初代・田村駒治郎

皇室御用達のベビー用品ブランド「アミリア」の創業者である坂野惇子(ばんのあつこ)の生涯を描く立志伝「べっぴんさん-坂野惇子」の登場人物編「坂野惇子の立志伝」です。

坂野惇子の概要

坂野惇子(佐々木惇子)の画像坂野惇子(佐々木惇子)は、佐々木営業部(レナウン)の創業者・佐々木八十八の三女に産まれ、裕福な生活を送っていたが、戦争により状況が一変。戦後、生活のために子供服ブランド「ファミリア」を創業。日本製品が粗悪品の代名詞だった時代に良質な子供服を作り続け、皇室御用達ブランドとなった。

坂野惇子の情報
生年月日大正7年(1918年)4月11日
死没平成17年(2005年)9月24日
没年齢享年88
生まれ兵庫県神戸市住吉
佐々木八十八
雲川倆子
坂野通夫
坂野光子

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べっぴんさん-坂野惇子の生涯

坂野惇子(旧姓・佐々木惇子)は、大正7年(1918年)4月11日に、兵庫県神戸市住吉で佐々木八十八(ささき・やそはち)の3女(末娘)として生まれた。

「惇子」という名前は、漢詩の得意な父・佐々木八十八が「暖かい知性を大切に育んで欲しい」という願いを込め、漢詩から文字をとって名付けた。

さて、佐々木家は、近江源氏の流れを汲む鎌倉時代の武将・佐々木高綱(源頼朝の側近)を祖とする名家で、11代にわたり、商を営む豪商である。

父・佐々木八十八は、私塾で漢字や英語を学んび、輸入販売を志して、大阪の輸入雑貨店で働き、27歳の時に独立して輸入雑貨・繊維卸売業「佐々木営業部」(東証一部上場「レナウン」)を創業して成功した。

しかし、大阪は開発されて騒がしくなっており、父・佐々木八十八は大阪に住むことは好まず、明治38年(1905年)に阪神電鉄の大阪-神戸間が開通したのを機に、魚崎(兵庫県神戸市住吉)に別荘を構えて移り住んだ。

三女の坂野惇子(佐々木惇子)は、この魚崎(兵庫県神戸市住吉)の別荘で生まれた。

父・佐々木八十八は家族に縁が薄く、父と異父兄を早くに亡くし、自身の長女・次男も早くに亡くしていたので、病気や健康については異常なまでに神経質だった。末娘の坂野惇子(佐々木惇子)はその被害を一番、被った。

食べ物は自宅で調理したものしか口にしてはならず、キャラメルもアルコールで消毒してから渡されるという程であった。

父・佐々木八十八は自宅より北にある私立の甲南小学校へ入学させたかったが、冬は北風に向かって登校しなければならない事を懸念して、甲南小学校へ入学させるのを断念し、坂野惇子(佐々木惇子)を自宅近くの魚崎小学校へ入学させた。

さらに、通学や遠足はいつもお伴が付き添ったうえ、風の日や雨の日は、父・佐々木八十八が心配して無理矢理学校を休ませるほど神経質であった。

魚崎小学校に通っていた坂野惇子(佐々木惇子)は、「別荘の子」と呼ばれており、これが嫌で、13歳上の姉・佐々木智恵子が選んだ服や佐々木営業部(レナウン)の派手な服を着せられるのを嫌い、無理につぎはぎをした靴下をはくと言って抵抗した。

やがて、兄が華族の娘と結婚し、義理の姉ができる。この義理の姉は、庶民的で、坂野惇子(佐々木惇子)は義理の姉に初めてパン屋でクリームパンを買って貰い、生まれて初めてクリームパンを食べた。

両親に黙って初めて食べたクリームパンの味は格別であったという。

そして、義理の姉が来たおかげで、佐々木家の神経質だった食事は少し和らいだが、それでも佐々木八十八は健康には神経質だった。

田村枝津子(田村江つ子)との出会い

その後、坂野惇子(佐々木惇子)は昭和6年(1931年)に甲南高等女学校(現在の甲南女子大学)へ入学し、1年生の時にファミリア創業メンバーとなる田村枝津子(田村江つ子)と出会い、以降、田村枝津子(田村江つ子)は生涯の友となる。

坂野通夫との出会い

昭和10年(1935年)2月、佐々木惇子(坂野惇子)は甲南女学校4年生のとき、六甲へスキーに行った。

その帰りのバスの中で、佐々木惇子(坂野惇子)のリュックサックの紐が解けていたらしく、バスに乗り合わせていた甲南高校1年生の坂野通夫が紐を結んでくれた。

これが、佐々木惇子と坂野通夫の出会いで、このリュックサックの紐が赤い糸となり、2人は交際を開始する。

しかし、坂野惇子(佐々木惇子)は、甲南女学校を卒業すると、東京好きの父・佐々木八十八と、東京の子爵・三浦義次に嫁いだ姉・佐々木智恵子(三浦智恵子)に誘われて上京し、東京の三浦家に居候しながら、東京女学館高等科の聴講生となり、2年間を東京で過ごした。

