)。

吉本泰三(吉本吉兵衛)は寄席「第二文芸館」を買う約束をしてきたと言っても、お金のあては無い。お金の算段は、妻・林せい(吉本せい)任せである。

このころ、芸能人は「川原乞食」と呼ばれて差別されており、芸人遊びをするのは甲斐性として認められていたが、寄席の経営に手を出すことは忌み嫌われる行為であった。

このため、妻・林せい(吉本せい)が、吉本泰三(吉本吉兵衛)の実家・吉本家にお金を借りに行くと、吉本家は「わざわざ川原乞食に成り下がることはない」と一切の支援を拒否した。吉本家の激怒は凄まじく、勘当同然の扱いだったという。

しかたなく、妻・林せい(吉本せい)は実家の林家に支援を頼みに行くと、父・林豊次郎は「あんな道楽者(吉本泰三)とは別れてしまえ」と激怒していたが、なんとか頼み込んでお金を貸してもらった。

現在の「吉本興業(吉本興行部)」が「吉本」という名前なのに、創業家が「林家」と言われる理由は、この辺にある。

さて、妻・林せい(吉本せい)がお金を調達してくると、吉本泰三(吉本吉兵衛)は「せい、おおきに。やっぱ嫁ハンや」と大喜びし、「後はワシに任せとけ」と胸を叩いたのであった。

反対派と提携して寄席の経営進出

このころ、当時は一流の芸は落語であり、落語以外の諸芸は「色物」と呼ばれ、二流・三流の扱いを受けていた。

しかし、三流の寄席「富貴亭」の席亭・岡田政太郎は、浪速の落語に反対するべく、二流・三流の色物芸人を集め、明治43年(1910年)に「なんでも構わぬ、上手いも下手もない、銭が安うて、無条件に楽しませる演芸」という格安路線の「浪速落語反対派(岡田興行部)」を発足した。

岡田政太郎は「格安戦略」「寄席のチェーン展開」「芸人を金で縛る」という経営戦略で「浪速落語反対派」を成長させ、吉本興業の基礎になったとも言われる人物である。

吉本泰三(吉本吉兵衛)は以前から、芸人遊びを通じて、浪速落語反対派の岡田政太郎と知り合っており、寄席「第二文芸館」を購入する前から話しは付いていたようだ。

吉本泰三(吉本吉兵衛)は、妻・林せい(吉本せい)が工面してくれた金で寄席「第二文芸館」の権利を購入すると、岡田政太郎の「浪速落語反対派(岡田興行部)」と契約し、明治45年(1912年)4月1日に「文芸館」という名前で寄席の営業を開始した。

一般的な寄席は入場料15円が相場だったが、「文芸館」は岡田政太郎と同様に入場料5円という格安路線で営業を開始した。

ただし、他の寄席は入場料に下足代2銭が含まれていたが、「文芸館」の場合は下足代2銭を別に取ったので、実質的な入場料は7円だった。

吉本興行部の設立

妻・林せい(吉本せい)は、休日には定員200人の「文芸館」に一晩で700人を入れたり、客の捨てていったミカンの皮を薬問屋に持って行き、咳止め用の陳皮の原料として売ったりして、様々な工夫で売上げを伸ばしていった。

寄席の経営のほとんどは妻・林せい(吉本せい)の才覚として伝わっており、吉本泰三(吉本吉兵衛)の具体的な活躍は伝わっていない。

ただ、芸人のトラブルにつては妻・林せい(吉本せい)では対応出来ず、芸人遊びでならした吉本泰三(吉本吉兵衛)が出て行って解決したという。

さて、吉本泰三(吉本吉兵衛)は「文芸館」の創業を開始した翌年の大正2年(1913年)1月に、大阪府大阪市南区笠屋町に「吉本興行部」を設立した。後の吉本興業である。

さらに、大正3年(1914年)には、松島の寄席「芦辺館」、福島の「龍虎館」、梅田の寄席「松井館」、天神橋筋5丁目の「都座」を買収し、二流・三流の寄席ながらも複数の寄席を経営て、寄席のチェーン展開を始めた。

