べっぴんさん-エイスの実在のモデルはVAN

朝ドラ「べっぴんさん」に登場するファッションブランド「エイス」の実在のモデルのあらすじとネタバレです。

べっぴんさんの「エイス」

岩佐栄輔(松下優也)は戦後、野上潔(高良健吾)と意気投合し、大阪に出て来て野上潔(高良健吾)の元で働いていた。

そして、岩佐栄輔(松下優也)は、子持ちの人妻・板東すみれ(芳根京子)に思いを寄せていた。

しかし、野上潔(高良健吾)に「我々は坂東家に使える身であり、当主は坂東紀夫(永山絢斗)だ」と注意され、岩佐栄輔(松下優也)は「番頭根性が染みついている」と野上潔(高良健吾)を批判した。

そして、成就しない人妻・坂東すみれ(芳根京子)への思いと、野上潔(高良健吾)との軋轢から、突然、姿を消した。

ところが、成長した坂東すみれ(芳根京子)の娘・坂東さくら(井頭愛海)の前に岩佐栄輔(松下優也)が現れたのである。

岩佐栄輔(松下優也)は、ヤクザの玉井(土平ドンペイ)と手を組み、ファッションブランド「エイス」を立ち上げ、神戸の男子が憧れるブランへ「エイス」の社長となっていたのである。

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エイスのモデルは「VAN」

エイスのモデルは「ヴァンヂャケット」で、エイスを創業した岩佐栄輔(松下優也)のモデルは、ヴァンヂャケットの創業者・石津謙介です。

ヴァンヂャケットは昭和26年(1951年)4月に「石津商店」として創業した。創業者は、石津謙介である。

石津謙介は戦後、中国の天津から帰国し、岡山の実家を売却して、芸者遊びをしていた時期に、大阪の繊維卸「佐々木営業部(レナウン)」の社長・尾上清に招かれた。

石津謙介と尾上清とは、中国・天津時代からの付き合いで、尾上清は非常に面倒見の良い男だった。

このとき、尾上清は、関連会社「有信実業」を設立しており、石津謙介は有信実業の営業部長となってPX(米軍向け販売店)からの横流しを手がけた。石津謙介は英語が出来たので、PXの横流しで活躍した。

その後、有信実業は、佐々木営業部(レナウン)のビル1階に紳士服の「レナウン・サービス・ステーション」を出店した。隣には婦人服の「田中千代デザインルーム」を開いた。

これが大当たりしたので、ビル3階に入っていた佐々木営業部(レナウン)の事務所は手狭に成り、尾上清は神戸・三宮センター街に大金を投じて店舗を建設し、「レナウン・サービス・ステーション」と「田中千代デザインルーム」を神戸へと移転させた。

ところが、当時は繊維が配給制だったので、繊維卸の佐々木営業部(レナウン)に進出する事に批判が殺到し、神戸に移転した「レナウン・サービス・ステーション」は開店した直後に撤退を余儀なくされた。

このとき、佐々木営業部(レナウン)を創業した佐々木八十八の三女・坂野惇子(佐々木惇子)が、ちょうど隣で子供服店「ベビーショップ・モトヤ」を開いていた。

そこで、尾上清は神戸のレナウン・サービス・ステーションを坂野惇子(佐々木惇子)に譲った。

坂野惇子(佐々木惇子)はレナウン・サービス・ステーションへ移転するのを機に法人化し、「株式会社ファミリア」を設立した。これが後の皇室御用達の子供服ブランド「ファミリア」である。

その後、石津謙介は、東京のレナウン研究所へと移籍したが、東京から大阪に通い、有信実業の高木一雄と服を作って販売していた。朝鮮戦争の影響で日本は「ガチャマン景気」という好景気に見舞われており、服は飛ぶように売れた。

そこで、石津謙介は独立するため、昭和25年(1950年)12月に佐々木営業部(レナウン)を円満退社した。

このとき、尾上清が退職金代わりに大阪のバラックをくれたので、石津謙介はバラックにミシンを持ち込み、昭和26年(1951年)4月に有信実業の大川照雄・高木一雄とともに「石津商店」を設立し、ブランド名「ケンタッキー」として販売した。

その後、廃刊となっていた風刺雑誌「VAN」の編集長・伊藤逸平から「VAN」の使用許可を得たので、石津商店を設立から3ヶ月後の昭和26年7月に「有限会社ヴァンジャケット」へと改組し、ブランド名を「VAN」とした。