一方、坂野通夫も甲南高校を卒業後は京都帝国大学へと進んだので、2人は別々の道を歩んだ。

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坂野惇子の生涯-結婚

戦時下では、卒業・就職・結婚がワンセットになっていたので、坂野通夫は京都帝国大学の卒業を控えた昭和14年(1939年)に、佐々木惇子(坂野惇子)と正式に婚約した。

父・佐々木八十八は、青春を過ごせるよう、2人を自由にさせてくれたので、佐々木惇子と坂野通夫は、夏は軽井沢の別荘へ行ったり、冬はスキーに行ったりして婚約期間を楽しむ事ができた。

婚約の翌年の昭和15年(1940年)4月に坂野通夫は京都帝国大学を卒業し、大阪商船(商船三井)へ就職する。

そして、翌月の昭和15年(1940年)5月12日に坂野惇子と坂野通夫は結婚し、神戸の外国人村(兵庫県神戸市東灘区岡本)に居を構えた。

村井ミヨ子との出会い

昭和16年(1941年)ごろ、夫婦で犬を散歩させていた坂野惇子・坂野通夫が、兵庫県神戸市東灘区岡本にある洋裁学校に通っていた村井ミヨ子に「犬はいりませんか?」と声を掛ける。

ことが切っ掛けで、坂野惇子は村井ミヨ子と知り合い、以降、村井ミヨ子は生涯の友となる。

坂野光子の出産

日本は、昭和16年(1941年)12月8日に真珠湾攻撃を行い、あんたんとした時代に突入していた。

こうした暗い時代に、坂野夫婦に希望の光が差し込んだ。昭和17年(1942年)10月13日に長女・坂野光子(てるこ)が誕生したのである。

長女・坂野光子を出産した坂野惇子は、イギリス人のオーツ夫人の紹介で外国人専門のベビーナース大ヶ瀬久子に来てもらい、3ヶ月間にわたり、西洋式の育児法を学んだ。

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坂野通夫の出征と疎開

夫・坂野通夫は、中学時代に肺膜炎を煩っており、徴兵検査で影が出たため、乙種として徴兵を免れていたが、戦況の悪化を受けて召集され、昭和18年(1943年)10月に海軍の嘱託となる。

残された坂野惇子は戦況の悪化もあり、父・佐々木八十八が所有する軽井沢の別荘に荷物を運んで、昭和19年(1944年)に軽井沢の別荘に疎開した。

しかし、軽井沢の別荘はサマーハウスだったため、幼い娘・坂野光子と一緒に冬を越すを不安に思い、昭和19年(1944年)10月に神戸へと戻る。

このとき、荷物制限が厳しくなっており、坂野惇子は手荷物か持って帰れず、ほとんどの荷物を軽井沢の別荘に残してきた。この残してきた荷物が戦後、貴重な財産となり、ファミリアを開業するきっかけとなる。

坂野惇子と神戸大空襲と終戦

さて、神戸に戻った坂野惇子は、終戦間近に行われた昭和20年(1945年)6月5日の神戸大空襲によって岡本の自宅を被災してしまう。

このとき、一足先に東京の姉・佐々木智恵子(三浦智恵子)が空襲で被災し、岡山県勝山町の勝山藩旧藩邸に疎開していた。

そこで、坂野惇子は姉・佐々木智恵子(三浦智恵子)を頼って岡山県勝山町へと疎開し、岡山県勝山町で終戦を迎えた。

坂野惇子は、幼い長女・坂野光子を抱えたまま、消息の分からない夫・坂野通夫が無事に帰国することを願った。

坂野惇子の生涯-戦後

終戦の翌年、昭和21年(1946年)4月に「すみれ丸」で夫・坂野通夫が帰国すると、坂野惇子と坂野通夫は、翌日、親友の田村枝津子(田村江つ子)・田村寛次郎夫婦の元に向かい、無事を喜び合った。

昭和21年(1946年)5月、坂野惇子と坂野通夫は、疎開先の岡山県勝山町を引き払い、坂野通夫の兄が所有する兵庫県尼崎市塚口の借家へと移り住む。

さて、戦後、日本政府が極度のインフレを解消するため、「新円切換」「預金封鎖」「財産税」を実施していた。

このため、坂野惇子は、土地や株式など約50万円に財産税がかけられ、三菱信託銀行に預けてある預金10万円も預金封鎖で引き出せなくなっていた。

さらに、新円切替えの影響で、預金の引き出しが1ヶ月500円に制限されており、坂野惇子は生活用品も買いそろえられないような生活を送った。

坂野通夫は「我々は乞食では無い」と言い、兄弟や親類に支援を求めることを禁じたほか、「子供の食料が第一」として食料を優先させたので、生活用品は揃わず、鍋の蓋を皿代わりにするような貧しい生活であった。