大正6年(1917年)には、妻・林せい(吉本せい)の実弟・林正之助を招き入れた。

吉本興行部(吉本興業)の台頭

落語の「桂派」と「三友派」が芸を競い合い、明治時代に落語の黄金期を築いていたが、大正時代に入って「桂派」と「三友派」の双方の盟主的立場だった人物が死去すると、「桂派」も「三友派」も低迷してしまう。

さらに、大正時代に入ると、農村部から大阪へ若者が流入し、長たらしくストリーを語る落語よりも、安くて単純に面白い芸が好まれるようになっていった。

こうして落語が衰退していくなか、「なんでも構わぬ、上手いも下手もない、銭が安うて、無条件に楽しませる演芸」という方針の「岡田・吉本反対派」が台頭していったのである。

吉本興行部(吉本興業)は寄席の経営に特化しており、盟友・岡田政太郎の「浪速落語反対派(岡田興行部)」から芸人を派遣してもらうという形をとっており、吉本興行部と岡田興行部は、両輪のごとき関係で勢力を拡大していった。

ヤクザとの付き合い

戦前のヤクザは業界や地域の自警団的な役割を果たしており、吉本興行部(吉本興業)も演芸の世界で台頭するにつれ、ヤクザとの関わりが多くなっていく。

この頃のヤクザは、弱きを助ける任侠であり、女性や年寄りには無茶なことを言わなかったので、吉本泰三(吉本吉兵衛)はヤクザの対応を妻・吉本せい(林せい)に任せて逃げた。

そして、妻・吉本せい(林せい)で解決できないトラブルは、林正之助に任せた。

落語の桂派を追い落とす

大正時代に入ると、落語は衰退の一途をたどり、吉本泰三(吉本吉兵衛)は大正7年(1918年)に「桂派」の拠点「金沢亭(蓬莱館)」を買収することに成功し、一流の寄席を手に入れた。

そして、「金沢亭」を「南地花月」と改名し、吉本系の寄席を「○○花月」という名称でチェーン展開していった。

また、大正8年(1919年)に、三友派を代表する寄席の1つ「永楽館」が吉本興行部の軍門に降り、吉本興行部は「永楽館」を「花月倶楽部」と改名した。

こうして、吉本泰三(吉本吉兵衛)は、北新地の「花月倶楽部」、南の「南地花月」という大阪でも有数の寄席を2つも手中に収めた。

一方、盟友・岡田政太郎の浪速落語反対派も、京都の寄席を買収して京都へも進出し、着実に勢力を広めた。

愛人(妾)を作る

大正8年(1919年)2月、妻・吉本せい(林せい)は39度の高熱を出して入院し、医師から、子供は産めなくなるだろうと言われてしまう。

このため、妻・吉本せい(林せい)は、吉本泰三(吉本吉兵衛)に愛人(妾)を持つ事を勧めた。

盟友の反対派を吸収する

吉本泰三(吉本吉兵衛)の「吉本興行部(吉本興業)」と、岡田政太郎の「浪速落語反対派(岡田興行部)」は、運命共同体であり、「吉本・岡田反対派」として勢力を拡大してきた。

このようななか、大正9年(1920年)12月に反対派の興行主・岡田政太郎が急死し、岡田政太郎の次男・岡田政雄が浪速落語反対派(岡田興業部)を継承して2代目興行主となった。

ところが、吉本興行部(吉本興業)は、浪速落語反対派が出演する寄席の過半数を手中に収めており、反対派の芸人に対して影響力を持つようになっていた。

そこで、吉本興行部(吉本興業)は2代目の岡田政雄に1万円の手形を渡し、反対派(岡田興業部)の権利を買収した。

しかし、売却を承諾した2代目の岡田政雄が、一転して、岡田派の芸人を率いて「岡田反対派」を立ち上げた。

これに怒った吉本興行部(吉本興業)は、1万円の手形を不当たりにして、反対派(岡田興業部)の権利をタダで手に入れ、吉本派の芸人を率いて「吉本花月連」を発足した。

ところが、2代目の岡田政雄が発足した「岡田反対派」は、妻・吉本せい(林せい)の策略によって内部崩壊を起こして、発足からわずか3ヶ月で崩壊し、吉本興行部(吉本興業)に吸収された。