当初は中高年向けの高級服を生産していたが、その後、若者向けのアイビールック路線へと変更した。

石津謙介は中国の天津時代に俳優・信欣三と知り合っており、俳優・信欣三を通じて俳優に「VAN」の服を提供した。これが大きな宣伝となった

さらに、戦後初の一般向け男性ファッション誌「男の服飾」に参画し、アイビーファッションを広め、「VAN」は世間に浸透していった。

こうして、有名俳優と雑誌によって「VAN」は知名度を上げていき、昭和30年にはヴァンジャケットを株式会社化して東京へ進出した。

若かりし日の菅原文太をモデルに起用していた。「VAN」の知名度はうなぎ登りだった。

昭和34年(1959年)ごろから、東京・銀座の「みゆき通り」に、アイビールックの若者が大量に集まるようになっていた。後に「みゆき族」と呼ばれる若者である。

この「みゆき族」の間で、「VAN」や「JUN」の紙袋を持つ事が大流行した。

朝ドラ「べっぴんさん」では、岩佐栄輔(松下優也)が「エイス」の紙袋を流行させ、「エイス」の紙袋を持つのが若者のステータスとして描かれている。これは「みゆき族」がモデルである。

実話でも石津謙介が宣伝目的で「VAN」の紙袋を流行らせたという黒幕説もあるが、それを裏付けるような資料は無く、真相は分からない。

ところで、銀座のみゆき通りに集まった「みゆき族」は、「銀座の乞食」と揶揄されるほど邪魔な存在で、銀座の商店にとって迷惑以外の何物でも無かった。

このため、昭和39年(1964年)、東京オリンピックを開催する事もあり、警察に「みゆき族」への苦情が殺到した。

「みゆき族」はアイビールックで「VAN」の紙袋を持っていた事から、石津謙介が「みゆき族」の教祖とされており、石津謙介のところにも苦情が来た。

そこで、石津謙介は警察と協力して「来場者にはVANのプレゼント」と書いたイベントのポスターを配り、「みゆき族」を集めて自主解散を勧めると、「みゆき族」は自然消滅していった。

さて、昭和40年代に入ると学生運動の影響で、若者の間では「ゲバ棒」「ヘルメット」「火炎瓶」「ジーンズ」というカジュアルなゲバルト・ファッションが流行し、ファッション業界は新しい時代を迎える。

そのようななか、昭和43年(1968年)12月に週刊新潮が石津一族の散漫経営を報じた影響で、ヴァンジャケットは、メーンバンクの三和銀行(三菱東京UFJ銀行)から融資を打ち切られてしまった。

そこで、ヴァンジャケットは取引先の丸紅から融資を得たのっだが、これが切っ掛けで、丸紅・三菱商事・伊藤忠商事の資本を受け入れ、商社体制時代を迎えることになった。

その結果、オーナー社長・石津謙介の心は、ヴァンジャケットへから離れていった。

さて、ヴァンジャケットは商社体制下で売り上げを急激に伸ばし、昭和46年は売上97億円だったが、昭和50年には売上452億円を記録した。

しかし、ヴァンジャケットは、売上げが伸びる一方で、大量の在庫を積み増していき、社員は不安を募らせていった。

さらに、昭和48年(1973年)の第1次オイルショックの後に強気に出た強気に出た事が裏目となり、昭和50年(1975年)には創業以来で初の赤字を計上した。ヴァンジャケットへの興味を失っていた石津謙介は社長を退いた。

その結果、ヴァンジャケットはバーゲンセールに走り、「VAN」のファンから失望を買った。VANは憧れのブランドから、二束三文の安売りブランドへと転落したのである。

悪い事は続くもので、昭和51年(1976年)には、丸紅の社長・檜山廣がロッキード事件で逮捕された。丸紅は、ヴァンジャケットの商社体制の筆頭であり、経営母体の一角を占めていた。

この年、ヴァンジャケットは支援企業に支援を求め、丸紅・三菱商事・伊藤忠商事から人材を受け入れ、リストラを進めた。

しかし、温暖化の影響で冬物衣料が売れず、赤字は膨らみ、ヴァンジャケットは昭和53年(1978年)4月6日に東京地裁へ会社更生法を申請した。負債総額は500億円で、戦後のアパレル業界では最大の倒産だった。

石津謙介は再建計画を提出したが、丸紅・三菱商事に認められず、泥沼の末、ヴァンジャケットは昭和53年10月12日に破産宣告を受けた。負債総額は350億円だった。

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