偶然、昼時に遊びに来た姉・貴志文子(坂野文子)が、坂野惇子らの食事風景を見て驚き、慌てて近くの兄の家から食器を持ってきてくれた。

その後、坂野通夫の兄・坂野信夫が神戸の本宅の土蔵を整理しに来たときに、土蔵にあった高価な家具や生活用品が気前よく坂野惇子の家に運び込まれたので、坂野惇子の家は急に家具だけは高級住宅のようになった。

しかし、預金の引き出し制限の影響で、生活が苦しい状況は変わらず、坂野惇子は生活の足しにするため、洋裁の仕事を開始するが、お嬢様育ちだったため、代金を請求することが出来なかった。

近所の人も、そんな坂野惇子に気をつかってか、いつもお礼は現物だった。

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ベビーショップ・モトヤの創業

昭和21年(1946年)秋、父・佐々木八十八が軽井沢の別荘を手放すことになったので、坂野惇子と坂野通夫は何とかお金を工面して、荷物制限で持ち帰れなかった荷物を別荘へと引き取りに行く。

こうした荷物の中には、坂野惇子が以前から貯めていた外国製の生地や毛糸のほか、1度も履いていなかったハイヒールなどがあった。

別荘で手芸の材料を手に入れた坂野惇子は、親友・村井ミヨ子の頼みもあって、昭和22年(1947年)の春頃から、週1回、自宅で手芸のお稽古教室を開催するようになる。

さて、依然として生活の苦しい坂野惇子は、「売り食い」を続けており、昭和23年(1948年)春、未使用のハイヒールを売却するために靴店「モトヤ靴店」を訪れ、店主・元田蓮に「他の人に売って欲しいの」と頼む。

しかし、このハイヒールは店主・元田蓮が結婚する坂野惇子のために、嫁入り道具の1つとして作った物だったため、店主・元田蓮は「苦しいでしょうが、これだけは、お売りにならないでください」と懇願した。

困った坂野惇子が話題を変えるために、娘・坂野光子の写真を見せたところ、坂野惇子が作った写真入れやハンドバックが店主・元田蓮の目に止った。

そして、これに感心した店主・元田蓮は「店の一角を提供するので、こういう手製のものを作って売ってはどうですか」と提案した。

思いもよらない提案に喜んだ坂野惇子は、親友の田村枝津子(田村江つ子)に相談すると、田村枝津子(田村江つ子)は義理の姉・田村光子に相談しようと言った。

こうして3人で話し合いが行われ、手芸店を開店する話がまとまると、それぞれの夫に相談した。

すると、坂野惇子の夫・坂野通夫も、田村枝津子(田村江つ子)の夫・田村寛次郎も、田村光子の夫・田村陽(飯田陽)も妻が仕事を持つ事に賛成し、夫同士が集まって手芸店を開店するための具体的な相談を始めた。

坂野通夫は、妻のために知り合いの店を当たり、元町商店街でお洒落な店舗を探してきた。

しかし、坂野惇子も田村光子もなんとなく乗り気がせず、最終的に田村光子が商売の嗅覚を発揮して、モトヤ靴店の一角に店を開くことを選び、坂野惇子らはモトヤ靴店で店を開くことになった。

また、当初は単なる手芸店を開く予定だったが、父・佐々木八十八と夫・坂野通夫の助言により、これまでに学んだ西洋式の育児法を生かし、どこにも売っていないような特別な商品(べっぴんさん)を作るベビーショップを開くことになった。

こうして、ベビーショップ・モトヤのオープンが決まると、坂野惇子と田村光子の自宅に別れて手芸品作りを始めた。

やがて、商品がある程度完成すると、坂野惇子らは昭和23年(1948年)12月4日に靴店「モトヤ靴店」の店内で「ベビーショップ・モトヤ」をオープンした。ショーケース2台だけの小さな小さな店であった。

べっぴんさん-利益は毛玉2つ分

戦後の日本商品は、粗悪品の代表で、衣類であれば、綿100%なら何でも売れたという時代であった。

そのような時代に、坂野惇子らが作るベビー用品は、外国製の良質な生地や毛糸を使っていたうえ、手間暇を掛けて良質な商品を作っていたので、商品は飛ぶように売れ、坂野惇子らは馬車馬の如く働いた。

