安藤宏寿の立志伝

日清食品の創業者・呉百福(安藤百福)の長男で、日清食品の2代目社長を務めた安藤宏寿(あんどう・ひろとし)の立志伝です。

■安藤宏寿の立志伝

安藤宏寿(あんどう・ひろとし)は、昭和5年(1930年)11月24日に日本統治下の台湾で、日清食品の創業者・呉百福(安藤百福)の長男として生まれた。母は第1婦人の呉黄梅である。

安藤という姓は、後に父・呉百福(安藤百福)が日本人に帰化して名乗る名前なので、生まれたときは「呉宏寿」である。

さて、安藤宏寿が生まれたとき、父・呉百福(安藤百福)は台湾で司書をしてたが、司書を辞めて昭和7年(1932年)に「東洋莫大小」を設立し、メリヤスの輸入を開始した。

そして、父・呉百福(安藤百福)はメリヤスの輸入で大成功し、昭和8年(1933年)に大阪の唐物町2丁目に問屋「日東商会」を設立して、第1婦人の呉黄梅と長男・安藤宏寿を台湾に残して、妾・呉金鶯を連れて日本に移住した。

(注釈:当時の台湾は妾制度が残っており、妾・呉金鶯は戸籍にも登録された正式な第2婦人という扱いである。)

しかし、妾・呉金鶯は、日本で呉百福(安藤百福)との間に3人の子供を産んだものの、子供を連れて台湾に帰った。

その後、呉百福(安藤百福)は戦時中に三番目の妻となる日本人・安藤仁子と結婚。戦後は華僑登録して戦勝国民となって特権を得て「日本一の大金持ち」となり、日本で様々な事業を展開した。

しかし、父・呉百福(安藤百福)が理事長を務めていた華僑向け信用組合「大阪華銀」が昭和31年(1956年)に倒産し、父・呉百福(安藤百福)は理事長としての責任を問われ、全財産を失った。

それでも、父・呉百福(安藤百福)は起業意欲を失わず、自宅の庭に小さな小屋を立てて即席めん「チキンラーメン」の開発に取りかかり、昭和33年(1958年)8月25日に即席めん「チキンラーメン」の発売を開始するのだった。

さて、安藤宏寿は母・呉黄梅を台湾に残したまま、小学生の時に日本へ渡った。このとき、父・呉百福(安藤百福)には台湾から連れてきていた妾・呉金鶯が居たので、安藤宏寿はある人物に預けられた。

その後、大阪府池田市の自宅で3番目の妻・安藤仁子と一緒に暮らし、3番目の妻・安藤仁子に良くしてもらった。

さて、安藤宏寿は関西大学を卒業して、日清食品の創業当時からチキンラーメンを売り歩き、日清食品の専務として父・呉百福(安藤百福)の右腕として活躍し、昭和51年(1976年)6月に副社長に就任した。

そのようななか、昭和55年(1980年)父・呉百福(安藤百福)は手術を受けた。手術は成功したが、年齢も71になっていたので、後継者問題を考えたのだろう。

父・呉百福(安藤百福)は昭和56年(1981年)6月に会長に退き、長男の安藤宏寿を社長に昇格させ、次男の安藤宏基を副社長に据えた。

ところが、日清食品の業績は右肩上がりを続けていたにもかかわらず、2年後の昭和58年8月に父・呉百福(安藤百福)は、社長の安藤宏寿を電撃解任し、社長へ復帰した。

この解任騒動は完全な安藤家のお家騒動なので、詳しい事情は不明である。

ただ、安藤宏寿と父・呉百福(安藤百福)は経営者としてのタイプが全く違っており、父・呉百福(安藤百福)の話からすると、安藤宏寿に社長としての責任を負うだけの覚悟が無く、社長在任中から辞めたいと漏らしていたようである。

別説によると、昭和56年10月に明星食品が高級即席麺「中華三昧」を販売したことを切っ掛けに、インスタントラーメン界に高級即席麺ブームが起きていたが、社長の安藤宏寿は経営方針が保守的で動こうとしなかったため、父・呉百福(安藤百福)は日清食品の未来を憂いて安藤宏寿を解任したのだという。

そして、安藤宏寿の社長解任から2年後に、父・呉百福(安藤百福)は次男の安藤宏基が日清食品の社長に就任した。

安藤宏寿は日清食品を辞めて以降、父・呉百福(安藤百福)とは会っておらず、勘当状態で、父・呉百福(安藤百福)の危篤も知らされず、父・呉百福(安藤百福)の死は妹・堀之内明美の電話で知った。

安藤宏寿は通夜に出なかったが、妹・堀之内明美から「1回だけでも顔を出してくれ」と泣かれたので、葬式の日の早朝に葬儀会場を訪れ、死んだ父・呉百福(安藤百福)と再会した。

父・呉百福(安藤百福)は、父・呉百福(安藤百福)が関わっていた公的団体に財産を寄付し、寄付する財産以外の全ては妻・安藤仁子が相続するという遺言書を制作していたので、安藤宏寿は何も相続していないようである。

その後も安藤宏寿は日清食品とは関わらず、平成19年(2007年)6月26日に膵臓ガンで死去した。76歳だった。妻は安藤妙子、長男は安藤芳徳、次男は安藤光信。

スポンサードリンク