こうして、吉本興行部(吉本興業)が浪速落語反対派(岡田興業部)を飲み込む形で、大阪演芸界で最大の勢力へと成長したのである。

落語の三友派が降伏

吉本興行部(吉本興業)は反対派を吸収して大勢力へと発展するなか、絶大なる人気を誇る初代・桂春団治(皮田藤吉)を有する落語の「三友派」は「紅梅邸」で抵抗を続けていた。

そのようななか、初代・桂春団治(皮田藤吉)は、三友派の寄席に出る一方で、再婚相手「岩井志う」の莫大な持参金を元手に寄席「浪速亭」を買収し、「浪速派」を発足して興行主となった。

しかし、初代・桂春団治(皮田藤吉)は一族郎党を率いて遊んでばかりで、寄席をスッポカスので、客は離れてしまい、多額の借金を作り、終いには「浪速派」を畳んで大阪から逃げ出し、中国地方から九州地方へと旅巡業に出た。

そこで、妻・吉本せい(林せい)は、初代・桂春団治(皮田藤吉)の作った借金2万円を肩代わりすることで、大正10年(1921年)に初代・桂春団治(皮田藤吉)と専属契約を結んだ。

こうして、吉本興行部(吉本興業)の寄席「南地花月」に初代・桂春団治(皮田藤吉)があがるようになると、西側の「紅梅邸」で抵抗を続けていた落語の「三友派」もついに降伏し、大正11年(1922年)8月に、吉本興行部(吉本興業)の軍門に降った。

吉本王国の野望と吉本泰三(吉本吉兵衛)の死

吉本泰三(吉本吉兵衛)は明治45年(1912年)4月1日に三流の寄席「文芸館」の営業を開始してから、わずか10年で「桂派」「三友派」「反対派」を下し、大阪演芸界の頂点に立った。

そして、最盛期の大正11年(1922年)には、大阪18館・神戸2館・京都5館・東京1館・神奈川1館・名古屋1館の計28館の寄席を手に入れ、吉本王国を築いた。

さて、大阪演芸界を統一した吉本泰三(吉本吉兵衛)は、東京・神田川の「川竹亭」を買収して「神田花月」と改名しており、「神田花月」を足がかりにして東京進出を目論んでいた。

その矢先、大正12年(1923年)9月1日に関東大震災が発生し、関東の寄席は壊滅的な被害を受けた。

このため、東京進出は後退したが、吉本興行部(吉本興業)は東京の芸人を見舞ったことで、東京の芸人にも恩を売る事が出来た。

さらに、大正12年(1923年)10月26日に待望の跡取りとなる次男・吉本泰典(吉本穎右/えいすけ)が生まれた(注釈:長男・吉本泰之助は夭折している)。

夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は、吉本王国を築き、待望の跡取り吉本泰典(吉本穎右)も生まれたことから、ようやく我が世の春が来たと喜んでいた矢先、大正13年(1924年)2月13日に死去してしまう。死因は脳溢血とも心臓麻痺とも言われる。享年39だった。

妻・吉本せい(林せい)は、医師から子供は産めなくなると言われたとき、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)に愛人(妾)を持つように勧めており、夫・吉本泰三(吉本吉兵衛)は愛人(妾)の家で死去したと伝わる。

吉本泰三(吉本吉兵衛)の死後

妻・吉本せい(林せい)は、吉本泰三(吉本吉兵衛)の死後、生まれたばかりの次男・吉本泰典(吉本穎右)に家督を相続させ、自分は親権を行使するという形式をとった。

そして、妻・吉本せい(林せい)は、実弟・林正之助に吉本興行部(吉本興業)の経営を任せ、新たに実弟・林弘高を招き入れ、実弟・林弘高には東京の業務を任せて、身内で吉本興行部(吉本興業)を固めた。

こうして、吉本興行部(吉本興業)を背負った実弟・林正之助が、三流の芸と言われた万歳(漫才)に着目して、漫才コンビ「エンタツ・アチャコ」を発掘して、昭和初期に漫才ブームを起こした。

一方、家督を相続した次男・吉本泰典(吉本穎右)は、子供の頃から病弱で、妻・吉本せい(林せい)の意に反して笠置シヅ子(亀井静子)との恋愛騒動を起こした挙げ句、昭和22年(1947年)5月19日に24歳という若さで死去した。

こうして、次男・吉本泰典(吉本穎右)の死によって吉本家の男子は途絶えたため、林家が吉本興業を経営していくのであった。

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