ところが、ベビーショップ・モトヤの1ヶ月の利益はわずかに「毛玉2つ分」であった。

実は、坂野惇子らは、お嬢様育ちだったため、原価を知ってしまうと、原価よりも高い値段を付けることに罪悪感を抱いてしまい、高い値段が付けられなかったのだ。

さらに、坂野惇子らは、バザーでしか物を売ったことのないため、その日の売り上げが全て利益だと思っていたのだ。

これに驚いたのが、坂野惇子らにショーケースを貸しているモトヤ靴店の店主・元田であった。

この状況を知った店主・元田蓮は、坂野惇子らに商売の基本をかみ砕いて教え、坂野惇子らは商売の厳しさを知った。

一方、夫・坂野通夫らも呆れて、仕事帰りにベビーショップ・モトヤに立ち寄り、帳簿の付け方などを指導するようになる。

坂野惇子の生涯-ベビーショップ・モトヤの独立

モトヤ靴店の店主・元田蓮は、ベビーショップ・モトヤの影響で、上品な女性客が来店するようになっていたので、ベビーショップ・モトヤに来る上品な女性客にも靴を買って貰おうと思い、奥の作業場を1つ潰して接客室へと改装した。

ところが、野惇子らが「良い部屋が出来た」と言い、事務所代わりに使い、元田蓮が作った接客室を占領してしまったのである。

これに困ったモトヤ靴店の店主・元田蓮は、モトヤ靴店の西側に隣接する万年筆店が空き店舗になった事を機に、万年筆店へと移って独立する事を勧めた。

坂野惇子は渋々ながら万年筆店へと移り、ベビーショップ・モトヤは昭和24年(1949年)12月に、万年筆店跡で独立店舗となる。

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ファミリアの設立

坂野惇子らが万年筆店へ移って独立店舗となった直後、モトヤ靴店の南側に隣接するレナウン・サービス・ステーション(兵庫県神戸市生田区三宮町2丁目328番地)が撤退することが伝わってくる。

レナウン・サービス・ステーションは、佐々木営業部(レナウン)の衣類小売店で、大阪で大成功したため、大金を投じて神戸にレナウン・サービス・ステーションを建設し、神戸へと移転してきた。

ところが、綿が配給制だったので、繊維卸の佐々木営業部が小売りに進出することに批判が集まり、神戸のレナウン・サービス・ステーションは開店早々に撤退を余儀なくされてしまったのである。

夫・坂野通夫は、これを機にベビーショップ・モトヤを会社組織にして、レナウン・サービス・ステーションで本格的な商売をすることを、坂野惇子に勧めた。

レナウン・サービス・ステーションの家主は、モトヤ靴店の店主・元田蓮で、店主・元田蓮は「貴女たちなら、貸しても良い」と言ってくれた。

レナウン・サービス・ステーションを建設した佐々木営業部(レナウン)の社長・尾上清も、坂野惇子が本格的に商売する事に大賛成し、レナウン・サービス・ステーションを譲ってくれ、ファミリアの株主にもなってくれた。

こうして、坂野惇子は、ベビーショップ・モトヤを発展的に解散させ、株式会社ファミリアを設立し、昭和25年(1950年)4月12日に、レナウン・サービス・ステーションの跡でベビーショップ・ファミリアを創業した。

ファミリアが阪急百貨店へ進出

ファミリアは設立して間もなく、阪急百貨店の社長・清水雅の目に止り、阪急百貨店から取引を申し込まれる。

阪急百貨店の宣伝次長・土岐国彦は「特別に阪急特選のマークを差し上げますので、早速にマークを付け替えて納品してください。価格も好条件で買い取りましょう」と破格の好条件をだしたが、坂野惇子は「ファミリアの名前で売らせて頂けないのなら遠慮します」と言って拒否してしまう。

仲介役を頼まれていた坂野通夫は困り果てたが、阪急百貨店の部長・鳥居正一郎が「阪急ファミリアグループ」という名前を提案してくれたので、なんとか坂野惇子と田村光子にも納得してもらい、阪急百貨店に商品を販売することが決まった。

ところが、坂野惇子が阪急ファミリアグループのオープン直前に、売り場を視察すると、ちょうど、商品の入れ替え時期で、阪急百貨店の店員は売れ残ったフェルト帽が型崩れするのも気にせず、いくつかまとめて束に為て括り、無造作に段ボールに入れていた。

これを見た坂野惇子は、自分たちが作った商品が雑に扱われるのを懸念して、阪急百貨店に販売しないと言い出し、「どうしてもというのなら、神戸と同じように私たちに売らせて欲しい」と頼んだ。

阪急百貨店の部長・鳥居正一郎は呆れて、「それなら、委託しかないですよ」と言って、委託販売について説明した。

委託販売は金銭的に条件が悪かったが、坂野惇子は自分たちが作った商品を雑に扱われるのを嫌がり、委託販売を選んだ。

こうして、阪神百貨店に商品を販売する契約が、阪急百貨店に直営店を出店する契約へと変更になり、ファミリアは昭和26年(1951年)4月に阪急百貨店にショーケース2台の直営店「阪急ファミリアグループ」を出店したのである。

阪急百貨店の社長・清水雅に感謝する

ファミリアは商品が良いだけでなく、接客も一流だったので、ファミリアの商品は飛ぶように売れていき、直ぐにショーケース半分が空になっていた。

それを見た阪急百貨店の担当者は、ファミリアに「みっともないので、早く商品を補充するように」と命じた。

ファミリアは阪急百貨店の担当者の販売予測に基づいて生産していたので、坂野惇子は自分の販売予想が外れた事を棚に上げ、ファミリアに商品の補充を命じる担当者に激怒し、「それならショーケースを1台お返しします」と答えた。

問屋がショーケースを奪い、ショーケースにプレミアが付いていた時代に、坂野惇子はショーケースを返すと言いだしたのだ。

これが阪急百貨店の社長・清水雅の耳に届いたらしく、翌日、坂野惇子は社長・清水雅に呼ばれた。

阪急百貨店の社長・清水雅はファミリアを発掘してくれ、ファミリアを認めてくれた大恩人だが、坂野惇子は清水雅に会った事はなく、叱られるのだろうと思いながら、清水雅の部屋を訪れた。

しかし、清水雅は「あなた方の仕事の仕方は立派です。きっと成功しますよ。このさい、ショーケースを減らすなどと言わずに、2台から5台へ増やすように、売る工夫をしてくもらえませんか?あなた方のグループは今に阪急百貨店を代表するようになりますよ」と言って応援してくれた。

感激した坂野惇子は、帰ってみんなに清水雅の言葉を伝えると、みんなも清水雅の言葉に感激し、一致団結して清水雅の期待に応えるべく、商品作りに力を入れた。

「ファミちゃん」と「リアちゃん」の誕生

昭和26年(1951年)ごろ、坂野惇子は喫茶店でメニューを書いていた田村泰と出会い、田村泰にファミリアのファミリアのポストカードのデザインを依頼した。

小熊が好きだった坂野惇子は、これが縁で、田村泰に小熊のデザインを依頼し、ファミリアのシンボルとなる「ファミちゃん」と「リアちゃん」が誕生した。

坂野通夫の入社

ファミリアの設立して間もなく、ファミリアの監査役・田村陽(飯田陽)と取締役・川村睦夫が相次いで辞任することになった。

さらに、ファミリアの利益が余りにも少ないので調べてみると、不正経理が発覚した。坂野惇子は信用していた人物に裏切られていたのである。

こうした事態を受け、ファミリアの社長を務めるモトヤ靴店の店主・元田蓮が、「皆に推されて名目上の社長になっているが、私には本業のシューズショップという仕事があるので、なにもできないのが心苦しい。このさい、実際にファミリアに打ち込める人が社長になるべきではなかろうか」と言って辞任の意向を漏らした。

このため、後任の社長について話し合いが行われる。ファミリア全体を把握する坂野惇子が社長に適任だったが、坂野惇子は専務でさえ重荷に感じていたので、「会社のトップである社長は男性であるべき」と言い、頑として拒否した。

田村寛次郎田村陽(飯田陽)は、田村駒の要職にあり、田村駒が倒産の危機にあったため、最年少の坂野通夫にファミリアの社長を懇願した。

こうして、夫・坂野通夫は田村家から懇願される形で、ファミリアの社長を引き受け、昭和27年(1952年)10月に佐々木営業部(レナウン)を退社して、株式会社ファミリアの取締役に就任する。

しかし、坂野通夫は、ファミリア全体を把握してから社長に就任すると考えがあり、直ぐには社長に就任しなかったので、ファミリはしばらく社長不在の期間が続くことになる。

ファミリアはこまれで在庫なども目分量の感覚で管理するアナログ経営だったが、夫・坂野通夫によってファミリアにレナウン商法が持ち込まれ、在庫は帳簿で管理するなど、本格的な経営が始まる。

子供ショーと日本陶器

昭和27年(1952年)3月、阪急百貨店が「はんきゅう・こどもショー」を開催する。

このころ、一般人が西洋の育児品を目にする機会が無かったので、坂野通夫は、西洋の育児品を展示する事を提案した。

ファミリアはアメリカ領事館の好意でPX(米軍向け販売店)から西洋の育児用品一式を借りる事ができ、これを「はんきゅう・こどもショー」に展示し、「はんきゅう・こどもショー」を大成功させた。

翌年の昭和28年(1953年)3月に、阪急百貨店で第3回・子供ショーが開催されることになった。

坂野惇子と田村光子は、子供ショーに展示する教育玩具を探すため、愛知県名古屋市を訪れ、明治37年創業の日本陶器(ノリタケカンパニーリミテド)と出会う。

坂野惇子と田村光子は日本陶器(ノリタケカンパニーリミテド)の「少しでも曲がっていれば、商品を破棄する」という方針に感銘し、デザインは後回しにして、その場で2万個を発注し、神戸へ戻った。

これに激怒したのが坂野通夫である。ファミリアの規模から考えれば2万個は桁違いの数字だったので、坂野通夫は叱り飛ばしたが、坂野惇子は、いかに子供用の食器が大事かを話した。

結局、坂野通夫は、坂野惇子の「食器は売れ残っても腐らない」という言葉に押され、渋々ながら2万個の発注を承諾する。

その後、日本陶器の食器はファミリアのロングセラー商品となり、ファミリは子供用食器の普及に貢献した。

高島屋の子供服展で東京進出

ファミリアは阪急百貨店で開催した子供服展の成功により、関東まで名前を轟かせるようになっていた。次第に関東からも出店を望む声が増えていた。

そのようななか、高島屋がファミリアに、東京高島屋で子供服展を開催して欲しいと、熱心に要請する。

ファミリア創業者メンバー田村光子の夫・田村陽(飯田陽)は、高島屋を創業した飯田新七の五男で、高島屋の社長・飯田慶三と親戚関係にあった。

そこで、高島屋の社長・飯田慶三は、直々に田村陽(飯田陽)にファミリアの子供服展開催を要請し、ファミリアの製造部門「岡本研究所」を見学するという程の念の入れようだった。

ファミリアは阪急百貨店のおかげで成長したため、坂野通夫は高島屋からの要請を断ろうと考えていたが、阪急百貨店の社長・清水雅が暖かい言葉で応援してくれたので、東京高島屋で子供服展を開催することにした。

急な話でほとんど準備期間は無かったが、ファミリアは昭和29年(1954年)4月に東京・高島屋東京支店で子供服展を開催して子供服展を成功させ、東京進出を果たす。

高島屋はファミリアに出店契約を申し込んだが、高島屋の社員は商品を乱暴に扱っていたので、坂野惇子は自分たちの商品が乱暴に扱われることを懸念し、高島屋の申し出を断り、わずかに売れ残った商品も全て持って帰った。

伊勢丹の山中鏆と子供服展

その後、伊勢丹とレナウンの社長同士が親戚だった関係から、伊勢丹の山中鏆がファミリアに子供服展の開催を要請する。

坂野惇子は、高島屋の子供服展の準備期間が短かったことを悔やんでいたので、十分な準備期間を条件に伊勢丹でも子供服展の開催を承諾した。

伊勢丹は坂野惇子に計画書を送ったが、坂野惇子は伊勢丹の計画書に納得せず、レポート用紙40枚ほどの計画書を送り返し、伊勢丹を驚かせた。

坂野惇子は専門的に販売を学んだ事は無いが、お客様のことを常に考えていたので、自然とアメリカ式の販売理論を身につけていた。

坂野惇子の計画書に驚いた伊勢丹の山中鏆は、ファミリアから学ぶことは多いと考え、伊勢丹の鈴木祥三をファミリアに付け、ファミリアのレポートを提出させた。

こうして、ファミリアは昭和29年(1954年)10月に伊勢丹東京本店で子供服展を開催し、子供服展を成功させる。

一方、伊勢丹の坂野惇子はファミリアから多くのことを学び、伊勢丹の販売テキストの基礎を作り、伊勢丹を「ファッションの伊勢丹」と呼ばれるほど成長させた。

阪急百貨店の東京進出

米軍に接収されていた東芝の数寄屋橋ビル(銀座のマツダビル)が、昭和31年(1956年)5月にGHQの接収が解除されることになった。

東芝の社長・石橋秦三は、銀座の一等地を会社の事務所に使っては銀座の発展にならないと考え、阪急百貨店の社長・清水雅に銀座進出を要請した。

これを受けて阪急百貨店は東芝のマツダビルに数寄屋橋阪急を出店することになるが、東芝の事情もあり、地下3階から地上1回までしか借りられなかった。

地下は食品売り場にするにしても、地上1階だけでは「百貨店」は出来ないため、清水雅は地上1階をベビー用品専門の百貨店にすることにして、ファミリアに1階の大半を任せた言い、出店を要請した。

ファミリアの東京出店
坂野通夫はファミリア全体を把握してから社長に就任するとして、ファミリアの改革を続けていたが、一通りの目処がたったこともあり、昭和31年(1956年)5月にファミリアの社長に就任した。

その直後、ファミリアは、阪急百貨店の清水雅から、数寄屋橋阪急への出店を要請される。

大変光栄な話であったが、ファミリアは生産が追いついていなかったので、1階の大半という話は丁重に断り、東側の1角を受け持ち、昭和31年(1956年)5月29日、数寄屋橋阪急に東京店を出店した。

しかし、客足は悪かった。坂野惇子は、東京高島屋と伊勢丹で開催した子供服展が大盛況だっただけにショックを受けた。

夫・坂野通夫は落ち込む坂野惇子を「前回2回の催し物がよかったと言っても、あれは催し物で、今回はダイレクトメールも出していないし、常設の売り場なのだから、お客様は急いで来てくださらなくて当たり前だよ。良い商品であれば、お母さんはきっと選んでくださるよ」と言って励ました。

やがて、坂野通夫の言葉通り、次第次第にファミリア東京店の売り上げは伸びていき、東京でもファミリアは成功していった。

ファミリアが皇室御用達ブランドに

昭和38年(1963年)、皇后・美智子さま(平成の今上天皇の皇后)が第1子・浩宮徳仁親王をご懐妊した。

高島屋がファミリアの出産用品を献上することになり、高島屋の要請で坂野惇子が献上に同行する。

皇后・美智子さまは以前から、ファミリアの商品に興味をもたれており、翌日、高島屋を訪れてファミリアの商品を見学する。

坂野惇子は、皇室から皇后・美智子さまと直接会話することを禁じられいたが、皇后・美智子さまの方からご質問になり、坂野惇子が直接、皇后・美智子さまの質問にお答えした。

以降、皇室は高島屋を経由してファミリアの商品を購入していたが、いつごろからか、ファミリアから直接購入するようになり、ファミリアは皇室御用達ブランドとなる。

ファミリアのスヌーピーのぬいぐるみ秘話

昭和35年(昭和35年)、明治屋を経由してベビー用品を輸入していた坂野通夫が、8万ドルの外貨割当を取得する事に成功し、ファミリアは直輸入を開始する。

昭和37年(1962年)4月、大阪で国際見本市が開催され、ファミリアも国際見本市に出店した。

このとき、国際見本市に出店するため、来日していたハッチャー婦人と知り合い、仲良くなった。ハッチャー婦人は惇子の長女・坂野光子をいたく気に入った。

これが縁で、昭和38年(1963年)5月、坂野夫婦はアメリカへ買い付けに行ったとき、長女・坂野光子をハッチャー婦人に預けた。

昭和39年(昭和39年)、長女・坂野光子がアメリカ留学から帰国。長女・坂野光子は留学中に、アメリカが流行していた漫画「ピーナッツ」に登場するスヌーピーのファンになっており、帰国後、スヌーピーを刺繍したテーブルクロスなどを自作する。

坂野惇子・坂野通夫は長女・坂野光子の影響でスヌーピーに興味を持ち、販売権などを申請し、昭和45年(1970年)からスヌーピーのぬいぐるみを販売。昭和48年には年間11万個を越える人気商品となる。

昭和44年(1969年)9月、三越の要請で、ファミリアがイギリスからの直輸入品を展示する。マーガレット女王が来日し、ファミリアを見学する。

華麗なる一族・岡崎財閥の岡崎晴彦

坂野惇子・坂野通夫の長女・坂野光子が、昭和41年(1966年)ごろ、「華麗なる一族」と呼ばれる岡崎財閥の岡崎晴彦と結婚する。

岡崎晴彦は、岡崎財閥の創始者・岡崎忠雄の孫で、岡崎財閥2代目・岡崎忠の長男である。岡崎財閥は財閥解体によって消滅しているが、岡崎晴彦は岡崎財閥の3代目にあたる。

岡崎晴彦は三和銀行を経て、東京計器制作所で働いており、昭和46年(1971年)に提携しているアメリカのペリーランド社が岡崎晴彦の出向を要請してきた。

しかし、父・岡崎忠が、幼い子供を連れてアメリカへ渡ることに難色を示したため、岡崎晴彦はこれを機にファミリで働くことを希望した。

坂野惇子・坂野通夫夫婦は身内を入社させない方針だったので、岡崎晴彦の考えを冗談だと思い、相手にしなかったが、岡崎晴彦は阪急百貨店の社長・清水雅とレナウンの社長・尾上清に根回しをしていた。

坂野通夫は、恩師にあたる清水雅と尾上清から「有能な人材を身内だからという理由で入社させないのは背任行為だ」と言われてしまい、昭和46年(1971年)7月に岡崎晴彦を入社させた。

エリザベス女王から握手を賜わる

昭和49年(1974年)11月、三菱信託銀行の好意により、ファミリアは三菱信託銀行7階の全フロアを借りる。

ファミリアはこれまで、本社と生産部門「岡本研究所」という二元体制だったが、ファミリアの本社機能と生産部門を三菱信託銀行7階へ移転し、生産管理の一元体制が整う。

昭和50年(1976年)5月にエリザベス女王が来日したさい、坂野惇子・坂野通夫はエリザベス女王から握手を賜わる。

銀座ファミリアの設立

昭和51年(1976年)、銀座6丁目にあるジョセフ・マグニン・ジャパン銀座店が、新宿本店と統合するため、銀座店を閉鎖することになった。

ジョセフ・マグニン・ジャパンから店舗統合の相談を受けていたレナウンの理事長・尾上清は、ファミリアの坂野惇子に、閉鎖する銀座店への出店を持ちかけた。

断るために上京した坂野惇子が現場を観て「婦人服を売るには広すぎるけれど、子供用品の百貨店ならちょうど良い広さ」と言うと、尾上清は坂野惇子のアイデアを絶賛し、再三にわたり、熱心に出店を勧めた。

しかし、坂野惇子は尾上清の誘いを断ろうと思った。

実は、坂野惇子も、かつては銀座への出店を狙っていたが、ベビー用品は単価が低いため、地価の高騰から採算が取れないと判断し、銀座への出店を断念していた。

それに、坂野惇子は、このとき、59歳になっており、そろそろ、第2の人生について考え始めていたのである。

しかし、阪急百貨店の会長・清水雅から「尾上清が悪い話を持って来るはないのだから、もう一度、よく考えてみたらどうだろう。貴女たちなら、きっと成功すると思うよ」という助言を受け、坂野惇子は尾上清と話し合うことにした。

この話し合いにって、株式会社・銀座ファミリアという別会社を設立する事が決定。取締役店長に娘婿の岡崎晴彦を抜擢し、岡崎晴彦をサポートする形で、坂野惇子が代表取締役、坂野通夫が監査役、尾上清が相談役、下岡祥浩が取締役に就任した。

こうして、昭和51年(昭和51年)9月23日に、子供用品の百貨店「銀座ファミリア」がオープンしたのである。

キリスト教の洗礼と坂野通夫の死去

ファミリアは銀座に進出に次いで、昭和54年(1979年)にハワイのホノルルに現地法人「ファミリアUSA」を設立し、世界進出を果たす。

昭和60年(1985年)3月、創立35周年を節目に社長の坂野通夫が会長へと退き、長女・坂野光子の夫・岡崎晴彦がファミリアの社長に就任する。

平成4年(1992年)4月15日、坂野惇子が心筋梗塞で兵庫医科大学病院へ入院。一時は危篤状態であったが、奇跡的に回復したため、坂野惇子は神の奇跡に感謝してキリスト教の洗礼を受けた。

(注釈:坂野惇子は、細川ガラシャ・高山右近・黒田勘兵衛らと同じカトリックです。)

すると、坂野通夫も神の奇跡に感謝して、キリスト教の洗礼を受けた。

坂野惇子は次第に回復し、5月12日に52回目の結婚記念日を祝った。

元気を取り戻した坂野惇子は、5月21日に許可を得て外出し、夫・坂野通夫と共にドライブやゴルフを楽しみ、夜はステーキを食べて有意義な1日を楽しんだ。

とろが、坂野通夫は無理を為ていたのか、翌日の5月22日、坂野通夫は自室で休み、初めて坂野惇子の病室に顔を出さなかった。

そして、翌日の5月23日に夫・坂野通夫が腸閉塞を起こし、その後は一進一退という状況が続き、平成4年(1992年)6月2日午後5時52分に急性呼吸不全により死去した。

坂野惇子の生涯-最終回

坂野惇子は平成4年(1992年)に坂野通夫の後を継いで代表取締役会長に就任し、平成10年(1998年)に名誉会長へ退いた。

平成17年(2005年)9月24日、坂野惇子は神戸市中央区の病院で死去する。死因は心不全で、享年88だった。奇しくも、父・佐々木八十八の名前と同じ年に死去した。

葬儀はミサで9月27日午前11時から兵庫県西宮市霞町のカトリック夙川教会で行われた。喪主は孫の坂野雅(まさし)が務めた。

坂野惇子は、赤ちゃんに優しい肌着やおむつを考案。また、TシャツにキャラクターをプリントしてTシャツをアウターとすることを考案したほか、子供用食器の普及させた。

坂野惇子は、ファミリアを創業以来、赤ちゃんやママの為を思い、良質なベビー用品を作り続けたほか、近代的な西洋式の育児法の普及や啓発活動にも尽力し、日本の育児に大きく貢献した。

華麗なる一族-ファミリアは永遠に・・・

坂野惇子・坂野通夫の子供は、長女・坂野光子だけで、長女・坂野光子の夫・岡崎晴彦が昭和60年(1985年)3月にファミリアの社長に就任した。

坂野光子(岡崎光子)と岡崎晴彦の間に3人の子供が生まれており、岡崎晴彦の死後、長男・岡崎忠彦が平成23年(2011年)4月にファミリアの社長に就任した。

坂野惇子・坂野通夫は、子供が長女・坂野光子だけだったので、坂野姓を継ぐ者が居なかったが、どうしても坂野姓を残したいと考えていた。

すると、坂野光子(岡崎光子)の次男・岡崎雅が、養子となって坂野姓を引き継いでくれ、坂野雅して坂野姓を引き継いだ。

なお、坂野惇子の関係者について、「べっぴんさん-坂野惇子の立志伝-関係者のまとめ」をご覧ください。

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